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兎跳び

作者: 異

 僕はうさぎを見た。かといって公園や学校の飼育小屋で見たわけじゃない。僕の住んでいる街が大時化に襲われた時、確かに僕は見たんだ。あの全てを吹き飛ばしてしまいそうな波の中、ゴーグルを着けて。あの荒波の中でサーフボードに飛び乗っていた。信じろというのも無理な話だと僕も思う。でも確かに見たのだ。


 僕が住んでいる場所は海が近い。そのため波の影響を受けやすい土地だ。波が高い時なんかは仕事や学校も休みになることが多い。大雨に日に外出はしない。それがこの町の暗黙のルールだった。そんなある日、大時化が来ると連絡が入った。大人も子供もやっている用事を切り上げて、早々に家に帰って行った。もちろん僕も例に漏れず学校から自宅への帰路についていた。だが、ふと防波堤に目をやると、コンクリートを削り取るような高波の中に白い何かが見えた。僕は好奇心に支配され少し近づいてみた。初めは波の飛沫だと思った。しかし、 目を凝らしてみると波などではなかった。うさぎだ。打ち上げる飛沫の中、雪原のような体毛をきらめかせていた。僕は目を離すこともその場所を動くことも出来なかった。見惚れているとゴーグル越しの真っ赤な瞳と目が合った。こちらを一瞥したかと思うと小脇に抱えていたサーフボードに乗り込み波の中へと消えていった。うさぎのサーフィンを見た。しかも大時化の波の中をぴょんぴょんと跳ね回っていた。こんな光景を僕の胸のうちに焼き付けておくのは無理だった。会う人皆にこの話をした。だが聞いた人のほとんどに眉をひそめられた。まず僕は一家の大黒柱でもある父さんにこの話をした。父さんには

「大時化の中でうさぎがサーフィンしてた? 母さん、体温計持ってきてくれ。うちの息子が熱を出しちまった」と心配された。

母さんには「そういえばアンタ。この前の大雨の時に外で何してたのさ。うさぎを見てた? 父さん薬箱持ってきて。お布団も敷いてあげて。私はお医者さんに予約の電話入れるから」

 やっぱり心配された。二人の全く同じ反応に熱はないけど頭が痛くなってきた。

「よかったね。凪丸」

和室の方から穏やかに、心地よく耳に響いていくような声がした。

「それはきっと海を渡り歩く波兎だよ。坊やは海の守り神を見たんだよ」

 おばあちゃんは信じてくれた。おばあちゃんはこの街の伝説や伝統なんかを僕によく話してくれる。手も顔もしわくちゃだが、話をしてくれている時の深く刻まれた皺の奥の瞳から

冒険を夢見る子供のような眩しい灯りを覗かせている。僕はその灯りを見るのが好きだ。

「息子に変なこと教えないでくれ」

そう言うと父さんは僕の肩に手を置いた

「いいかい凪丸。強い波が堤防や岩山に打ちつけた時なんかに白い飛    沫が打ち上げるんだ。きっとお前はそれをうさぎだと勘違いしたんだ」

 子供を諭すような言い方に子供ながら腹が立った。一般的な理屈として考えた場合、父さんの意見は正しいのだろう。だが、納得できなかった。あれはどう見てもうさぎだった。比喩なんかでもなく、波に乗ってゴーグルまで着けていたんだから。学校でもこの話をクラスの皆んなにしたが、誰も信じてくれなかった。むしろ言えばいうほど腫れ物を見るような目で見られた。本当のことを言っても信じて貰えない。こんなにも憤りを覚えたのは人生で初めてだった。僕は以前に図書館でたまたま手に取ったオオカミ少年の話を思い出した。彼の気持ちが少し分かった気がした。別に今まで嘘をついていたことはないけど。それから僕は嘘つき扱いされるのに嫌気が差し、この話を胸の奥にしまい込もうと決めた。しばらくの間、学校の授業に身が入らなかった。僕の心は兎と共にあの波に流されてしまった。


 幾日かたった日のホームルームで日直による挨拶が終わった後、教師が神妙な面持ちで教段に立った。あの教師があんな顔をする時に話す内容はもう決まっている。そのためクラス内の空気が騒めき始めた。教師はバタンと出席簿を教卓に叩き付け、口を開き始めた。

「学校からの連絡事項だ。明日、明後日は休校をとする。また大きな波がやって来るらしい。水辺には絶対近づかず自宅にて待機せよとのことだ」

 クラスから小さな歓声が上がった。だが次の一言でシーンと静まり返ることとなった。

「もちろん、二日分の宿題もしっかり出すからな。家でちゃんと勉強してろよ」

 先生はクラス全員から注がれる不満の眼差しから目を逸らし、僕の方をチラリと見た。

「特に凪丸くん。君は以前の大時化の時にも外に出ていたらしいね。分かってるのかな? 君の小さな体ではあっという間に吹き飛ばされてしまうよ。それにね……」

 そこから先生に何を言われたかは覚えていない。家でも外でも口を

酸っぱくして言われ続けたことだったため耳が寝てしまったのか。それとも再び兎に会えるという淡い期待で頭がいっぱいで話が耳からすり抜けて行ったのか。どちらにせよ僕は帰路に着いていた。帰り道では泣き出しそうな空の下、湿った土のような香りが鼻をくすぐった。

家に着くと母は外かけた洗濯物を手早く取り込んでいた。僕が帰ってきたことに気がつくとパタパタとこちらに駆け寄ってきた。

「この空気の感じだと今日にも降ってくるわ。今度はちゃんと家の中に居てね。次にまた大雨の日に海になんか近づいたら風邪をひくだけじゃ済まなくなるわよ」

 と優しく語りかけるような口調で言われた。嘘つき呼ばわりされて気が滅入っていたのもある。この母の言葉はひび割れた僕の胸に染み込んだ。だがそれ以上にあの波の中を自由に飛び回る彼の自由な姿をもう一度見てみたかった。母の予想通り日が暮れ始めるとポツポツと雨粒が乾いた地面に水玉模様が浮き上がらせた。


「これは前のより荒れるな」

 仕事から帰った父は開口一番にそう言うとカバンを下ろした。家族での食事を終えると父に一番風呂を取られた悔しさと共に風呂に浸かった。布団に入り豪雨による鈍い音を立てる屋根の音を聞きながら、夜が更けていくにつれて雨はさらに勢いを増していると分かった。だが、僕の欲望を阻止する障害には成り得なかった。僕は布団から一枚一枚捲りながら起き上がり、家族を起こさないよう細心の注意を払いながら廊下を渡り、裏庭にはへと続く扉を開けた。僕の家には古い蔵がある。時間や雨風に耐え、ひび割れながらも家と共に連れ添った貫禄を感じさせる佇まいをしている。仕舞われている物の中には役立つものもあれば、なぜ残しておくのか理由を問いたくなるガラクタも詰まっている。取手は冷え切っており開けようとするとギシギシと軋む木製の扉はひどく重たい。まるでこれから僕がやろうとしていることを拒絶しているように思えた。人が一人乗れそうな小舟と着るには少し小さい雨合羽を蔵から引き摺り出した。雨合羽の上からでもわかるほどの雨粒の衝撃を受けながら小舟を荒れ狂う海の元へ運んでいく。水を吸った砂浜は小舟を引き摺る際にできる跡を残していた。

 海に小舟を浮かべると頼りないながらもヨタヨタと水面で立ち上

がってくれた。幸いなことに水にうかべただけで崩壊するほど耐久力は落ちていないらしい。飛び乗ったと同時に水をたっぷり吸い込んだ雨合羽が重石となりバランスを保っている。だが、一度海に出た瞬間、かつて体験したことのない揺れに襲われた。蔵の中に長いこと手入れも碌にされていないであろうボロ船はあっという間に荒波の中で揉みくちゃにされ、ただの木片と化した。船という寄る辺を、失った僕は海の中に投げ出された。大時化の中に投げ出された瞬間走馬灯かのように父さんがしていた話を思い出した。

 こんな場所にうさぎなんかいる訳がない。そして僕だってこんな場所に居るべきではない。少なくとも簡単な約束すら守れない子供が立ち入っていい場所ではなかった。遅すぎる後悔と共に僕の意識が水の中に溶け出していく。波に揉まれて、波が僕の内側も外側さえも満たしていくように思えた。だがそれでも尚、あの日に見たうさぎが本当に婆ちゃんの言う波兎であるならば「会ってみたい」という欲望が自身のうちから湧き出したように感じた。

 その時、何かが僕の右腕をがっちりと摑んでいた。その手はフサフサとした触り心地、でも確かな力強さを覚えた。ズルズルズルと体が引きずられるような感覚が僕を夢の世界から引き戻した。


 僕は死んだのだろうか。親との約束を破り、船を勝手に持ち出して。あまつさえ壊したのだ。その制裁を受けさせられるのだろうかと思った。あんなモフモフの手が地獄の鬼の手とは思えない。

「おい。生きてるか? 」

 どすの利いた威圧感のある声で誰かが僕に呼びかけている。なんとか体を起こし、声の主の顔を見て驚いた。兎だ。紛れもなく。海外のアニメーションのようなデフォルメ化されているわけでもなく。あの日に見た真っ赤な瞳の兎だ。背は高く、目つきは鋭く、競泳選手が来ているような水着で全身を包み首にはゴーグルを掛けている。加えて服越しからでもわかるほどの恵まれた体格で世間一般がうさぎに持っている「愛くるしい、可愛い」というイメージからは遠くかけ離れ、「荒々しい、かっこいい」という評価が相応しいと感じる装いだった。僕が不思議そうに眺めていると彼は真一文字に閉じていた口をゆっくりと開き、話し始めた

「この服装か? 俺は全身の毛がモフモフだからな。海パンだけだと水に入れないんだ」

「それよりも人間がなんで大時化の日に海に出ているんだ? 」

穏やかな口調でごく当たり前の質問をされてしまった。僕は同じような大時化の日の海で兎の姿をみてしまったこと、お婆ちゃんから波兎の伝説を聞かされたこと、もう一度あなたに会ってみたかったことを包み隠さず話した。

「まさか俺のことを語り継いでいる奴がまだいるなんてな。まあ、俺がここに立ち寄ったのもそんな人間がいるからなんだけどな」

 兎は両腕を組み直し、照れ臭そうな笑みを浮かべた。

「いかにも俺が波兎だ。だが、そんな仰々しい名前は好きじゃないんだ。とりあえず今はハトで通してる。どう? カッコいいだろう」

僕は通学路の途中にある公園で野生のハトに豆をまいているおじいさんの姿を思い出した。

教えた方が良いのだろうか。と一瞬考えたが、こんな得意げな顔をしている人に指摘するのも忍びないと口をつぐんだ。

「ところで俺に会いたかったっていう覚悟は認めてやる。だがな勇気と無謀を履き違えるのはいけないことだぜ」

 彼は目を細めながらこちらをじっと見つめていた。その目にはわずかながらだが怒りがこもっているように思えた。大時化の中で死にかけたこと、海の中と思われる空間で兎と話していること、僕はどうなっているのか、あまりの情報量の多さに思考を手放しかけていた。だが、思いとどまった。思いとどまる理由を思い出した。朦朧とする意識の中で腹の底から搾り出すようなか細い声で僕の願いが飛び出した。

「僕も兎にしてください。自由に波を感じるあなたの姿を見て憧れてしまったんです」

 それを聴きうさぎは赤くて丸い目を皿のように大きく見開いて僕を睨みつけた。

「ダメだな」

「少なくとも自分が泳げる波かも理解できずに無策で飛び込んでくるようなやつは兎にはなれないな」というと僕の胸ぐらを摑みグッと顔の近くに引き寄せた。

「今回は助けてやる。だがいいな。これは俺の気まぐれだってことを忘れるなよ」

「俺みたいに波を見るんだったら、もっとデカくなってから来るんだな。」

 聞き終わったと同時に僕の体を真っ白な泡が包み込んでいく。荒らしくも優しく僕を包み込んでくれている。その様子はまるで先ほどまで話していた彼のよう心意気のようにも感じた。薄れていく意識の中、僕は彼の真紅の瞳から目を離すことは出来なかった。彼と言葉を交わしたことが波を恐怖する物ではなく、目標とするものに変わってしまった。


 目を覚ました時、目の前には真っ白な天井が見えた。それになんだか薬っぽい匂いが鼻を刺激した。どうやら僕は病院に運ばれたらしい。目を覚ました時に側に居た看護婦が僕を見るや否や大慌てで廊下をバタバタと走っていく音が聞こえた。何が起こったのかを知りたかった僕は診察に来た医者から話を聞いた。どうやら大時化の明けた日にずぶ濡れでボロボロになった小舟の残骸と共に浜辺で倒れてい他ところを発見されたこと。丸二日間、目を覚さなかったことを伝えられた。


 意識が戻ったとの連絡を受けて家族が病室に飛び込んできた。父さんには今までにないぐらいの剣幕で怒られて、ゴツンと頭を殴られた。母さんには泣きながら抱きしめられた。父さんの拳骨よりも力強いハグだった。おばあちゃんは、僕の無事をお祈りし続けて眠れていなかったため、家で寝込んでいると聞かされた。誰も僕が小舟を勝手に持ち出したことを怒らなかった。今ここで小舟の話を持ち出せば家族の思いを踏みにじることになりそうだから黙っておいた。意識こそ戻ったが大事をとってしばらく入院生活を続けておいた方がいいと医者に言われ、僕は首を縦に振った。病室で家族を見送った後、僕は自分の右腕に残る感触を思い出した。腕には大きな手で掴まれたような跡がはっきりと残っている。あの夜の体験が夢ではないと、体に言われているように感じた。病院は消灯時間を迎え、病室内の灯りが一斉に消えた。真っ暗闇のベッドの中であの夜のことがいやが応でもよみがえる。波兎に会うためとは言え僕のやった行動が正しいなんて思わないし、思ってもいけない。危うく好奇心に自らの身を差し出すところだったのだから。

 

 僕は心も体も大きくなってから。必ず彼に会いにいく。会いに行けるだけの力を蓄えたい。彼のことをもっと知りたい。巨大な力に揉まれながら、あれだけの目にあいながらも僕の情熱は波に攫われなかった。跳ねる、跳ねている。僕の心に兎が跳ね回っている。今だって、これからだって。

                           〈了〉


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