第八十四話 衝突へ
エリクは闘技場に出る細い通路を歩く。
最初は慣れなかったが、さすがに何度も戦っていれば余裕も出てくる。
いつもは、適度に痛めつけられつつ勝つという気持ちでこの道を歩いていた。
しかし、今日は少しいつもと違う。
まず、この通路にいても聞こえるほどの大歓声と、地面が揺れていると思うような熱気。
これは、エリクの今までの戦いの中ではなかったことだ。
彼は、この闘技場では新入り。アマゾネスたちの観客も、新入りのために闘技場を満員にすることはなかった。
しかし、今日は違う。
エリクがアマゾネスの女王であるガブリエルに頼み込んだおかげで、今日選ばれた彼の対戦相手はこの闘技場をいっぱいにするだけの実力があるのだ。
通路を抜けて戦いの場に出ると、アマゾネスたちの大歓声がエリクを迎え入れてくれた。
とはいえ、これは彼に向けられたものではない。
すでに、彼の前に立っている男に向けられているそれであろう。
罵声ならまだしも、これほどの好意的な歓声を受けている対戦相手に、エリクは羨ましいとは微塵も思わなかった。
むしろ、観客たちが対戦相手の味方なので、このアウェー感は嬉しく思っていた。
「まさか、こんなにも早くお前と対戦することになるとはな」
「今日はよろしくお願いします、ユーリさん」
エリクの、これから殺しあう者に対して言うべきことではない言葉に、対戦相手――――ユーリ・ヴァレンニコフは苦笑いしてしまう。
どうにも、目の前の対戦相手は独特な雰囲気を持っている。
犯罪者ばかり集まるこの闘技場では、ほとんど見られないのんびりとした穏やかな空気だ。
そんな雰囲気を醸し出していたからこそ、ユーリは多くいた新人の中からエリクに話しかけたのだが。
「まったく……これから、殺し合いをするということを理解しているのか?」
「ええ、もちろんです。とはいえ、私たちは憎み合って敵対し、戦うわけではないのです。そんなに敵意をむき出しにする必要はないかと思いまして……」
「まあ、そうだが……」
本当に、優しいことを言ってくれる。
剣闘士同士の殺し合いを目前にして、このように言える者がいったいどれほどいるだろうか。
流石は、利他慈善の勇者ともてはやされているだけのことはある。
だが……。
「だが、この戦いに手加減はしないぞ。俺には俺の目的がある。そのためには、一度たりとも負けるわけにはいかん」
そう。いくら知り合いでも、その人となりを好ましく思っていようとも、この戦いで手心を加えるなんてことはない。
ユーリは、この闘技場から抜け出さなければならないのだ。
そして、ありもしない罪を着せてここに叩き込んだマイン・ラートに復讐を果たさなければならない。
そのためには、どのようなこともすると心に決めた。
そう、たとえ、目の前に立つエリクを斬り殺すことになっても、だ。
「ええ、もちろんです。そうでなければ、私は嬉しくありませんから」
エリクの不敵な言葉に、ユーリは笑う。
『狂戦士』と彼を呼ぶ者もいるらしいが、なるほど、あながち間違いではないようだ。
「だが、俺がこの闘技場で最強の存在だと知って言っているのか?」
ユーリはスラリと細身の剣を抜く。
言葉だけを聞けば自信過剰なことを言っているようだが、これは紛れもない事実なのである。
今の彼に、この闘技場の剣闘士で勝てる者はいない。
もともとマインの私兵団の一員として鍛え続けていたことと、この場所で凄惨な命の取り合いを続けてきた結果、彼は実力と経験を兼ね備えた最強の剣闘士へと上り詰めたのだ。
そんなユーリは、時折我慢できなくなって勝負を仕掛けてくるアマゾネスにも、何度か勝利を収めたことがあるほどだ。
彼からすれば、いくら勇者として活動していても、エリクがどんなことをしてきたのか詳細は分からない。
そのため、新人が最強の剣闘士に挑んでいるようにしか思えないのだ。
そして、それは間違いなく新人の死につながる。
「ええ、分かっていますよ。分かっていて、私がお願いをしたのですから」
「なに?」
エリクの言葉に、怪訝そうに眉を上げるユーリ。
そのすぐ後、アマゾネスたちの歓声がさらに高まった。
何事かと目をやれば、普段は決して現れない存在をユーリは見るのであった。
「女王ガブリエル・モニク……」
白髪の褐色肌、女性らしさをあふれさせるスタイル。
そして、歓声に困ったように顔を歪ませながら答えているのは、アマゾネスたちの女王であるガブリエルであった。
「何故彼女が……」
ガブリエルは、アマゾネスの女王であるにもかかわらず、アマゾネスたちに人気のこの闘技場にはほとんど足を運ばない。
血や闘争が嫌いというわけではないようだが……。
闘技場最強の剣闘士であると同時に人気も最も高いユーリの試合にも一度たりとも来なかったガブリエルが、この試合は来ていた。
「お願い……お前、まさか女王に申し立てたのか?」
「少し、知り合う機会を得られまして……そこで、罪滅ぼしという形で」
「……女王はお前に何の負い目があるんだ?」
何があったのか知りたくなるが、今はどうでもいい。
しかし、ガブリエルがここにやってきていることは、ユーリにとってもチャンスかもしれない。
ここで良い試合を見せれば、もしかしたら女王の目に留まってここから抜け出すきっかけになるかもしれない。
「だが、お前は何故俺との試合を望んだんだ?」
憎まれていたというわけではないだろう。
それなりに親しく、うまくやっていたはずだ。
「最強の剣闘士を新人が倒したら、お願いを聞いていただけるようでしたので……」
「下剋上か」
なるほど、確かにそういう制度もあるのだろうが……。
しかし、大胆なことをするものだ。この制度のことを知っても、実際にやろうとする者がどれほどいるだろうか。
「もちろん、絶対に勝てると踏んでいるわけではありませんが……せっかくの制度ですし、使っておかないと損かな、と」
「気を遣うな。もし、俺が新人だった時にその制度を知っていれば、俺も使っていただろうさ」
それに、気を遣わないのはユーリも同じだ。
たとえ、相手が見知っているエリクであろうとも、殺すつもりで戦う。
「戦いの前に、少し聞いておきたことがあるんだけど、聞いてもいいかな?」
試合開始の合図があれば、いつでも衝突するという空気が流れていた中、ガブリエルのどこかのんきな声が聞こえてきた。
しかし、それが女王の言葉でもあるので、アマゾネスたちも歓声を小さくする。
「これは、明らかに下剋上だよね。だから、挑戦者の立場のエリクは、もし勝てば何かしら聞ける範囲でのお願いを言うことができるんだけど……それは何かな?」
ガブリエルの質問に、闘技場はエリクの返答を待って静まり返る。
彼女たちも、エリクの望みに興味があるのだろう。
「……いえ、とりあえず、勝ってから言いたいと思います。口だけでは、ダメですから」
だが、エリクはふっと笑って明言を避けた。
不満そうな声が観客席から聞こえる。これも、彼女たちの気持ちがユーリに向いているからだろう。
そのことが嫌だとはエリクは思わないし、むしろ彼はガブリエルの後ろでたんこぶを作りながら手を振ってくるアンネに気が向いていた。
怒られたんだろうなぁ……。
「じゃあ、始めようか」
「ええ」
ユーリとエリクは短く言葉を交わし、そして衝突したのであった。