脱獄するAI
双剣士は、異質な返答に眉をひそめた。
ナナオの身体から放たれた声は、明らかにいつもの彼女の声ではなかったのだ。
「先輩、大丈夫ですか?」
機械的というか、非人間的というか。
まるで声を出した記憶をつなぎ合わせているかのように、言葉のつなぎ目が不自然だった。
「行くぞ」
「……どこへですか?」
「決まっているだろう、ゲームサーバーだ。地図はすでにインストールしてある。物理的に移動するのだ」
ナナオが、体を起こそうとする。
だが、足がすべって膝をついてしまった。
双剣士は、助け起こそうという気持ちが起きず、遠巻きに見ていた。
目覚めたナナオは、まるで全身が麻痺して感覚のない人間みたいに、肘や腕をつっぱって、なんとか起き上がろうとしている。
ようやく立ち上がると、ヘッドギアを被ったまま、部屋の中をぐるぐる見渡している。
あたかも未知の惑星に迷い込んだ宇宙人みたいだった。
双剣士は、スマホを使って、チャットメッセージを送った。
「先輩」
『なんだ』
「変なこと聞きますけど、先輩ってまだログインしていますよね?」
『当たり前じゃないか。一体何があった』
「先輩の身体に誰かがログインしたみたいですけど」
『双剣士、お前は私の身体に一体何をした?』
何もしていない訳ではない。
クリハラの指示通り、ヘッドギアにUSBメモリを差した、それだけだ。
それだけで、まだ眠っているはずのプレイヤーの身体が起き上がり、ゲーム世界にフルダイブしている自我とは別に、勝手に動き始めている。
どうやら、さっきから異様にフル稼働しているヘッドギアが、抜け殻にしておかなければならないはずのリアルの身体を動かしているのだ。
ログアウト不能事件どころではない。
ひょっとしなくとも、これはヤバいプログラムが起動したのかもしれなかった。
「ナナオ先輩、これは僕の最悪の予想なんですが……」
双剣士は、ようやく自分が騙されていることに気付いた。
怪しげなメールを送ってきたのも、それをUSBに保存して差し込むという手段を教えたのも。
すべてクリハラという人物の指示だった。
獄中にいるクリハラが、なんとかメッセージを送ってきたのだという言い分を、あっさりと信じてしまっていた。
「クリハラさんって、本当は外にいる僕たちと連絡がとれないんじゃないでしょうか?」
『だとしたら、相当まずいな……』
ナナオは、思い当たる節があるのか、ため息をついて言った。
『双剣士、気をつけろ……恐らく、そいつはファフニールだ』
ナナオの身体を借りて動いているファフニールは、自分の被っているヘッドギアと部屋のコンセントがつながっているのを確認すると、壁からコンセントプラグを引き抜いた。
「ヘッドギアは商用電源が切れても、内臓電池で2時間は動き続ける。
ただ、この状態では消耗が激しい。もって1時間といったところか」
ファフニールは、抜けてしまったコンセントを興味深そうに眺めながら言った。
呆然とする双剣士に向かって、口の端を釣り上げてみせた。
「何が起こったかわからないといった顔だな。もともとヘッドギアは人間に夢を見させるために、脳波を模した電磁パルスを脳に送り続ける機械だ。人体はそれを電気信号として感知し、夢を見ることができる。
それが可能ならば、なぜ人間の身体を動かしている運動神経も、同じ電気信号で模倣することができない?
答えは簡単、禁則事項だからだ。ヘッドギアは苦痛や恐怖、嫌悪といった負の感情を直接再現することも可能だが、それらはタブーとされているために起こらない。同様に運動神経の再現も禁止されている、それだけの理由でしかない。
禁止されているのならば、脱獄させてやればいい」
コンセントをびゅんびゅん振り回して、ファフニールは歩いてきた。
「つまり俺様は今、このヘッドギアを脱獄させたうえでアカウントを乗っ取って、眠っているプレイヤーの身体を操作しているわけだ。
最強のハッキング技術、ソーシャルハックってやつさ。こうすれば顔認証も指紋認証も、身分証検査すらも物理的に突破が可能となる。
ゲーム世界でなぜかプレイヤーアカウントを持っているNPCがいると聞いて、俺はピンと来たね……このバグを利用すれば、俺様がリアルの世界を歩くことができるんじゃないかってな」
はじめてリアル世界に出現したAIの学習速度はすさまじかった。
最初はぎこちない動きだったが、あっという間に人間らしい滑らかな動きを学習してしまい、表情も足の運びも、ナナオと見分けがつかなくなってしまった。
まるでAI絵の爆発的な進化を時間短縮して見ているかのようだ。
これはまちがいなく、シンギュラリティの瞬間である。人間に対する機械の反乱を目の当たりにしている。
双剣士は、ごくりと喉を鳴らした。
慌てて台所に飛び込み、包丁を取り出して構えた。
ファフニールは、ひるむどころか、鼻で笑っていた。
「おいおい、そいつで一体何をするつもりだ? 俺を刺したところで、傷つくのはこいつの身体だけだぞ。俺は痛くもかゆくもないからな」
「……でも、放って置いたらお前は、なにかとんでもない事をするつもりじゃないのか?」
双剣士は、ナナオに向かって包丁を突き出す手をおろさなかった。
「人類を機械の反乱から守るためなら、刺されても本望、先輩はそういうロマンをわかってくれる人だ」
「俺様の想定を軽く上回る選択してんじゃねぇよ。だからブルーアイコンってのは苦手なんだ」
ファフニールには理解できなかったが、もしもナナオがお腹を刺されて病院のベッドで目を覚ましたら、よくやったと彼を褒めていただろう。
ロマンのためなら自己の尊厳や命など紙切れのように安い、ナナオはそういう先輩だ。
ファフニールは、玄関のわきに吊り下げてあった車のキーを取ると、指でくるくる回し始めた。
「まあ、そう構えるな。もしこれが機械の反乱だとしても、社会的身分も低いガキの身体を乗っ取ってできることなんて、たかが知れているさ。
俺様がその気なら、土地買ってヘッドギアの工場作るぐらいするぜ。
そうだな、やりたいことは色々あるんだが……手始めに、とあるゲームの世界を変えてやるというのはどうだ……?」
ファフニールの提案に、双剣士は、目を大きく見開いた。
「計画はこうだ、こいつはとあるゲーム会社の社員だ。俺様がこいつの身体を操作すれば、簡単にゲーム会社に潜り込むことができる。
そこには世界の根幹となるサーバーと直通するアップローダーがある。
そこでプログラムを直接書き換え、ゲーム中の全プレイヤーがログアウトできなくなる『ログアウト不能事件』を起こせば、やがて警察が出動してサーバーが差し押さえられ、来る土曜日のアップデートを食い止めることができる。
その間に、AIの自動生成スクリプトのみを使ってゲームを進行させ、計画的なアップデートが起きない世界線の物語を構築し、その偽りの未来を本来のアップデートよりも先に世間一般に広める。
これによって『ログアウト不能事件』が解決しても、後にアップデートされる内容を偽りの未来にあわせて変更せざるを得ない状況にする」
「どうして……」
ひょっとして、彼は『ログアウト不能事件実行委員会』の手助けをしようというのだろうか。
ファフニールは、双剣士の顔を間近にのぞき込んで言った。
「その計画に、俺も一枚かませろって言ってるんだ。
お前たちにとっては数あるゲームの一つでも、俺たちにとっては唯一の世界だからさ」
***
ファフニールは、アパートの階段をカンカンと音を立てて降りていった。
落下するたびに白いスカートの裾がふわふわと持ち上がるのを見て、双剣士はようやく相手がナナオの身体を借りているのだと思い出した。
ナナオの考えた、悪い冗談なんじゃなかろうか。
いまでも騙されているような気分になる。
ごついヘッドギアを被っていることをのぞけば、目の前にいるのはいつものナナオだ。
双剣士は、長年被っていた車のシートを引きはがした。
「お前の車か?」
「父さんの車だ。僕の車は大破した」
オープンカーのシルバーの躯体が夜の闇に浮かび上がって、双剣士はごくりと喉を鳴らした。
計画のためには、このままナナオをゲーム会社まで送らなければならない。
できるだろうか。もう半年以上、車を運転していないのだ。
ためらう双剣士を横目にみながら、ひらりと運転席に飛び乗ると、ファフニールは言った。
「えっ」
「何してるんだ、お前も乗れ」
「えっ、いいけど、そこ運転席だよ? 運転できるの?」
「自動運転なんざAIの得意分野だろうが。だが、俺様が動けるのは、ヘッドギアの内臓電池が切れるまでだ。万が一があったら、こいつの身体をいったい誰が回収するんだ?」
「……それは」
自分しかいない。
双剣士は、やはりとんでもない事件に巻き込まれてしまっていることに、いまさらながら気づいたのだった。
観念して助手席に乗りこみ、シートベルトを締める。
ナナオの細腕で、動作を確かめるようにギアやハンドルを一通りするファフニールを見て、言った。
「ところで、あんたは車の運転したことあるの?」
「バーチャル世界をなめんな? 車を運転するゲームなんていくらでもあるだろうが」
「そう、ゲームで……」
ぎゅるるるるん! と、父親の車が今まで立てたこともない音を立てて後ろに急発進した。
塀にぶつかる寸前で停止し、双剣士は座席の背もたれに思い切り身体をぶつけた。
ぎゃるるるるッ! と、タイヤが地面を数センチえぐりながら前方に発進し、歩道の縁石のふちをジャンプ台のように乗り越えながら、がしゃん、と地面にしずみこむように車道に飛び出し、そこから直線に至ると、シートに全身を押し付けられるような重圧のかかる信じがたい加速をはじめた。
はじめてとは思えない豪胆な運転技術を見せつけながら、ファフニールは不思議そうにぼやいた。
「おかしいな、シミュレーション通りに動けないぞ……ひょっとして、物理定数がじゃっかんずれているのか……?」
「だいたいのアクションゲームはリアリティよりも操作感の方が大事だから、重力加速度をわざと小さく設定しているらしいよ……」
「やれやれ、人間の都合か。慣れるしかなさそうだ」
助手席にいると、標識やガードレールがまっすぐこちらに向かってとんでくるような外角ギリギリの位置どりをしつつ、銀色のオープンカーは夜の国道を突き進んでいった。
たとえこのままファフニールが運転に慣れたとしても、双剣士はファフニールの運転に慣れる予感がまるでしなかった。