第六十三話 立ち上がる勇者
血を噴き出しながら倒れるエリク。
少しの浮遊から一切受け身をとることができずにどしゃりと地面に崩れ落ちた彼を見て、エレオノーラは彼が死んだと確信した。
いや、命までは奪えなかったかもしれない。
だが、確実に後遺症となるほどのダメージは負ったはずだ。
固形物を噛むことは、もはやできないであろう。
「あはぁぁぁぁ……!」
それを想像すると、口から熱っぽいため息が出た。
「あぁ、いいです、とてもいいです。この拳に、手甲越しとはいえ顎が砕ける感触がありました。あぁ、気持ちいい……。顎は粉々になって、整っていた顔も崩れてしまったでしょう? 脳が大きく揺らされて、後遺症が残るかもしれませんね。それを、私がしたんです。あぁ、なんて甘美な……」
蕩けた表情を浮かべるエレオノーラは、自身の身体を抱きしめて悦に浸っていた。
その間に、ミリヤムはエリクに駆け寄って回復魔法をかける。
とてつもないダメージだったので、彼に与えていた魔道具では回復しきれないと確信したからである。
回復魔法をかけていると、みるみるうちにエリクの外傷は治っていくが、ミリヤムの魔法の弊害でエリクは激痛に悶えて悲鳴を上げる。
それを聞いて、エレオノーラはさらに身体を快楽で震わせる。
「……私たちをだましていたんですね。嘘つき! 酷い……!」
ミリヤムは目に涙を溜めてエレオノーラを睨みつける。
エリクよりもはるかに戦闘能力のない彼女は、エレオノーラと戦っても一瞬で殺されてしまうだろう。
しかし、そのことが分かっていても、エリクを傷つけられたミリヤムは怒りを抑えることができなかった。
そんな彼女に、エレオノーラは冷たい目を向ける。
「酷いと言いたいのはこちらのセリフです。あなたたちが……エリクが私の本性を言い当てなければ、私たちはうまく付き合うことができていました」
エレオノーラの表情が、快楽に酔っていた笑みからだんだんと硬いものになっていく。
「今まで、私は我慢してきたんです。目につく人、視界に入る人全てを殴って痛めつけてやりたいという気持ちを何とか押さえつけて……悪人だったら、悪人だけだったら殺してもいいと逃げ道を作って、自分自身を何とか制御していたのに……!!」
ギリッと歯を固く食いしばる。
「騎士になったのも、こんな歪な性格を直すためです。清廉潔白の騎士団の中に入れば、少しは薄れるかと思って……でも、何も変わりませんでした。私が王都の騎士団に入れないのは、これが原因でしょう」
騎士になってからも、いや、なったからこそエレオノーラは悪人に対して苛烈な攻撃を加えるようになった。
悪人だからこそ彼女が罰せられることはなかったが、出世することもなくなった。
「次は、正義という言葉にすがり始めました。自分は正義、だから正義らしく振る舞わなければならない。そうやって、私自身を何とか押さえつけて……!!」
ミリヤムは、エレオノーラがこの歪な性格を良しとしていたわけではないことを初めて知った。
彼女の独白は、まるで血を吐くような迫力があった。
自身の歪な性格を直すため、エレオノーラもありとあらゆることをしたのだろう。
騎士団に入って矯正しようとして、それに失敗すれば今度は正義という言葉で自身をだまして押さえつけ……。
エレオノーラの長年の苦しみが、ミリヤムにひしひしと伝わってきて、彼女は責めたてることができなくなってしまった。
しかし、それで彼女のことを許すことができるかといえばそうではない。
自身の大切なパートナーであるエリクは血みどろで、治癒速度が飛びぬけているミリヤムの魔法をもってしても、いまだにエリクを回復させることができないほどのダメージを負わせたのだから。
「正義という言葉と振る舞いで、私自身をもだまして……何とかうまくやっていたんです。悪人に苛烈な攻撃を仕掛けることで、他の無実の人たちに牙をむかないようにして……やっていたんです!!」
バッと顔を上げるエレオノーラの顔には、まるで鬼のような怒りの表情が張り付けられていた。
「それなのに、あなたたちが……エリクが余計なことを言うから! 私の本当の性格を思い出しちゃったじゃないですか! どうしてくれるんですか!? これから先、私は悪人だけでなく無実の民にまで攻撃をしてしまうではないですか!!」
目にうっすらと涙を溜めながらエリクを責めたてるエレオノーラ。
彼女は今まで必死に一人で自分と戦ってきたのだ。
それなのに、エリクがエレオノーラの本性を突きつけてしまったことから、もう正義の騎士に戻ることはできなくなってしまった。
何故なら、悪ではないエリクを殴り飛ばした快感もまた凄まじいものだったからである。
この喜びを思い出してしまえば、もう悪人だけを殺すなんてことはできなくなってしまった。
「そんな勝手な言い分……!!」
ミリヤムはエレオノーラに強い怒りを抱いていた。
ギッと普段の彼女なら決して見ることのできない強烈な視線を向け、罵詈雑言を言い放とうと口を開いて……。
「ミ、リヤム……」
「エリク!?」
ミリヤムの肩にポンと手を置いたのは、(快感で)意識を失っていたエリクであった。
彼はプルプルと頼りなさそうにしながらも、再び立ち上がろうとしている。
これには、ミリヤムもエレオノーラも目を丸くして驚愕する。
「む、無茶しないで座っていて。私の回復魔法は、外傷は治せても体力や精神的なダメージは回復できないから……」
「いえ、大丈夫です。これは……この人は、私がどうにかしなければならないのですから」
心配そうに見つめてくるミリヤムにニッコリと微笑み、エリクは立ちあがる。
彼の前に立つのは、ありえないようなものを見る目をするエレオノーラである。
「……驚きました。私の攻撃は、二度と立ち上がれなくなっても不思議ではないほどのダメージを負わせたはずです」
エレオノーラの腕力、強固な手甲、これらが合わさって無防備な顎に叩き込まれれば、顔面が粉々になってもおかしくないのだ。死んでいても不思議ではないのだ。
ミリヤムに回復してもらったとはいえ、再び立ち上がることができる精神力を持っていることが驚きだった。
普通、死ななくてもあれだけの攻撃を受ければ、立ち上がって相対しようと思うだろうか。
おそらく、大半の者はできないだろう。
「また立ち上がるだけの気力を持っているのは、流石は勇者、守護者と言われるだけありますね。……いえ、もしかしたら、狂戦士なのかもしれませんね。私とそんなに戦いたいのですか?」
もしそうなのだとしたら、遠慮せずに殺すことができる。
そう、また自身の欲望のためにエリクをいたぶることが……。
しかし、エレオノーラの言葉に彼は苦笑する。
「申し訳ありませんが、その期待に応えられそうにありません。エレオノーラさんの攻撃は非常に効きますから……戦うことはできないでしょう」
それは、誰の目から見ても明らかだった。
エリクの脚はフラフラとしているし、全身は殴られたり手甲の棘で切り裂かれたりで血だらけである。
外傷はミリヤムによって塞がれていても、出血して衣服に付着した血液の量は半端ではなかった。
「では、何故立ち上がったのですか? 大人しく倒れていれば、もしかしたら見逃していたかもしれないのに……」
エリクが立ち上がった意味が分からず、怪訝そうな顔をする。
しかし、次に彼が口を開いて発した言葉によって、エレオノーラの顔は凍り付いた。
「そうですね。エレオノーラさんを救うため、ですかね」
「…………は?」