その54 『おまえ、あの祠を壊したんか!?』
『おまえ、あの祠を壊したんか!?』っていうネットミームありますよね。
実は私、あれを本当に言われたことがありまして(笑)
ええ(笑) 壊したんですよ、私。祠を(笑)
お話するのはそのときの話です。
私が中学生のころでした。
私の出身は、兵庫県にある、いわゆる限界集落といってもいいくらいの田舎で………全体でも人口は150人いなかったと思います。とにかく山あいの小さな集落で。コンビニどころか、満足なガスや下水すらない家がほとんどでした。
でも私の祖父の家は、そんななかでも不自然なくらい裕福な家でした。聞いた話では、周りの山々に出る温泉の権利を持っているそうで、その湯を利用している旅館やホテルたちからお金が払われているそうでした。
家にはお手伝いさんが何人もいて、完璧に剪定された植え込みに囲まれた庭はサッカーができるくらいに広い。
駐車場には田舎の風景に似つかわしくないフェラーリやポルシェが何台もあって、同居している働いていない叔父が、よく乗り回していました。叔父は筋トレが趣味でしたからガタイもよく、外国の大きな車がよく似合いました……。
祖父からもらうお小遣いの茶封筒は、テーブルにすんなり立たなかったことはないくらいです。
家には大きな冷蔵庫にみずみずしい高級フルーツがいつもなんでも揃っていて、真冬にスイカが食べたいと言っても、すぐにひとり分が切り分けられて出てくるような家でした。
私と両親は、普段は街のほうに住んでいましたから………そんな祖父の家に帰省するのが楽しみで。
その年のお盆も、とてもわくわくしながら祖父の家で数日過ごすことになったんです。
祖父は毎年そうであるように、そのときもニコニコしながら迎えてくれました。祖母も"不便なところによく来たねぇ"と、微笑みながら私の頭を撫でてくれたおぼえがあります。
私も祖父母のことは大好きでしたから、満面の笑顔でかえしました。
母はしつこいくらいにペコペコしていて、父はそんな母を肘で小突きながら、わざわざお手伝いさんがいるのに、自分の荷物を部屋に運ばせたりしていました。
私には高校生の兄がひとりいて、一緒にいたのですが、そんな兄は祖父母と顔を合わせてもニコリともせず、ずっとケータイでどこかのサイトを見ていたと思います。
このころはまだスマートフォンはありませんでしたから………彼が何をしているのかわからなくて、私は内心、兄を不気味に思っていました。
でも、そんな兄が"一緒に山へ行かないか"と言ってくれたときは、やっぱり嬉しかったんですよ………。
3日目の夕方のことでした。
朝から祖父母と一緒にたくさんお菓子を食べたりしていた私は、お昼ごはんの寿司をたらふく平らげたあと、涼しい風の通る和室で昼寝をしていました。
こつん、と頭がこづかれる感覚があって目を覚ますと、なぜか、兄が真剣な表情で私の顔を覗きこんでいました。
"おい、一緒に山にいくぞ"と兄は言いました。
私は寝ぼけなまこをこすりながら身を起こしましたが、ふと、家の中がいつもより静かなことに気がつきました。そのことを兄に訊くと、"父さんたちとじいちゃんたちは買い物に出てる"と教えてくれました。
そして兄は、"だから今がチャンスなんだ。急ぐぞ"と続けました。
いったい何の話か分かりませんでしたが、兄が急かすので、私も急いで準備をしました。途中、お手伝いのおばさんに"おぼっちゃま方、どちらへ?"と訊かれましたが、兄は"ちょっとそのへん走ってくるだけ! すぐ戻る!"と勢いよく返すだけでした。
私は兄に連れられて門を出ました。自転車に乗れと言われたので、ふたりしてそれぞれ自転車で夏の田舎道を走りました………。
明るい田んぼ沿いのあぜ道。強い日差しを受けて落ちる木製電柱や建物の濃い影。視界の上半分を埋めつくす青い空と、そこに鎮座する真っ白な入道雲。活力に満ちた緑色の山々の稜線。
遠方から取り囲んで聞こえるセミたちの鳴き声に、山の上から吹きおろす爽やかな風。半袖シャツから露出した肌がその風に触れて、汗をかいているのに爽やかな感覚………。
自分の少し前方を走る、自転車に乗った大きな兄の背中と、追いつかれまいとペダルを踏む幼き日の私………。
すべて、目と耳に焼きついています。
やがて兄と私は、とある山のふもとに自転車を止めました。そこからはちょっとした登山道のように階段が伸びていますが、曲がりくねっているので先は見えません。入り口は杭とトラロープで封鎖されているようでしたが、兄はそれをひょいと乗り越え、ずんずんとその先へ進んでいってしまいました。
私は兄の目的が未だにわかりませんでしたが、とにかくおいていかれないようにその階段を上がりました。
ほんの数分、階段を上がると、広場に出ました。
広場はきちんと整備されているようで、なかなかの広さがあります。ちょっとした集会くらいはできそうなほどです。土の地面に落ち葉はあまりなく、周囲の木々の枝葉がドームのように伸びて、薄暗いけれど涼し気な場所でした。
"これだ"と兄が言いました。
私が兄の指差す先を見ると、そこにあの『祠』があったんです。
その祠の大きさは、当時中学生の私の胸の高さくらいでした。屋根も壁もすべてが石で作られていて、ところどころ苔むしています。平たい石の基礎のうえに建てられていて、びくともしなさそうな印象です。
正面の部分は扉になっているようでしたが、そこは大きめの石であとから塞がれたようになっていて、容易には開きそうにない印象でした。
祠の前には、一見おはぎか何かに見える供えものが置かれていましたが………たくさんの羽虫がたかっています。
近づいて、私は顔をしかめました。どうやら供えられているものは生肉のようなのです。だいたい拳くらいの大きさの、豚だか牛だかわからない肉の塊が、白い皿に乗って置かれているようです。
神秘的な雰囲気に満ちた場所に、明らかに意図的に置かれたその汚物が、私にはひどく不気味に見えました………。
"おい、おまえは、おれたちがどうしてこんなに金持ちなのか知ってるか"と、兄は言いました。その表情には複雑なものが見えて、なんだか断固たる決意めいたものまで感じられました。
私は"おじいちゃんが、このあたりの温泉の権利を持っているからでしょう?"と返すと、兄は首をふります。
"いいや、そうだけど、そうじゃない。おれたち一族がその権利を持てているのは、ここの『神さま』のおかげなんだ。一昨年、じいちゃんが教えてくれた。"…………兄は言いました。
"ここの神さまがおれたちを守ってくれるから、『幸福』がおれたちのもとに舞い込んでくるんだ。そういう流れ………運命を、この神さまはもたらしてくれるんだってよ。"
絶句する私を無視して、兄は続けます。
"このデカい生肉だって、昨日父さんたちが供えたんだ。ここの神さまを信仰してる証拠だ!"…………直後、兄はすばやく動き、その供えものの生肉を蹴飛ばしました!
肉は嫌な音を立てながら近くの茂みの中へ消えました。突然のことに私がびっくりしていると、兄はこちらを振り向き、私に向かって大きな声をあげます。
"一緒に壊すぞ!
こんなクソ神さまのクソ迷信がある限り、おれたちはずっとこんなクソ田舎に縛られなきゃいけないんだ!
俺たちが財産を相続しても、どんなに山ほどの金があっても、動物のクソと土まみれの泥道をバカみてぇに派手なスポーツカーで走り回る以外にやることがなかったら、それはクソクソクソカス人生だ!!"
兄は怒り狂っていました。
私は兄の中にこんな激しい怒りと不満の感情があるなんて、それまで考えもしなかったものですから、頭はまっしろ、体は恐怖に固まってしまって………兄はそんな私を見て、舌打ちをしました。
きっと意気地なしだと思われたのでしょう。兄は私から顔をそむけ、その祠を力強く足蹴にしました。
ずっしりと重いその祠は、何回かは蹴られても耐えていましたが、やがて兄が衝撃の反動を利用しはじめるとすぐに屋根がグラグラと揺れだして…………。
潰れるように崩れるまで、さほど時間はかかりませんでした。
ガラガラという音がして、一部の部品がわれるのも見えました。さっきまであった立派な石造りの祠は、あっという間に、平たい石の上に乗ったがれきの山へ姿を変えてしまっていました………。
直後です。
広場をとりかこむ木々たちがいきなりざわざわと騒がしくなり、私たちのあいだを、鳥肌が立つくらいに冷たい風が吹き抜けるのを感じました。その風はとても臭く、鼻の奥にぴりぴりと刺激が残るくらいで…………二酸化硫黄のそれに似ていたと、今ならわかります。
私はますます恐ろしくなりまして、兄に"ねぇ、もう帰ろうよ!"と声をかけました。兄もただならぬ雰囲気を感じとったのか、自分たちを見下ろす木々の枝葉をキョロキョロと見上げながら、あいまいにうなずきました。萎縮しているのはあきらかでした。
私たちは急いで階段をおり、自転車でその場を離れました………。帰り道に会話はなく、ふたりとも何も言わずとも、このことは秘密にしようという約束が、無言のうちに交わされていました…………。
ことが起こったのは、夕食の席です。
祖父母と叔父、そして両親と兄と私は、広い和室の居間に集っていました。いくつかの低いテーブルをつなげて大きな長机のようにして、その上にお手伝いさんが作ってくれた様々な料理が次々と運ばれてきます。
大皿いっぱいの野菜の天ぷらに、ざるに山盛りの素麺。根菜たっぷりの茶色い煮物に、分厚くて柔らかいステーキ…………蒸されて黄金に輝くとうもろこしと、皮に細やかな彫刻がされたりんごや、瑞々しい梨…………祖父母たちがどれほど私たちを歓迎してくれているかがよくわかる献立でしたが、このときばかりは、それがかえって私の胸を苦しくさせていました。
これほどに私たちを愛してくれる祖父母の大切なあの祠を、私たちは壊してしまったのですから。
私は口数少なく、ただ黙々と山ほどの料理を食べていました。兄も口数は少なかったですが、それは普段からそうなので、彼の心中はわかりません。祖父と叔父と父は座布団のうえにあぐらをかき、とっくりを何本も空けています。祖母や母はその脇につき、空いたお猪口に酒を注いだりしながら、スキを見てご飯を口に隠すようでした………。
ふと、お手伝いさんのひとりが遠慮がちに居間に現れ、祖父に何やら耳打ちしたのが見えました。
直後、お酒で真っ赤だった祖父の顔はさっと青く変色し、やおら立ち上がったのです。
祖父は眉間にシワを寄せ、高いところからじろりと、その場の全員を見渡しました。
"『祠』が壊されたぞ"
祖父のことばに、私の心臓は縮み上がりました………。
"地震じゃない。そんなもんはなかった。
風じゃない。あの祠は石造りだ。
獣じゃない。供えもんが食われてなかった。
よそ者じゃない。この集落によそ者が近づいたらすぐわかる。
集落のもんじゃない。おれらに睨まれたらどうなるか、このあたりで知らんもんはおらん。
ということは、この中の誰かがやったんだ。知ってるか。"
祖父はそこで息を次ぎ、
"神さまに詫びなきゃならん。
生贄を捧げなきゃならん。
犯人が見つからなきゃ、おれが生贄を決めるぞ"
…………祖父の声色は驚くほど冷たく、しかし明らかな怒気に満ちていました。いつもニコニコとして冗談ばかり言っている普段の祖父とは真逆のその様子に、私はようやく、兄がしでかしたことの重大さが身にしみました………。
息が詰まる沈黙がおりました。その場の人間はみな互いに疑いの眼差しを向けあっていました。まるで刃物を突きつけあっているような緊張感は、子供の身には耐え難く………私は全身を緊張させて拳を握り、床の畳を眺めているだけしかできませんでした。
やがて、私の耳に聞こえた言葉がありました。
"こいつがやった!"
驚いて顔を上げると、兄でした。兄は座ったまま無表情で私を指さしていました。私は彼の言葉の意味がわからず、頭が真っ白になっていました………。
そして祖父が、怒りに満ちた声で怒鳴り散らしたのです。
"『おまえ、あの祠を壊したんか!?』"
勢いよく立ち上がったのは叔父でした。叔父はその鍛えられた体でひょいと食卓を飛び越えて、一瞬で私の眼の前に着地しました。
私が彼を見上げて何か喋る間もなく、叔父は痛いほどの力で私の肩を掴み、素早く、その太い両腕を私の首に回したのです。
数分前まで想像もしていなかった状況に私は混乱し、めちゃくちゃに手足を動かして何か叫ぼうとした覚えがありますが、それはかえって、気絶するまでの時間を短くするだけでした………。
私は意識を失いました。
………目覚めたとき、まず私が最初に感じたのは、自分の姿勢の違和感でした。
私は土の地面に両膝をつかされて、上半身はうなだれたような姿勢でいました。しかしそれは自然とそうなっているのではなく、ももやすね、上半身など……からだ中に回された複雑なロープによって、無理やりその姿勢にされているのです。後ろに回された両腕も、手首のところで痛いほどきつく縛られているのを感じます。
頭はかろうじて自由に動かせましたが、口元には丈夫な布の猿ぐつわを噛まされているのが、舌と頬の窮屈さでわかりました。
状況は異様でした。
どうやら自分は昼間訪れたあの山の広場にいるらしかったです。私の後方には大きな篝火が焚かれているらしく、夜闇を照らす揺らめく光と、背中に感じる熱がその存在を感じさせました。私の影は低く長く前方に伸びていて、頭の部分は、見覚えのある場所にかかっていました。
あの『祠』があった場所です。
平たい大きな石の基礎部分にあった残骸は除かれて、代わりに、丸い石がいくつも段々に重ねられて山が作られています。真ん中あたりにはしめ縄のようなものが巻かれていました。
積まれた石たちの影は、篝火が揺らめくたびに微妙にそのかたちを変えて…………わずかに動いているかのような錯覚すらおぼえさせます。
唐突に私はハッとしました。自分がどうしてこんなことになっているのか、頭に酸素がいってようやく思い出したのです。私は精いっぱい身をよじり、後ろを見ようとしました。
私の肩越しに見えた光景は、恐ろしくてたまらないものでした……。
山の広場の中央には、やはりキャンプファイヤーのような大きな篝火が燃えていました。炎の周囲の地面には数人の人間が、私とは違って、自ら地面に膝をつき頭を垂れているのが見えます。炎の光と濃い影は、まるで彼らを彫刻のように生気のないものに見せていました。
彼らには見覚えがありました。さっきまで一緒に食卓を囲んでいたのですから………。
祖父母と、両親、叔父、兄、それと数人のお手伝いさんたち…………。彼らがみな地面に跪き、許しを乞うような姿勢のままじっとしているのが見えるのです。
私はとにかく声をあげようとしましたが、猿ぐつわのせいで唸るような声しかあげられません。しかしその声は聞こえたようで、いちばん私に近い場所にいた人物が顔を上げました。
祖父でした。彼は私が目覚めたことに気がつくと、足に力をこめて、片足ずつ立ち上がりました………。
"はじめるぞ"祖父はそう言うと、私の前方へ進み出ました。石の山に向けて一礼し、その前に立つと、体の向きをこちらに変えました。
炎の灯りに照らされた表情は、まるで石づくりのように固く、冷たく………。彼はほかの家族たちに向けて大きな声で語りかけました。
"今から捧げる! 一緒に唱えろ!"
そして祖父は再び石の山へ体を向けて両膝をつくと、両手を合わせて、むにゃむにゃと何やら呪文のような声をあげはじめました。その声は読経にも似ていましたが、古い唄にも似た大きな抑揚と独特なリズムを備えたもので、ふだん人間の世界で耳にするあらゆる音と異なっていました。
その呪文は、少し遅れて、私の後ろからも聞こえてきました。集まった家族たちがひとりずつ続けて唄っているのです。その唄自体は短いフレーズのようでしたが、ひとつ唱え終わるとまたすぐに最初に戻って、輪唱のように少しズレたかたちで途切れることなく続いていきます………。
私は、その呪文を聞き続けていると、なんだか頭がくらくらしてきました…………。耳を塞ぐこともできないので、頭をぶんぶん振りましたが、当然、そんなことで振り払うこともできず、耳から入り込み、頭の中で延々と繰り返される呪文が、体の隅々まで浸透していくような………そんな、不思議な感覚におそわれていました。
そんな状況が数分続き………。
やがてさらなる異変がおこりました。
私の場所からは、地面に膝をつく祖父の背中が見えていて、さらにその先に例の石の山が見えていたのですが…………。
その石山の頂点にある石が、いきなりガラリと転げ落ちたのです。
広場に緊張がはしるのがわかりました。
石はさらにいくつか山から転げ落ち、軽い音をたてて地面に転がります。
そうして欠けた山の頂点から、ぬっと現れました。
腕です。
人間の腕のようなものが、石山の頂点からいきなり生えてきたのです。
しかしそれは明らかに人間のものではありませんでした。
なぜならその腕は、腕だけであきらかに私の身長以上はあるほど長く、骨と皮だけのように細く、おもちゃの蛇のように半端に関節が多く、そして不自然なほどに黄色かったのです。その色は暗闇の中でもはっきり鮮やかで、炎の光を反射しているようにも見えず、くっきりと、まるで合成写真のような不自然さで存在していました
さらにはその『腕』が出現した瞬間から、あたりには異様な悪臭が漂いはじめていました。それは昼間ここで嗅いだものと同じ臭いで、鼻の奥や舌先がぴりぴりとするような刺激を伴っていました。
"おお"と祖父は声をあげ、呪文をやめました。後ろの家族たちも静かになり、広場には再び沈黙がおりました………。
"お詫びいたします。
お詫びいたします。
我が一族の無礼をお詫びいたします。
代償として、血族の血肉を捧げます。
どうかお慈悲をくださいませ。
どうかお許しくださいませ。"
…………祖父はそう唱えながら、地面に額を打ちつけました。おそらく顔面は土まみれになっているでしょう。神の前とはいえ、それほど卑屈に平身低頭している老人の姿が、私にはこれ以上なく哀れに思えて…………同時に、こんな哀れな存在に、『代償』として捧げられそうになっている自分の身が、ますます情けなく思えてしまいました。
『腕』はしばらくのあいだ、煙が立ち上るように、静かにその場に揺らめいていましたが………不意に大きくその身を曲げました。手のひらをこちらに向けて、指を目いっぱいに伸ばして………祖父の体の上を横切って、私の顔のすぐ前まで迫ってきたのです。
"(ああ、私は死ぬのか)"と、眼前の黄色い手のひらと強い悪臭を嗅ぎながら、私は思いました。
『腕』は手のひらを私に向けたまま、じっと固まったままです。品定めでもされているのか………顔も目もないので、感情や意図を推し量れる部分が何もなく、不気味そのものでした。
だがしかしなぜか、つよい恐怖はそこまで感じなかったのです。
"(首を絞められて殺されるのだろうか)"と私は思いました。異常な状況にたて続けにさらされ続けたせいか、逆に頭は冷えていました。
"(今朝起きたときはこんなことになるなんて思ってなかった)"そういう想いが胸によぎると同時に、これまでの楽しかった思い出が頭に去来します………。
まばゆい日差しのなか、両親とやった水遊び…………祖父母がくれた山ほどのお菓子……………高級車で一緒にドライブに連れて行ってくれた叔父…………宿題を教えてくれた兄………………。
………すべてに怒りをおぼえました。
"(みんな、私に死ねばいいと思っている)"。
腹が立ちました。
この異臭の神の手のひらのうえで生き続けるために、私を犠牲にしようとしている家族たちが許せませんでした。
奴らは札束と私の命を天秤にかけ、あっさりと金をとったのです。私の命を惜しむ様子を微塵もみせず………まるでゴミを捨てるように私を差し出したのです。
今まで彼らが見せていた愛情らしきものは本当は存在しなかったに違いありませんでした。今まで行われていたことは、『家族であるから、家族らしいことをしよう』という義務感から現れたまやかしでしかなかったのです。彼らの心に血は通っていないのです。だからこんなことができるのです。
許せませんでした。
私は家族を愛していました。彼らの愛情が本物であることを信じ、それに報いたいと思っていました。でもそれはウソでした。家族は私を裏切ったのです。愛しているなら、守ろうとしてくれるはずなのに。
とくに許せないのは兄でした。祠を壊したのは兄なのに、私にすべてを押しつけて逃げおおせようとしています。死ぬべきは兄のほうなのに、保身のために私を平然と裏切って、心無い謝罪をこの腕の神に捧げています。それで済まされると思っています。
"(死ねばいいのに)"
そう思いました。
すると………眼の前の『腕』がぴくりと動きました。真っ黄色の手のひらはこちらに向けたまま、異様に長く関節の多い指たちがうねうねと動いています。
その動きは、まるで私を促すようでした。
私は理解しました。
この神は、私の言葉を待っていると。
猿ぐつわのために私は言葉を発することはできませんでしたが…………音声は必要ありませんでした。
私は頭の中で叫んだのです。
""お詫びいたします!
お詫びいたします!
我が兄の無礼をお詫びいたします!
代償として、みんなの血肉を捧げます!
どうかお慈悲をくださいませ!
どうかお許しくださいませ!
みなを殺してくださいませ!"
そして、神さまはその願いを聞き入れてくださいました。
私が願った直後、石山が大きく崩れ、その下からさらに何本もの『腕』たちが現れました。数え切れないほどの『腕』たちは素早く周囲に伸びて、私の頭上を真っ黄色に覆い尽くします。
その内の一本が、私の前にいる祖父の首元に伸びました。
祖父は『腕』に力強く首を締められていました。彼はばたばたと手足を動かして、全力で振り払おうとしていましたが、『腕』はびくともしません。祖父の顔は真っ赤に充血し、声にならない叫びをあげていました。ばさばさと土埃を起こしながら暴れるのも長くは続かず、やがてぐったりとして動かなくなりました。
私の後方でも同じことが起こっているようでした。何人もの人間たちが悶え苦しむ気配が背中に感じられます。家族たちが皆殺しにされる感覚は………そのときの私には、これ以上ない快感でした。
裏切り者たちが次々と死んでいく気配はたまらなく気持ちよくて………。
私は自ら地面に額をつけました。
"(ありがとうございます。
ありがとうございます。
殺してくれてありがとうございます。
私は一生この身をあなたに捧げます。
私は絶対にこの恩に報います。
あなたを敬います。
あなたのためならなんでもいたします………)"そんなことを必死になって、何度も唱え続けた覚えがあります。
悪臭はますます酷くなり、目をつぶっていても目が痒く、肌は全身がビリビリと痛みました。しかしそれらの苦痛も、『腕』が私の首に手をかけないでいてくれる証で………神さまの愛情そのものでした…………。
…………気がつくと、朝になっていました。
気絶したのか、眠ってしまったのか………分かりませんでしたが、私はひどい頭痛を感じていました。
『腕』の姿はどこにもなく、眼の前には崩れた石山と、祖父の死体があるだけです。私は朝のやわらかな光のなか、長い時間をかけて、地面に転がっていた石で腕のロープを切断しました。そのまま身体を拘束していたロープも解きました。
そして、ようやくちゃんと広場を見回すことができました。
みんな死んでいました。
炭になった篝火の痕跡の周囲に、いくつも死体が転がっています。祖母と、父と、母と、叔父と、兄と、数人のお手伝いさんたちです。みんなの死体はとても悶え苦しんで暴れまわった痕跡に満ちていて………苦痛と恐怖がくっきりと、その表情と傷だらけの体に刻まれていました。
私は兄の死体をまたぎ、ふらふらと広場を出て、階段を降りました。家族の死体のことなんかどうでもいいから、とにかく休みたくてたまりませんでした…………。
しかし、朝の田舎道をひとりで歩いているうちに、違和感を覚えたのです。
まず、臭いのです。
田舎というものはとにかくいろいろな臭いに満ちていますが………そのとき集落全体に漂っていた臭いというものは、昨夜あの広場に満ちていた、『腕』のものとそっくりでした。かなり薄くなっていて刺激はありませんでしたが、鼻の奥にこびりつくような不快感は間違いありませんでした。
ふたつ目の違和感は、とにかく静かなことでした。
普段なら、朝の田舎の道は生き物の気配に溢れていて、鳥の鳴き声や、無数の虫の羽音、蛙の鳴き声に、自動車の音や人の話し声というものが常にうるさくてたまらないのですが、このときばかりはそういうものがいっさいなく…………ただ風が吹き抜けて草木がさわさわとざわめく音だけが、晴れた空の下でかき消えていました………。
私はその中を、ひとり曖昧な意識のまま、ゆらゆらと歩き続けていました……。草木生い茂る畑を分断する土の道を、ただ独り…………。
なんとか祖父の家にたどり着いたころでした。
遠方から聞き慣れた音が聞こえました。
私は門扉の前に立ち、ぼんやりとそちらに顔を向けます。
はるか道の遠方から何かが近づいてくるのが見えます。しかしそのころには私の目は疲労のために霞んでいて、もはやはっきり見えません。でも辺りに響き渡る人工的な音はその正体を明確に示していました………。
(救急車だ)
………それが、私が疲労でその場に崩れ落ちる前にした、最後の思考でした。
………目覚めると、私は病院のベッドに寝かされていました。
数日そのまま入院し、体力を取り戻したころ、警察からあの集落で何があったかを聞かされたのです。
あの集落は、突如山の中腹から噴き出した火山ガスにより、住人が全滅してしまったそうでした。
少なくとも100人以上は住んでいたあの集落全体が、ひと晩のうちに多量の毒ガスで覆われて、住人がみな窒息死してしまったのですから、大きな騒ぎになりまして………。
私の家族の死もそのどさくさにまぎれて、そこまで深く調べられませんでした。
私はしばらくのあいだ、無遠慮なマスコミなどから逃げるように生活し、やがて正式に家族の遺産を相続するに至ったのです。
…………あれから数十年が経ちましたが、いまも私は、祖父母が遺した温泉の権利によって、多くのお金を得ています。
そして、祖父母から引き継いだあの屋敷に住んでいます。もちろん祠も再建しましたし、いまも大切に毎日手入れをして暮らしています。
きっと、彼らも私と同じような感覚だったのでしょう。
あの『腕』からは逃れられませんが………逃れる必要もないのです。田舎暮しは不便ですけど、信仰を守っている限り、幸福は保証されているのですから。
でも、もうあの集落には私以外誰も住んでいません。そんなところにあらたに暮らそうと思うような人間もいませんから、私に子供はおりません。
だからこの信仰も、私が死んだら絶えます。
………誰も信仰せず、管理するもののいなくなった『祠』は、きっとすぐに崩れてしまうでしょう。
そうなったとき………
あの『腕』はいったい、誰に向かって差し伸べられることになるのでしょうね?
………まぁ、そのときには私はもういませんし
『おまえ、あの祠を壊したんか!?』なんて、気にする必要もないのですけれど(笑)




