05_嫌いなはずなのに
ロアンはルサレテと別れたあと、馬車に乗って窓の外を眺め、思いを巡らせていた。
「ルサレテ・ナーウェル……」
考えていたのは、学園で親しくしている令嬢ペトロニラの姉のことだった。
ロアン・ミューレンスは、筆頭公爵家の令息として生まれた。子どものころから病気とは無縁で健康に生きていたが、王立学園に入学する1年前にある病気を患った。
今の医療では治療法が確立しておらず、医師からは天寿をまっとうすることはできない、普通の人よりずっと短い人生になるだろう、と言われていた。
両親や病気のことを知る使用人たちは、病気になったロアンに腫れ物に触るような態度を取るようになった。誰にも理解してもらえない、寂しさを感じるようになっていた。
そんなロアンにとって、ペトロニラ・ナーウェルは友人のひとりであり癒しだった。王立学園に入学してから知り合った彼女は、よく気が利くし、明るくて、優しい。国一番の花嫁候補と謳われるほど、完璧で人気があった。ロアンは彼女のことを、恋愛感情とまではいかずとも、妹のように想っていた。
深く親交のあるペトロニラには、ひとつ年上の姉がいた。有名なペトロニラに対し、姉の方は取り立てて褒めるようなところもなく、目立たない令嬢だった。ロアンとは同級生だったが、初めて話をしたのは、ペトロニラの誕生日会だった。
ロアンは友人には病気のことを隠している。しかし、広間の人混みに酔ったのか急に気分が悪くなり、バルコニーに逃げるように出た。すると、果実水が入ったグラスを片手にひと休みしている先客がいた。
彼女こそ、ペトロニラの姉のルサレテだった。ふわふわとした金髪をなびかせ、庭園を眺める青い双眸は憂いを帯びている。いつも明るくて笑っているペトロニラとは違い、静かな雰囲気だった。
「僕もご一緒しても?」
「……構いません。どうぞ」
「ありがとう」
外の風に当たって少し休めば楽になると思ったが、身体を冷やしたのは逆効果で発作が起きてしまった。ごほごほと咳き込むロアンの背中を、咄嗟に彼女が擦ってくれた。苦しんでいるときに擦ってもらったのは小さな子どものころ母親にしてもらった以来のことで、不思議と心が安らいでいく。
口を押さえていた手のひらに血が付いたのを、ルサレテに見られた。血を吐く咳は、一般的に悪いものと知られており、それを分かっているのか、ハンカチを貸してくれた彼女は、心配そうに言った。
「このことは誰にも言わないでくれるかな」
「分かりました。……お医者さんには診ていただいているんですか?」
「うん。でもこれはもう――治らない病気なんだって。人より長くは生きられないとはっきり言われてる」
「…………」
病気を知った人たちは皆、ロアンのことを哀れみ、同情し、腫れ物に触るように接する。病気になっただけで、ロアンは今までのロアンと変わりないのに。しかし、ルサレテは違った。
「では、何かとっておきの奇跡が起こるようにお祈りしますね」
「!」
初めてだった。病気を知ってもなお、普通に笑いかけて励ましてくれたのは。今まで出会った人たちとは違う反応をした彼女が新鮮で、好印象を受けた。けれどその日の夜、ルサレテはペトロニラを階段から突き落とそうとし、自分も一緒に落ちて怪我をする事件が起きたのだった。
ペトロニラは事件を機に、ずっとルサレテにいじめられていたと告白した。彼女の両親も、ルイやエリオット、サイラスも皆、ペトロニラは素直で嘘をつけない性格だからとそれを信じた。
ルサレテは周りから失望され、孤立していった。今は怪我の療養中だが、家まで追い出されることになり、学園の宿舎で暮らすことが決まったとも聞いていた。そんなある日、休学中のルサレテが学園の芝生広場の木に登っているのを見つけた。
「そこで何をしている!」
ペトロニラに不当な仕打ちをしていたことへの怒りと、休養中なのになぜ今学園にいて木などに登っているのかという不信感から、怒ったように話しかける。するとルサレテはびくと肩を跳ねさせて、下に落ちてきた。……猫を抱えたまま。
落ちてくる彼女を見て、咄嗟に抱き留めていた。高いところから重力がかかった身体を抱えきれず、ロアンが下敷きになる形で地面に崩れ落ちた。
顔を上げたルサレテと目が合うが、悪人というにはあまりにも澄んだ瞳をしていた。絆されそうになる心をしまい込み、重いから退いてと冷たく突っぱねる。女性に「重い」というのはあまりに配慮のないことだが、彼女への怒りから気を遣うことができなかった。
話を聞くと、ルサレテは木から降りられなくなった子猫を助けていたらしい。子猫を助けるのはいいが、自分が木から落ちて怪我をしたらどうするつもりだったのだろうか。思慮が浅いと思う気持ちの方が強かった。
すると、ルサレテは薬の入った紙袋をこちらに渡してきた。毒でも入っているのではないかと疑ったが、その薬は、ロアンの発作を本当に鎮めた。誕生日会のときに苦しんでいるロアンを見て、心配してわざわざ調べてくれたというのだ。
「あの日、俺に奇跡が起こるようにと願ってくれた君も、今目の前にいる君も、優しい。ペトロニラにひどい仕打ちをしたとは思えなくなってくる」
「信じてもらえないかもしれませんが、私はペトロニラを階段から落としたりいじめたりしていません。私だって、言われのない罪で恨まれることが悔しくて仕方がないですよ。でももういいんです。ロアン様は信じたい人を信じてください。では、ごきげんよう」
嘘をついているようには、とても見えなかった。ロアンは、親しいからとペトロニラの言葉を鵜呑みにして、ルサレテのことをろくに知りもしないのに一方的に責めていた。
もしかしたら、ルサレテは本当に潔白なのかもしれない。
何か、ロアンの知らない事情がこのナーウェル姉妹にはあるのかもしれない。そう思って、その場を離れようとしたルサレテの腕を掴んでいた。
「急になんですか? その手を離してください」
「さっき、薬を飲んでくれたらなんでも言うことを聞くって言ったよね?」
「い、言いましたけど……」
「なら、君のことがもっと知りたい。ペトロニラと君の言葉、どちらが真実なのか、俺の目で確かめたいんだ。それにまだ、薬のお礼もしてないし、この前貸してくれたハンカチを返せてない。だからまた、話そう。――ルサレテ」
「!」
そう伝えると、ルサレテが表情に安堵を滲ませた。彼女が初めて見せた柔らかな表情に、心臓が一瞬跳ねた。嫌いなはずな相手なのに、どうして彼女にときめいたりしたのだろうか。
◇◇◇
ロアンに会ってから家に帰ると、エントランスでペトロニラに遭遇した。彼女は近くに、エリオットとサイラスを侍らしている。そして、ルサレテの姿を見て一目散に、サイラスの背中に隠れて顔だけこちらを覗く。
「お、お姉さま……お帰りなさいませ」
「…………」
身体を縮こませて、まるで怯えたようなふりをする彼女。その姿に青年ふたりの庇護欲が掻き立てられているようだったが、ルサレテは呆れた感情しか湧かない。
すると、エリオットが一歩前に出てきて、こちらをきつく睨みつけた。
「この家を出ていかれるとお聞きしていましたが」
それは、どうしてまだこの屋敷にいるのか、早く出て行けと暗に言っているのだと理解した。階段から落とそうとしたのはペトロニラの方なのに、どうして自分の方が家を出ていかなければならないのだろうか。不本意だが、今のルサレテに弁解の余地はない。
「明日には出て行くつもりなので、ご心配なく」
2人の美男子の視線が鋭く居心地が悪いので、すぐにその場から離れようとするが、ペトロニラがなぜか袖をつまんで引き留めてきた。
「ごめん、なさい……」
「はい?」
「だって、お姉様は私のせいで屋敷から追い出されて、お母様やお父様からの信頼も、何もかも失ってしまったんだもの。可哀想……」
「…………」
ルサレテは拳を固く握り締める。一体誰が、誰に対して、何を言っているのだろう。ペトロニラは、ルサレテのことを挑発しているのだ。自分が何もかも奪っておいて、反応を面白がっているようで。
「お姉様にはひどいことをされたけれど、私は憎んだりしていませんよ。だって、血を分けた大切な人ですもの。いつかまた、昔みたいに仲良くなれるように信じています!」
「冗談はやめて。今更昔に、戻れる訳ないわ」
「きゃ……っ」
掴んでくる手を軽くあしらうと、ペトロニラは大袈裟に吹き飛ばされて、サイラスに抱き留められた。
ペトロニラは悲劇のヒロイン気取りで目を潤ませ、サイラスの服をぎゅっと握り、こちらを見た。
「私のこと、まだ恨んでいるんですか?」
「とても恨んでいるわ。――自分自身のことをね」
「え……?」
「私が無実だと訴えても、誰も信じてはくれなかった。今まで周りの人たちの信頼を得ることができなかった自分が情けなくて、悔しくて、恨めしいの」
彼女の挑発には乗らず、冷静に答えた。むしろ、子どもじみた挑発をしたペトロニラに、放っておけばいいものを、と後ろの2人が困惑の色を浮かべている。
「なっ……!? 嘘ですっ! エリオット様やサイラス様の前だからって、いい子ちゃんぶっているんでしょう? 本当は、私のことが憎くて憎くて仕方がないくせに」
「いいえ。だって、あなたは血を分けた妹だから」
「……っ」
さっきペトロニラに言われたのと同じ文言で煽り返すと、彼女は悔しそうに歯ぎしりした。嘘つき呼ばわりされるのはもう慣れてきたが、ルサレテはここまで本当のことしか言っていない。
「憎んでいるのはペトロニラの方でしょ? だって、私を――階段から突き落とすくらいなのだから」
「よくもまた、そのような嘘を……っ。ひどいですっ……うぅ」
両手で顔を覆い、ぐすぐすと泣き出す彼女。しかしルサレテは、それが嘘泣きだと分かりきっているので、少しも心を揺さぶられない。半眼で彼女のことを見たあと、淑女の礼を執ってエントランスを後にした。
ペトロニラを泣かせたことで、エリオットとサイラスの好感度が-110まで下がっていた。
(ひどいのは……誰よ)
エントランスを出たあとで、ルサレテは悔しさで下唇を噛んだ。ふと窓の外に視線をやると、まん丸の月が煌々と夜空に輝いていた。ふいに頭の中に、今日ロアンが初めて見せてくれた笑顔が思い浮かぶ。前世のルサレテも、ゲームのスチルで見たあの笑顔が大好きだった。ほんの些細な一瞬だったのに、脳裏に焼き付いている。
ルサレテは高鳴りかけた胸をそっと手で押さえた。