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恋なんてなくても生きていける

煮え切らない感じかも。男に思う所がある人が出てくると思いますが、きっと幸せになれるはずです(笑)

読んでいただければ幸いです。

 恋なんてなくても生きていけると思っていた。恋人がいたこともある。けれど、一人の時間を埋めるだけの存在だった。別に一人で何でもできた。結婚を望んだことはない。子どもは可愛いけれど、責任を負う自信はなかった。友だちの子どもを可愛がっているくらいがちょうどいい。

楽しいだけの恋愛ができればよかった。それさえも、別にできなくてもそんなに困らなかった。なのに、どうして私は恋をしたんだろう。左手に指輪をはめた友だちに。


 大手デパートの一角に私の店はあった。ゆっくりとした洋楽をBGMに流す私の店は、お客様の身体の疲れをいやす整体の店。まあ、私の店と言ってもただ名前だけの店長なのだけれども。けれど、疲れた顔のお客様が店を出るときには少しだけ笑顔を浮かべているのだからこの仕事はやめられない。

事務を希望し、一時は大手の企業に就職していたが、人間関係が面倒くさくて3年で辞表を提出した。今は、給料は少なくて、理不尽なことで頭を下げなければならないことが多いけれども、従業員はみんな気の利くいい子で、大抵のお客様は優しい。だから、私の選択は間違っていなかったと胸を張って言える。

「~~~♪」

 事務室で書類の整理をしていた私の耳に軽快な音が聞こえた。お客様の入店を知らせる音に、すぐに手を止め、事務室の外に出る。見えた人影に、私はいつもより1トーン高い声を張り上げた。

「いらっしゃいませ」

「…真奈実?」

「え?…洋平君?」

 大学の同級生で、今は確か東京で働いているはずの田中洋平がそこにいた。私たちの声を聞きつけたのか従業員が「店長、お知り合いですか?」と声をかけた。

「そう。大学の同級生」

「え?真奈実、店長なの?すげぇじゃん」

 会わなくなって3年は過ぎただろう。それでもあの頃と何も変わらない口調で彼はそう言った。それが嬉しくて、小さな笑みがこぼれる。

「すごくないよ。ただ名前だけだし。ちょっとでも売上落ちたらすぐに変えられちゃうしね。…それより、洋平君はどうしたの?帰省?」

「いや、転勤でさ。地元に戻された」

「え?なんかしたの?」

 私がそう言うと、洋平君は楽しそうに「変わらないな」と小さく言った。

「え?」

「真奈実はそういうなんでも口にしちゃうところ、全然変わらないよな。…何にもしてないよ。ただ、そろそろ親も年だし、異動希望書いたら通っただけ」

 その顔はどこか思い出に浸るようで、私はなんだか恥ずかしくなり話題を逸らした。

「そうだ。本日はどうされますか?」

「お、営業顔」

「茶化さないでよ。恥ずかしいから」

 わかりやすく頬を膨らめて見せる。洋平君は楽しそうに笑った。

「肩こりがすごいから、この1時間コースってやつで」

「かしこまりました。それじゃあ、絵美ちゃん。お願いね」

「あれ?真奈実じゃないの?」

「店長はいろいろ忙しいの」

 そう言って絵美ちゃんに洋平君をまかせ、私は奥の控室に入った。厄介だなと思う。簡単に距離を縮めてくるあの笑顔は大学の頃から厄介だった。


 地元の大学に通っていた頃、洋平君とそんなに接点があったのかと言われれば否と答える。ゼミが一緒だったわけではなく、ただ入った学科が一緒だけだった。同じ講義を2つか3つ受けていたというだけの仲。特にサークルが一緒だったわけではなく、学科での発表会後の飲み会で一緒に飲む程度だ。だけれど、彼は私を「真奈実」と呼び捨てにした。人懐っこい笑顔で、背も高くて、話すときはまっすぐ目を見てくる。そんな彼に呼び捨てにされて私の心は大いに盛り上がった。彼を好きになるのに時間はかからなかった。けれど違うのだ。彼は誰にでもそうする。それに気づいたときには、もう好きになってしまった後だった。

 またか、と思い私は胸を押さえた。忘れていた胸の痛み。

 急に事務室の電話が音を立てた。私は深呼吸し、受話器に手を伸ばした。

「はい」

「予約を取りたいんだけど」

 店の名前を言う前に、そう言われた。その声には聞き覚えがあった。

「林様ですか?」

「わかるの?」

「わかりますよ。常連様ですから」

 そう言うと電話口で嬉しそうに笑う声が聞こえた。私も嬉しくなって小さく笑う。

「いつもどおり高橋でよろしいでしょうか?」

 整体師は指名できるようになっている。林様はいつも絵美ちゃんを指名しているので今回もそうだろうと私はそう言った。絵美ちゃんは可愛いわりに力があり、男性のお客様からの指名が多い。

「ああ。今度の12日だけど、3時くらいはどうかな?」

 林様の言葉に私は、予約表を見た。絵美ちゃんの予約は2時からと4時から入っている。ぎりぎり入れないことはないが休憩がないのは大変だろうと私は少し考える。けれど林様は常連様だ。しかも整体という性質上、断るのは次にかかわる。

「林様、少しお待ちいただけますか?高橋に確認してまいります」

「ああ。わかったよ」

 了解の言葉に私は保留ボタンを押した。一つ深呼吸をする。

「失礼します」

「店長?」

 施術中の絵美ちゃんのブースに私は入っていった。うつ伏せになっている洋平君の近くに行き、声をかける。

「洋平君、ごめんね。絵美ちゃん少し借ります。日程確認したいの」

「いいよ」

 洋平君の了承の言葉に私は「ありがとう」と告げ、絵美ちゃんに予定表を見せながら確認する。

「林様からご予約の電話なんだけど、ここなんだよね。…どうかな?」

「大丈夫だと思います。5分くらい待ってもらうかもしれませんが。…店長、少しだけ代わっていただけますか?私から林様にお話ししますので」

「わかった。お願いします」

「それでは、田中様。少しだけ離れます。その間、松本が代わりに施術いたします」

「わかったよ。行ってらっしゃい」

 うつ伏せの状態から少しだけ顔を上げて、洋平君は笑みを浮かべた。それに小さく会釈をすると、絵美ちゃんはブースから出た。

 私は「失礼します」と一言告げ、洋平君の背中に手を置いた。大きな背中は言っていたようになかなか凝っているようでかたかった。

「凝ってますね」

「やっぱりな~。歳ってことだな」

「仕事大変なの?っていうか今日はお休み?」

「引っ越しで大変だろうからって午後は休みをくれたんだ」

「いい会社だね」

「小さいから融通が利くだけだよ」

 そう言った洋平君の声が嬉しそうだったので、会社が好きなのだとわかった。

「楽しそうでいいね」

「真奈実は楽しくないの?」

「ううん。楽しいよ」

「だと思った」

「え?」

「だって、楽しそうだもん。顔見ればわかるよ」

 手が止まりそうになるのを辛うじて堪える。洋平君は人との距離をすぐに詰めてしまう。それが嬉しくて、それがつらかった。

 恋なんかなくても、仕事が楽しくて、一緒にいる人たちが優しくて、それで充分だった。なのに、どうして、恋をしたくなるんだろう。

 気持ちを切り替えるように施術の場所を背中からハンドマッサージに移す。手を触ると左手の薬指に銀色の指輪を見つけた。

「あ、ごめん。外そうか?」

「…ううん。大丈夫」

 施術中でよかったと思った。きっと私の顔は、何とも言えない表情を浮かべていることだろう。好きだったのは3年も前なのに。それでも、左手の薬指に指輪をしていたことが、こんなにショックなんて。

 結婚していたってなんらおかしくない。だって私たちは26歳だ。彼のようにルックスが良く、性格もいい人はいつだって素敵な人が隣にいる。それなら、結婚だって当たり前だ。それに、彼を好きだったのは、何年も前のことだ。ショックを受けるなんておかしい。それなのに、胸が痛くなるのはなぜだろう。

「店長、すみませんでした」

 背中からかけられた絵美ちゃんの声に、私は安堵の息を吐いた。

「洋平君、絵美ちゃん来たから変わるね。…絵美ちゃん、後よろしくね」

 そう言って絵美ちゃんを見る。絵美ちゃんは頷きながら洋平君に声をかけ、施術を再開した。

「あ、真奈実」

「…何?」

 呼び止められるとは思っていなかったので、一瞬反応に遅れた。絵美ちゃんが一瞬こちらを見る。席を外すかどうか表情で確認してきたので、私は首を横に振った。

「気持ちよかったよ、ありがとう」

「そう言っていただけて、光栄です。それじゃあ、行くね」

「ああ」

 了解の言葉に私はやっとその場からいや、洋平君の傍から離れた。純粋に「田中洋平」という人は、すごいなと思った。ずっと前にしまった筈の恋心を一瞬で呼び戻してしまうのだから。胸がドキドキして、心臓の音がうるさい。けれど私は、気づかないふりをした。


 私の店は、デパートの中に入っている一つの店舗であるため、デパートが終了する20時が閉店時刻だ。片付けという片付けもそんなにないため、20時30分には店を出ることができる。もちろん、シフト制であるから、毎回20時30分まで店にいるという訳ではないが、今日はデパートを出たころにはすっかり空は暗くなっていた。

 ふと、バッグが揺れたのを感じた。マナーモードにしておいた携帯が揺れている。液晶画面を見れば名前の表示はなく、番号のみだった。誰だろう。そう思いながら電話を取る。

「はい、松本です」

「あ、真奈実?」

「え?」

「俺だよ。洋平。真奈実の番号が変わってなくてよかった。もう仕事終わった?」

 思いがけない電話に私の足は止まった。思考も。突然のことに身体が反応しない。

「お~い、真奈実?聞こえてる?」

「…あ、うん。…聞こえてるよ」

「もしかしてまだ仕事中?」

 急に声を小さくし、こちらに気を遣う洋平君に徐々に冷静さを取り戻していく。伊達に接待業をしていない。いや、さっきの反応なら、接待業失格だろうか。

「ううん。今、終わったところだよ」

「遅くまで大変だな」

「そんなことないよ。うちはシフト制だから」

「じゃあ、早い日もある?」

「うん、あるよ」

「じゃあさ、久しぶりに飲みに行こうよ」

 楽しそうな声が耳に入る。旧友に会ったとしてもそこまで仲が良かったわけではない。少し話したことがある程度。みんなが交換していたから連絡先を交換しただけ。ただそれだけなのに、こんなに簡単に距離が縮まるのが、洋平君らしいなと私は思う。そして、怖いなとも。心臓がまた勝手に速度を上げる。そろそろアラサーの冷静さを私の心臓は持つべきだ。けれどそんな風に考える私に構わず、楽しそうな声は話を進めていく。

「な、いいだろ。この辺、変わっちゃってて、わかんないし。久しぶりに真奈実と飲みたいし」

「……うん、いいよ。あ、大学同じだった人、誰か呼ぼうか?」

「あ~、いいや。俺と真奈実の共通の友だちってあんまりいなかったし。今回は2人で飲みに行こう」

「……」

「…もしかして、彼氏に怒られるとか?」

「残念ながら、彼氏なんて素敵な人はいないんだよね。だから、大丈夫だよ」

 それより洋平君こそ、奥さんに怒られたりしないの?本当はそう聞くべきだったのに、怖くて聞けなかった。左手に薬指をしていることが何よりの証明なのに、洋平君の口から「奥さん」を聞く勇気が私にはなかったのだ。

「…いつにしようか?」

「真奈実の早い日はいつ?」

「ん~、明日と、3日後の月曜日と…」

「じゃあ、明日どう?」

 まだ続くはずだった私の言葉を洋平君は遮るようにそう言った。明日、そう言ったのは自分だが、その突然の誘いに驚いてしまう。

「次の日休みだと飲みに行きやすいからさ」

 私の沈黙を悪い方に捕えたのか、洋平君は明日にした理由を追加して伝えてくる。そう言えば、明日の土曜日と次の日曜日は一般的には休みだった。

「じゃあ、そうしようか。お店は、行きつけのお店があるからそこ紹介するよ。ご飯もおいしいし、安いよ」

「おお!いいな、それ。楽しみ。どこに何時くらいに集まろうか?」

「店が駅に近いから、駅南に18時でどう?」

「了解」

 駅と言えば一つしか思いつかない私たちの地元。そこに洋平君は帰ってきたのだ。奥さんを連れて。いや、こちらの人なのだろうか。でもそうだとしても、きっと私の知らない人だろう。知っている人ならば紹介してもらえるはずだから。

「…真奈実、どうかした?」

「ううん。何でもない。楽しみだね」

「ああ。じゃあ、明日」

「…うん。また、明日」

 そう言って電話を切る。「また、明日」その言葉をもう一度、洋平君に言う日が来るなんて思ってもみなかった。それだけのことに泣きそうになる。けれど、泣いたらダメだ。泣いたら、好きだと認めることになる。どんなに胸が早く打っても、どんなに頬が熱くなっても、好きだと認めることはできない。だって、彼は、人のものだ。


 空を見上げれば、灰色の薄暗い色が視界に入る。肌に感じる空気の冷たさに比例して夜は暗くなっていく。

 約束の5分前に、待ち合わせ場所についた私を先に着いていた洋平君が笑顔で出迎えた。

「ごめん、待った?」

「今、来たばっかだから大丈夫」

「そう?じゃあ、よかった。それじゃあ、早速行こうか。こっちだよ」

 よくある恋人のような会話。そんな風に考えた自分を心の中で叱咤する。友だち、だ。それだけは間違えてはいけない。

「真奈実の行きつけか~。楽しみだな」

「本当においしいよ」

 そんな会話をしながら歩いて5分。目的地に到着した。大通りから一本はずれた小さな店は、隠れ家のような佇まいをしている。

「ここ?」

「うん。雰囲気、いいでしょ?一人でも来るんだ」

「へぇ~」

 そう言いながら店を見上げる洋平君に小さく笑いながら私は、店のドアを開ける。

「いらっしゃいませ!」

「こんばんは。2人だけど入れますか?」 

「ええ。…今日は、男性と一緒なんですね」

 馴染みの店員がそう言った。その言い方にどこか深みを感じて苦笑いする。

「意味深な言い方しないでよ。ただの友だちだから」

「こんばんは」

「こんばんは。初めまして。さあ、中へどうぞ」

 そう言ってカウンター席へ案内される。

「いつもと同じでいいですか?それとも今日は、別のにします?」

 店員さんがそう言った。いつもメニュー表を開かずに、生ビールとお造りが出てくる。その後には、鶏のから揚げと煮物。同じものを頼み過ぎて、この店員さんがいるときには「いつもの」と言えば通じるようになっていた。

「今日はちゃんとメニュー見ます」

「そうですか」

「…洋平君、何食べたい?」

「いつもの、があるの?」

「え?」

「今の会話」

「ああ~。うん、まあ。いつも同じものばっかり頼んじゃうからこの店員さんがいるときには『いつもの』って言えばいいんだよね~」

「ふ~ん」

 そういうと洋平君は店員さんに視線を向けた。彼はそんな視線が向けられていることに気づかずに他の席のメニューを聞いている。

「格好いい人だね」

「え?…そうだね。目の保養にちょうどいいかな」

 笑いながらそう言う。ちょっと、おばさん臭かったかな?と少し反省した。

「俺、真奈実の『いつもの』が食べたいな」

「…いいの?」

「だって、おいしいんでしょ?」

「うん!」

「じゃあ、それで」

 そういうと洋平君は店員さんを呼び、『いつもので』と注文をした。そんな洋平君の反応に店員さんが面白そうに笑う。

「いつもの、ですね。かしこまりました」

「…」

「睨まないでくださいよ、怖いな」

「…別にそういうつもりじゃないですけどね」

「それならよかった。…今、持ってくるんでお待ちください」

 そう言って店員さんは軽く頭を下げる。

「…今の何?」

「ん?」

「なんか不穏な雰囲気?」

「別に」

 どこか不機嫌になる洋平君に思わず首を傾げるが、それ以上は何も言ってくれなかった。

 馴染みの店で、いつものメニューを洋平君とつまむ。それが不思議で何度か夢なのかもしれないと思った。いつもと同じメニューにいつもと同じお酒なのに、いつもと違う雰囲気で、楽しくて、酔いが回るのが早かったように思う。

「…真奈実、大丈夫かよ?」

「いつもはこんなに酔わないんですけどね。今日は楽しかったのかな?」

「…あんた、よく見てるんだな」

「まあ、女性一人で居酒屋に来る人って結構珍しいですからね」

「そうかよ」

「そんなにカッカしなくても、何もしませんよ」

 頭上でそんな言葉が交わされる。けれどふわふわした頭にはなかなか入ってこなかった。赤くなった顔に、どこかふらつく足元。そんな私を支えるようにして洋平君が席を立つ。お金を払い、店の外に出た。半分払わなくちゃ。そう思うけれど、上手く頭が動かない。

「洋平君…お金…」

「いいよ、俺が奢る」

「そういうわけには…いかないよ…」

 そういうわけにはいかない。だって自分たちは「友だち」だ。奢られる理由などない。

「じゃあ、今度は真奈実が奢って」

「…」

「それでチャラでいいだろう?」

 ああ、やっぱり夢なのかもしれないと思った。だって、次に会う約束までできてしまった。酔いも回ってか、思考が大学生の頃に戻ってしまう。洋平君を好きだった、あの頃に。

 ふと右手が洋平君に触れた。離れようと思って距離を取ろうとするけれど、できなかった。触れた右手を洋平君の左手が掴んでいたから。その行動に思わずどきりと胸が鳴る。どういうことかわからなくて、頭の回転が一瞬止まる。

「よ、洋平…君…?」

「ん?」

「…あの、手…」

「繋いでるな」

「……」

 あまりにも平然としている洋平君の姿に、そう言えば自分たちは大人だったなと思い出す。上がった体温を一番傍にいる誰かと共有し合う。それくらい普通なのかもしれない。大切な人が他にいたとしても。

 恋なんてなくていいと思っていた。それなのに、一度消えかけて、きちんと消えていなかった恋は簡単に燃え上がる。大きな手が自分に伸びてきて、肌に直接触れるたび、幸せな声が上がった。この先はきっと不幸でしかない。それなのに、今が幸せならそれでいいと思ってしまった。


 それから何度も逢瀬を交わした。身体が交わるときもあれば、ただ食事だけの時もあった。相変わらず、洋平君の左手には指輪が光っている。

 どうしてこんな風に自分に触れるのかわからなかった。けれどそれを問いただすことは、この関係を終わらせることになる。だから、私は何も言えなかった。こんな関係を望んだわけじゃないのに。それでも心が洋平君を求めるのだから仕方がない。

「…浮気されてた」

 久しぶりに会った友だちの裕子がどうしても飲みたいというので一緒に居酒屋に行った。生ビールを一口で飲み干し、ジョッキをテーブルに音を立てておいたと同時に、そう言った。突然の言葉に思わず目を丸くする。もうすぐで結婚するんだ、そう惚気話を聞いたのはつい先日の事だった。

「勘違い…とかじゃなくて?」

「ガッツリ現場に鉢合わせしました!」

 語尾が強まり、苛立ちを向けられるが仕方がないことだと思う。苛立ちを受け止めて、もう一つビールを注文し、彼女に向き合う。

「…それは…」

「笑ってくれていいよ。結婚だって浮かれてたのに、バカみたいだね」

「……笑えないよ」

「……そりゃ…そうか」

「うん」

 悪くなっていく雰囲気に、2人同時にビールに口をつける。

「これからどうするの?」

「別れる」

「…そっか」

「だってあいつ、私の後輩に手出したからね」

「…」

「仕事だってやりずらくなるし!…ま、そりゃあ、アラサーの私より、若い子の方がいいのかもしれないけど、手出すにしてももっと他のところあったと思わない?」

「そうだね」

「……悔しい」

「うん」

「何が一番悔しいって……今でもあいつが好きな自分が、……一番悔しい」

 そういう裕子の目に光るものを見つけて、自分も泣きそうになった。けれど、泣く資格はないと懸命に堪える。だって、自分がしているのは、裕子の後輩と一緒の悪行だ。いやもっと悪い。だって、洋平君は、結婚している。

「私が一番好きだって言ってたのに…」

「うん」

「これからも一緒にいようって」

「うん」

「……結婚して、子ども作って、…幸せになろうって…」

 最後の方は言葉にならなかった。たしかこの前、裕子と彼は一緒に式場の下見に言っていた筈。どんな気持ちで裕子の後輩に手を出したのか。きっと裕子は後輩にも結婚のことを言ってただろうと思う。どんな気持ちでその後輩は彼を受け入れたのだろうか。一度その後輩と話してみたいと思った。そうすれば、自分の罪が少しでも軽くなるかと思った。

「…ごめん」

 思わずそんな言葉が口から出た。そんな私に裕子が笑う。

「なんであんたが謝るの?」

「…そうだね。でも、…ごめん」

「あ~わかった、わかった。許してあげる。だから、そんな顔しないの」

 そう言って裕子がジョッキを手に持つ。私も同じようにジョッキを手にした。

「うちらの輝かしい未来に乾杯!」

 そう言ってジョッキをぶつけ合う。いい音が鳴った。懸命に元気に振る舞う裕子の髪を軽く撫でてやる。

「…真奈実が男だったら、真奈実と結婚してるわ」

「任せて。養ってあげる」

「イケメン~」

 そう言って笑い合った。涙も混じっていた。そんな裕子を見て、私はようやく決意した。

「…洋平君、今から会えないかな?」

 裕子と別れてすぐに、電話をかけた。夜は10時を回ろうとしている。迷惑だってことわかっていた。けれど、今言わなければ、一生言えない気がした。

「珍しいな、真奈実が急に電話してくるなんて」

「ごめんね。迷惑だって分かってるんだけど、今、どうしても会いたいの」

「わかった。今どこにいる?」

「駅前」

「一人だよな?」

「うん」

「…すぐ行くから、人通り多いところにいろよ」

「うん」

 そう言って電話を切った。これで最後になるそう思うと苦しいけれど、やっと肩の荷が下りるような気がした。不倫、なんてするものじゃないなと思う。こんなに苦しい。どれだけ好きだろうと、誰かのものに手を出していいことなんてあるはずないのだ。

 10分もしないうちに洋平君が来た。

「お前な、こんな夜遅くに一人で出歩くなよ!」

 どこか怒るその顔さえ愛おしくて、苦しくなる。

「…洋平君」

「…真奈実、どうした?何かあった?…こんなに夜遅くに呼び出すし…なんか嫌なことでもあった?」

 いつもと違う私の様子にどこか心配そうに洋平君が言った。こんな風に心配されるのももう最後になるのだなと思う。

「もう、終わりにしよう。洋平君とは、もう会わない」

「…え?」

「じゃあ、さようなら」

 そう言って背中を向けた。洋平君が心配しないようにふらつきそうになる足を叱咤し、まっすぐ歩く。振り返りたくて、仕方がなかった。けれどそれができないことは一番自分がよくわかっていた。

「…真奈実!」

 突然、肩に手がかかり、振り向かされる。振り向いた先には洋平君がいた。どこか必死の表情で私の名前を呼んでいる。夜遅いとは言っても駅前だ。まだ人通りが多い。大きな声を出す洋平君に周りの人たちが何事かとこちらを見る。

「なんだよそれ!ちゃんと説明しろよ!」

 声のボリュームを落とさない洋平君に戸惑った。思わず手を引き、人気のない公園まで歩いていく。おとなしく着いてくる洋平君は、私の手を放さまいときつく手を繋いでいる。ここまで来ればいいだろうと私は洋平君の手を放そうとした。けれど、洋平君はまだ私の手を握っている。

「…洋平君?」

「なんで、急にそんなこと言うんだよ」

「…」

 なんで、なんて聞く権利、洋平君にあるのだろうか。そう思うと怒りが込み上げてきた。

「ちゃんと……恋がしたいから」

 怒りを抑えて、そう言った。小さな声だったが洋平君には届いたようで、そんなことを言った私を驚いたように見ていた。

「好きになっていい人を…好きになりたい」

 恋なんてなくても生きていけると思っていた。仕事は楽しいし、友だちと一緒にいるのも楽しかった。子どもは可愛いが、人の子を可愛がるので十分だった。今の生活に満足していた。だから、これ以上なんて求めていない。ドキドキがなくたって、毎日が幸せだった。けれど、洋平君と一緒にいて、触れる体温の温かさを思い出させられた。隣に人がいること。その人を好きなこと。それが幸せだって思った。今の生活がより、幸せに感じられた。だから、誰かを好きでいたいそう思った。けれどそれは、誰かを傷つけていいものじゃない。だから、好きになっていい人を好きでいたい。皆に、私はこの人が好きなんだって大きな声で言える人を好きになりたいと心から思った。

「…俺は好きじゃない?」

「…好きだよ!だから、…もう一緒にいられない」

「なんで!」

「だって、洋平君、結婚してるでしょ!!」

 声のトーンを押さえられなかった。大きな自分の声が人気ない公園に響き渡る。

「……それでも好き、とはならないの?」

「誰かを傷つけるのは、好き、なんかじゃないよ。…綺麗事だってわかってるけど。この歳になってまだそんな青臭いこと言ってるのかって、自分でも思うけど。でも、やっぱり、私は誰も傷つけたくない。好きになっていい人を好きになりたい」

 私の言葉に洋平君は掴んでいた手を引いた。倒れ込むように洋平君の胸の中に収まる。背中に手を回されぎゅっと抱きしめられた。

「よ、洋平君!」

「俺も、真奈実が好きだ」

「…でも…」

「うん。ごめん。…俺、結婚してないんだ」

「……え?」

 突然の言葉に、思考が追い付かない。けれど洋平君は混乱している私を他所に、言葉を続ける。

「結婚していたよ。去年まで。でも、1年で別れた。…何もかも早かった。相手の事もちゃんと見ずに、ただ一緒にいたいって気持ちだけで結婚した。結婚してみたら、すれ違いで、相手のことが毎日一つずつ嫌いになっていって、最後は弁護士はさんで、離婚した」

「…」

「周りへの説明が面倒で、指輪を外さなかった。そしたら、外すタイミングがわかんなくなって…ごめん」

「…」

「真奈実のこと、久しぶりに会って、昔好きだったことを思い出したんだ。懐かしくて、話したくて、話したら一生懸命な姿が可愛くて、思わず手を出してた。初めがそんなだったから、今更どうしていいかわかんなくて、指輪も外せなくて…ごめん」

「…ごめんじゃ…ない」

「うん、ごめん」

「…私が、どんな気持ちでいたと思ってるの」

「うん」

「洋平君には大切な人がいるのに、人のものなのに。それでも惹かれていく自分が苦しくて、毎回今日で最後にしようって思うのに、次に会えると思うと嬉しくて…でもそんな自分が最低だって思って…苦しくて」

「うん」

「嫌い、洋平君なんか嫌い」

「うん。ごめん。でも、俺は好き」

 そう言って洋平君は私を抱きしめる腕に力を込めた。きっとこの人は知っている。私の嫌いがその場限りのものだって。だけど私はもう一度嫌いだと呟くように言った。

「後悔はしないって決めたんだ」

「…」

「真奈実と会って、もっと話したいって思った。話してたら好きだって思った。だから一緒にいた」

「洋平君は勝手だよ」

「うん」

「…でも、好き。…それが悔しい」

「俺も真奈実が好きだよ」

 この人と一緒にいるときっと休まらない。ずっと不安を抱えていなければいけないのかもしれない。けれど私の「好き」という言葉に、嬉しそうに笑みを浮かべるこの人を私は抱きしめたかった。おずおずと手を伸ばし、洋平君を抱きしめる。そんな私に洋平君は幸せそうに笑った。

 恋なんてなくても生きていけると思っていた。いや、きっと恋なんてなくても生きていけるだろう。幸せにもなれる。恋が与える不幸も知らないままでいられるかもしれない。それでも私は恋をしたい。このちょっぴりずるいこの人と。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

うん、たぶん。真奈実は幸せだと思う。


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