奇跡の星の隅にある者
アスファルトの微妙な凹凸で揺れる車内。
退屈そうな顔の少女と、心なしか緊張したような表情の男性。
二人ともしばらく無言だったが、その静寂を少女が破る。
「ねぇ、まだぁ〜?」
「まだだよ。」
「まだ着かないの〜?もう脚痛い〜、ずっと座りっ放しだもん。」
「―もう着くから、待ってなさい。」
「ほんと〜?」
少女は運転席の男に話しかけるのをやめ、ボスッと音が出るくらいの勢いで座席に座った。
鈴端ハルカ。
小学五年生、平凡な少女だ。
それまでずっと小さな島に住んでいたので、車の外の景色に少しだけ怯えている。
運転席の男・鈴端 リョウジは彼女の父親にして教師だ。
ただ、教師とは言えそこまで厳しくするつもりはないらしい。
二人は、赤城島という小さな島に住んでいた。
しかし、赤城島唯一の学校である赤城小学校の廃校が決定したので引っ越すこととなった。
赤城島は自然に囲まれたとても美しい島だった。
太陽に照らされて光輝く、透明な川。
フィトンチッドが優しい子守唄を歌う、静寂な森。
そしてそこに住む人々も、当然穏やかで優しかった。
鈴端親子が引っ越すまでの間、ついぞご近所トラブルのひとつも経験しなかったというのだから大したものである。
ただ、そんな赤城島にもひとつだけ、皆が恐れるような言い伝えがあった。
それは人のような姿をした『ナニモノか』の話。
多くの人々がそれを知っているにも拘わらず、文献のひとつも残っていないという伝説の存在らしい。
ハルカもリョウジも、その正体は知らない。
ただ、存在だけは信じている。
イヌやネコのように、そこにいるとハッキリ分かるのだ。
ただそれらと違うのは、生気を感じられないということだけ。
生者とは明らかに違う、しかし死者とも違う、だから『ナニモノか』なのだ。
一方、引っ越し先は見たこともないような都会。
見るもの全てが大きく、派手だ。
「あの遠くにある大きなビル、急に動き出したりしないよね?」
「しないよ。」
「でもリンタロウ先生が言ってたよ。」
「ビルが動くって?」
「うん、そんな感じのこと言ってたよ。」
「はは。まぁ言いかねないな、あの先生は。」
確かにビルは動き出しそうなくらいの迫力があった。
ただ、その手の冗談はよく用いられるもので、真に受けるものではない。
テレビでしか見たことがないような高層ビル。
田舎暮らしに慣れきったハルカにとっては、理解しがたいものであった。
「何でみんな、こんなに高い建物が好きなのかな。」
「好きかどうかは分からないけど、都会ってのはそういうもんだよ。」
「ふうん……そうなのかな……。」
一階建ての家でも充分生活出来るし、狭くても寝床があれば元気に明日を迎えられる。
それだけでは満たされないという人々の気持ちが、ハルカには理解出来なかった。
「さて、あの建物だね。」
ハルカはリョウジの視線をバックミラー越しに確認して、その視線の先を見る。
そこには、写真で見た通りの建物があった。
今日から住む場所。
新たな家。
ハルカのテンションは先程から一転して急上昇。
「わあ、三階建て、ドアいっぱい、部屋もいっぱいあって、広い!
ねえ、本当にあんなところに住んで良いの、本当に!?」
もはや田舎暮らしのプライドも何もない。
ついさっきまで高層ビルに難色を示していた少女とはまるで別人だ。
二人でここに住むことになるのか、とハルカは嬉しそうな表情を浮かべるが、父親は冷静に答えた。
「もしかしてハルカ、この建物全体が我が家だと思ってるかい?」
「え、違うの?」
「教えたと思うけどな。集合住宅と言って、ここには他の人も住んでるんだよ」
「そうだっけ。まぁ良いや、それでも何かワクワクする」
「見慣れない場所、目新しい景色ってのはワクワクするものさ。長く住めばその感覚もなくなるよ」
…と言うリョウジを尻目に、ハルカはさっさと三階まで上がってしまっていた。
「あ、コラ!パパ達の部屋は一階だ!」
「じゃあ床全部取り壊しちゃお!?全部一階になるよ!」
子供の発想は純粋で恐ろしい。
父親は多少の不安を感じながら、ハルカを呼び戻すため、ハルカを追った。
たかが三階と侮るなかれ。
階段というのはそれだけで人の体力と気力を奪うものだ。
まして、これから荷物の整理をしなければならないというのに。
「はあ、こりゃ一階で良かったな。三階だったら巣籠もり生活になるところだったぞ。」
リョウジがブツブツ言いながら階段を上っていると、ハルカが元気よく降りてきた。
「わーい!一階だ、一階!」
「……どこから出てくるんだ、その元気は。」
リョウジは呆れながら踵を返し、一階へと戻って行った。
部屋に入ると、既に生活可能な状態になっていた。
「知り合いに引っ越し業者がいると苦労しないもんだな。」
「引っ越す時だけはね。
で、これは何……こんなの見たことないよ?」
「どうした?」
「んー、何か落ちてる。」
ハルカは、床に落ちている不思議な紙切れを見つけ、それを手に取った。
そして、その瞬間。
「痛ッ!」
ハルカは言葉にし難いような痛みを感じた。
「ハルカ!?どうしたんだ!」
「―――大丈夫、一瞬痛みが走っただけだから。」
リョウジは急いで駆け寄ってきた。
彼は多少過保護なところもあるが、この場合に限っては正しい反応だ。
これがもし何らかの悪意を持った者による悪戯である可能性は、決して否定出来ない。
「───何なんだ、これは。」
リョウジもその紙切れに触れる。
「ハルカ、これ触った瞬間に痛みが走ったのか?」
「うん。」
「おかしいな、俺は何ともない。」
リョウジは紙切れを念入りに調べ始めた。
確か、部屋に入ってきた時はこんな紙切れは落ちていなかった筈。
そう、たとえ紙切れでも、落ちていればすぐに分かるものだ。
それが分からなかったということは、そういうこと。
恐らく、ハルカかリョウジが知らず知らずのうちに持ってきたのだろう。
不思議な話だが、そう解釈する他にない。
ハルカはリョウジの背後に視線を移す。
勿論、何かが見えるのを知っていて視線を移したわけではなく、そこには『何もいない』という認識だった。
だが、そこには『何か』がいた。
黒く、形がはっきりしないモヤのようなもの…。
それが、リョウジの背中の後ろで…およそ生物的とは言えぬ動きを見せている。
敵意だとか殺意だとか、そういった類いの負のオーラではなく、ただそこに何かがいるのを感じられるだけ。
人間、動物、そのどちらでもない感覚。
「───えっ。」
思わず声が出た。
「ん、どうしたんだ?」
リョウジは当然背後の状況を把握出来ていないので此方を見る。
「何だ、顔に何かついてるか?」
「う、し……。」
『後ろに何かいる。』
そう伝えたいのに、口が上手く動かない。
しかしリョウジは言いたいことを理解してくれたらしく、後ろを向いた。
…後ろを向いて、すぐ此方に向き直った。
「なぁハルカ、俺の後ろに何が見えるんだ?
お前には何か見えたんだろう?
いや、今も見えてるのか……どちらにせよ、何かが俺の後ろに。」
「そ、それは、その……う、後ろ……。」
リョウジに『モヤ』の存在を伝えようとした瞬間、それは嘘のように消え去った。
バレたか、とでも言わんばかりに。
若しくは、ただ哀れな少女を嘲るかのように。
「あああ、その……。」
「ハルカ、具合でも悪いのか?」
そうかもしれない。
きっと具合が悪くて幻覚のようなものを見ただけなのかもしれない。
だって、あれはこの世に存在していいものではなかった。
生命体というグループに所属しているのかも怪しいような、とても不思議なオーラだった。
きっと、そういうのが部屋にいたら面白いなあ、という妄想が現実になったのだ。
確かに、ああいうモンスターみたいなものに興味がないわけではない。
赤城島の言い伝えに出てくるような未知の存在には、むしろ人一倍興味があった。
ただ、
「うう、何か頭が痛くなってきた。」
先程の『モヤ』が何かしたのだろうか、刺すような痛みがハルカを襲った。
「頭痛か……近くに薬局があった筈だな、ちょっと行ってくるから安静にしておくんだぞ。」
リョウジは血相を変えて外へ出て行った。
たった一人の娘であるハルカを、心から大切にしている。
だから彼は、時として過保護とも言えるくらいの行動を取るのだ。
ハルカはそんな父親に少しだけ頼もしさを感じつつ、そこに置かれているソファの上に横たわった。
カーテンを閉めていないので、部屋には夕焼けの『赤』が入り込んできていた。
「綺麗。」
思わず、そんな感想が出てきた。
沈みゆく太陽が街並みを静かに焼き、もうすぐ訪れる無音の闇の時間を知らせようとしていた。