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多重臓器移植の罠

作者: 坂口正之

我が国において、臓器移植法が施行されてから既に三十年以上の歳月が経過していた。心臓や肝臓などと言った脳死患者からの臓器の移植は年間で五百件を超え、もうそれは決して珍しいものではなく、ある程度の規模の病院では日常のごとく進められていた。

 しかし、そんな時代になっても彼の場合は特別であり、やはり、極めて困難であることは全ての医師が認めていた。

 そもそも、彼の病気自体が希であり、世界的に見てもその症例の報告さえなかなか見当たらないようなものであった。

 その彼の病気は、自己免疫疾患による多臓器不全であった。

 つまり、自分自身の臓器が何らかのきっかけで異質なもの(自分のものでない)と誤って認識され、それにともない自らの免疫反応による攻撃にさらされ、ついにはその機能が失われてしまう疾患だった。

 最悪なことは、それが一つの臓器だけでなく多くの臓器に同時に発生したことであった。 自己免疫疾患は、それ自体をそれ程珍しいことではなく、リューマチなどがそうであるし、例えば、膵臓の細胞が自らの免疫反応の攻撃により破壊され、糖尿病になるといったこともしばしばある。

 しかしながら、彼のように、心臓、肺、肝臓、膵臓、腎臓と同時に五つもの臓器にそれが発生したものは例を見なかったのである。

 彼の五つの臓器は、自らの凄まじい免疫攻撃を受け、どれも息も絶え絶えの状態であった。

 もはや、どの臓器も移植以外に残された道はなかった。

 しかし、同時に五つの臓器移植は、あまりにも大手術である。そんな大手術に弱った彼の体が耐えられるかどうかは、極めて疑わしいと言わざるを得なかった。

 年月をかけて、一つずつ回復を待って移植手術していけば不可能ではないだろうが、そんな時間的余裕はなかった。

 五つの臓器全てが急速に悪くなっているのである。例えば、心臓移植して心臓が間に合っても、その間に肝臓がダメになってしまって、死んでしまうことが十分に予想されたのである。

 とにかく、主治医は彼に極めて難しい状況であることを伝え、もし、五つの臓器の移植が可能なドナーが現れたなら、危険を承知の上で移植手術に踏み切る旨、彼の承諾を待った。

 彼は、主治医に向かって言った。

「もし、直ちに五つの臓器を移植しないと本当にダメなのですか?」

「これまでの医学的常識から考えれば極めて難しいと思います」

「あとどのくらいで…」

「正直言って、三か月くらいかと…。でも、気を落とさないでください。あなたはまだ二十代後半で若いし、移植さえうまく行けば、あと四十年は保証しますよ」

「しかし、その手術はとても大変だと…」

「もちろん、どんな手術にも困難は付きまといます。簡単なものなどありません」

「五つの臓器を同時に移植した例なんてないのでしょう」

「ええ、世界で初めてです。しかし、出来ないものと決まった訳ではありません。可能性は十分にあります」

 主治医は、十分にあるとは言ったものの、本当にそうとは思っていなかった。

「移植手術をしないと三か月ですよね…。ドナーは、簡単に現れるものなのですか?」

「昔より随分ドナー希望者が増えましたから、可能性は高いと思います」

「分かりました。じゃ、お願いします。先生に全てをお任せいたします」

 彼は、チアノーゼと黄疸と浮腫みの出た顔で横になったまま、酸素マスクを外してそう言った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 実際、主治医が言うほどドナーは簡単には現れなかった。それから、二か月ほど経ったある日、突然にその情報はもたらされた。

 四十代半ばの男性が酒に酔って階段を踏み外し、頭を強打して脳死状態になったというものであった。

 頭部以外にはほとんど外傷がないので、五つの臓器の状況は極めて良かった。全てが同時に使えそうであった。

 病状が悪化して極めて危険な状態となっていた彼の元に、正確には彼の主治医にそれが伝えられ、直ちに移植手術が開始された。

 やはり、手術は大手術となった。途中で医師団が三度も交替する程の大変なもので、手術時間は実に二十時間以上にも及ぶものであった。

 成功か失敗かは、手術直後は分からなかった。とにかく、彼が目覚めてくれるかにかかっていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 三日後、彼は目を覚ました。

 彼には、ぼんやりとした意識の中で、主治医がベッドの側に立って自分を覗き込むようにしているのが段々と分かってきた

「加藤さん、加藤さん、分かりますか?」

 彼は、呼びかけられていることに気付いた。

「加藤さん、成功したのですよ…、移植はうまく行きました。安心してください…」

 彼は、やっと今の状況が分かってきた。そして、ゆっくりと口を開いた

「手術はうまく行ったのですか?」

「そうです。もう大丈夫です」

「そうですか、ありがとうございます。先生のお陰で…」

 彼は起き上がろうとしたが、主治医はそれを制した。

「そのままで…、まだ、無理をしてはいけません」

 彼は安心して、再び眠りについた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 それから、どの位眠ったのだろうか、次に彼が目を覚ました時には、傍らに決して美人とは言えない、どちらかと言えばその逆の丸顔の太った女性が座っていた。

 その女性は四十才位であろうか、垢抜けのしない、いかにもおしゃべり好きのオバサンといった感じの雰囲気をしている。

 彼が目覚めたのに気付くと、そのオバサンは彼を見詰めて言った。

「お父ちゃん、良かった…。もう少しで死にかけたんだよ…」

 死にかけたのは知っていたが、お父ちゃんの意味が彼には分からなかった。そして、彼女の存在も分からなかった。

 オバサンは涙を流しながら、彼の手を握り締めてきた。

 オバサンの太い手のがさついた皮膚の感じが、彼には言い様もなく気持ち悪く思えた。全身に戦慄が走るほど、たまらなく不快に感じたのである。

「あなたは、いったい…」

「お父ちゃん、もうだいじょうぶだから…」

 彼には、どういうことなのか、何が起こっているのか理解できなかった。

 その時、病室のドアが開き、主治医が入って来た。

 不安げに彼が主治医を見詰めると、すかさず主治医は言った

「お目覚めですね…。奥さん、申し訳ありませんが、ちょっと二人だけでお話したいので、しばらく席を外して頂けませんか」

 オバサンは、その言葉を聞いて、ちょっとたじろいだような素振りを見せながらも、病室から出ていった。

「先生、どうなっているのですか? あの女性は誰なのですか? 何か変なのですが…」

「加藤さん、良く聞いてください。あなたの手術は無事成功しました。でも、あなたとの約束が完全に守られた訳ではないのです」

「約束が守られてない…?」

「正直に言いましょう、驚かないでください。あなたに五つの臓器を移植しようとしたのですが、やはり、医学的、技術的にとても無理だという結論になったのです。しかし、多臓器不全で死にかけている人がいて、もう一方では脳死状態の人がいる。このまま手をこまねいて、黙って見ているだけで我々は良いのか。もし、脳死状態の人の臓器を多臓器不全の人へ移植出来ないのであれば、多臓器不全の人の脳を脳死状態の人へ移植することは出来ないものかと我々は考えたのです」

「…」

「脳の移植なら可能ではないか? それが我々医師団の出した最終結論でした。二人をむざむざ死なせることはない。一人で済むならその方が良いに決まっていると…」

「えっ…、ということは、今の私の体は全て別の人の…、元の私は頭だけだと…」

「頭だけではなく、正確には脳だけです。脳以外は全て脳死患者のものです、加藤さん」

「最初に目が覚めた時にも言おうと思ったのですが、私は加藤なんかではありません。池田です」

「あなたの体は加藤さんのものですよ、脳は池田さんですが…」

「ちょっと待ってください。脳が池田なら私は池田であって、加藤ではないはず…」

「そう思いたい気持ちは分かりますが、外見は加藤さんですから誰が見たって加藤さんです。どんなに私は池田だとわめいても、誰も昔の池田さんのように扱ってくれないですよ」

「じゃ、私、いや私じゃなかった…、どっちだ? えいっ、ややこしい、元の池田はどうなったんですか?」

「死んだことになっています」

「そんな…、先程の女性は?」

「あの女性はあなたの奥さんです。九死に一生を得て、とっても喜んでいますよ」

「冗談じゃない! 私にこれからどうしろと言うのですか?」

「あなたは、これからの半生を加藤さんとして生きていくことになります」

「加藤って、なに者なのですか? 何の仕事をしているのですか?」

「加藤さんは、長距離トラックの運転手です。あなたは運が良い、もし通訳かなんかの仕事だったら到底その仕事は続けられませんから…」

「私は、そんなトラックなんて運転できませんし、免許も持っていませんよ」

「心配なさらないでください。加藤さんは免許を持っています。それに、普通の乗用車が運転できれば、ちょっと慣れればトラックなんて簡単なものですよ。医者や大学教授なんかでなくて本当に良かった」

 と言って、主治医が差し出した自動車運転免許証の写真には、見たこともないオヤジが写っていた。

「せんせい、ちょっと…」

 病室のドアが半分ほど開けられて、先程のオバサンが顔を出して言った。

「今、子供達が来たのですが、いいですか?」

「ああ、いいですよ、奥さん」

 オバサンの後ろから、坊主頭の男の子が飛び出してきた。幼稚園児だろうか、いかにも鼻たれ小僧の餓鬼大将のように見えた。

 その子は彼のベッドに駆け寄ると、飛び付くようにして上半身を彼の胸に覆い被せて言った。

「お父ちゃん、いたかった? だいじょうぶ? でもよかったね。はやくおうちにかえろう。おねーちゃんもきてるよ!」

 ドアのところには、茶髪、顔黒で厚底サンダルを履いて、そのまま立っていても今にもショーツが見えそうなくらいのミニスカートをはいた高校生らしき女性が、キラキラ光る装飾品をいくつも全身にぶら下げて、いかにもけだるそうに立っていた。

 彼は、抱き付いた子供を突然押し退けると言った

「もう冗談じゃない! いい加減にしてくださいよ! 私には大切な恋人がいるんですよ。手術さえ成功すれば、来年には結婚することになっている。とんでもない! いいからその胸ポケットの電話を貸してくださいよ…」

 彼は、主治医から電話をひったくるように取り上げると、恋人の元に電話をかけた。

「もしもし、ナツミ…、ダイスケだけど手術に成功したよ…、なぜ、早くお見舞いにきてくれないの…」

「だれ? なんなの? いたずら電話? 切るわよ…」

 いつものナツミの声には間違いなかったが、彼に対する対応は考えられないような冷たいものだった。

「ちょっと待ってよ、ダイスケだよ、ダイスケ…」

「止めてよ! もう変態オヤジ…」

 その言葉とともに、電話は一方的に切られた。

 愕然としたまま電話を握り締めている彼に向かって、主治医は言った。

「加藤さん。もうあなたの声は、昔の池田さんの声じゃないのですよ。今は加藤さんの声なのです。その声でいくら昔の恋人に話しかけても分かってはくれませんよ。それに恋人は、昔のあなたはもう死んだと思っている」

「うわー、うそだ! うそに決まっている! そんなのうそに決まっている!」

 彼は、大声で叫びながら、ベッドを飛び下りると洗面所に向かって走った。

「加藤さん、落ち着いて! まだ、安静にしていないと…」

 そんな主治医の呼び掛けなど、彼の耳には全く入らなかった。

 洗面所の鏡に向かって彼が立った時、そこには、身長約百六十センチメートル、小太りで、先程の運転免許証の写真とそっくりな、いかにも酒好き、ギャンブル好き、女好きなように見える、捩り鉢巻きの似合いそうな赤ら顔のオヤジが映っていた。

 もし、写真との違いがあるとすれば、実際は写真より相当に髪が薄くなっていることだが、髪の毛は開頭手術の際に全て剃られ、今は包帯が巻かれているために彼にはそれが認識できなかった。

「せんせい、お父ちゃんどうしちゃったんでしょう?」

「まあ、大丈夫ですよ。一度、脳死状態にまでなったのですから、そんなに急にはもとのお父さんには戻りませんよ。ゆっくりと、少しずつ良くなりますから…、奥さん、心配なさらずに…」

 呆然と鏡の前に立ち尽くしたままの彼には、そんな主治医とオバサン…、いや、妻との会話など全く聞こえていなかった。

(おわり)


この作品の鍵は、「自分は自分と思っても、他人は自分と思ってくれない」ということです。

 ドナーの家族などは、例えば、息子の心臓がどこかで人の心臓として働いていてくれれば、辛いながらも人に役立ったことで満足感が得られるものと思いますが、もし、ドナーの脳以外の全てがそのままであったら、どのように思うのでしょうか。

 また、逆にその体の移植を受けた患者やその家族は、どのように感じるのでしょうか。結局は、自分とは形のない意識だけのものなのか、一方、他人は、自分を意識だけのものとして見ているのか、それがこの作品のテーマなのです。

 永遠の課題として、「死んだらどうなるのだろう?」という問いかけがありますが、ここで、「どうなるのだろう?」とは、全ての人が暗黙のうちに「意識」のことを問うているのであって、誰もが体については消滅してしまうことに同意(理解)しているのでしょう。

 だとすれば、自分にとって一番心配なのは形のない意識であって、それがきっと一番大切なのでしょう。

 この小説の中において、元の加藤さんは意識が消滅してしまったから不幸なのでしょうが、元の池田さんが、もし、小説とは逆の立場で、若返って、美人のフィアンセに優しく手を握られたとしたら幸せなのでしょうか?

 私なら…? 泣いても喚いても元に戻らないと知ったら、泣く泣く現実を受け入れて、加藤さんになれるよう努力すると思いますよ、きっと…。

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