第六十一話 正義のためか
「あっ……!」
ミリヤムはそんな言葉しか漏らすことができなかった。
その光景は、あまりにも衝撃的だったからだ。
鼻血を撒き散らしながら吹き飛ぶエリクは、壁に当たってようやく止まる。
脆くなっていた壁はその衝撃で崩れてしまい、瓦礫が彼の上に次々に落ちていくのであった。
「……終わりですね」
ふぅっと息を吐くエレオノーラ。
今回の悪は非常に戦いにくい相手であったが……今回も無事に終わらせることができた。
無事に、悪を滅ぼすことができた。
ああ、なんて清々しい気持ちなのだろうか。
「…………」
視線を強く感じてそちらを見れば、ミリヤムが目に涙を浮かべて睨みつけてくるではないか。
何故そのような視線を向けてくるのか。自分は、悪を滅ぼしただけだというのに。
感謝されこそすれど、恨まれるなんてもってのほかだ。ありえない。
悪を滅ぼした正義をあのような目で見てくるだなんて……。
「それもまた、悪ではないでしょうか?」
スッと冷たい目を向けるエレオノーラ。
ミリヤムも、この手甲で殴り滅ぼそうか? それは、エリクのように……。
しかし、エレオノーラの心のどこかに引っかかるものがあった。
それは、エリクとミリヤムと共に王都の治安のために駆け回った短期間の思い出。
そのことを思い出すと、エレオノーラは不覚にも悪を滅ぼす冷徹な存在になることができなくなってしまう。
そんなこと、あってはならないことなのに。
たとえ、どれほど親密な間柄であったとしても、情があったとしても、その者が悪になったのであれば断罪しなければならない。
何故なら、エレオノーラは正義なのだから。
彼女の脚が、ミリヤムに向かおうとした時であった。
「ッ!!」
崩れ落ちていた瓦礫が弾き飛ばされる。
「げほっ、げほっ……! いい拳をいただきました……」
中から這い出てきたのは、戦闘のはじめより明らかに元気がなくなったエリクであった。
元気はない。しかし、生きていた。
鼻から流れる血を無造作に腕で拭い、剣を杖にして立ち上がった。
エリクが生きていることが分かって、ミリヤムとエレオノーラの反応は正反対であった。
ミリヤムは嬉しそうに破顔し、エレオノーラは驚愕の表情を浮かべていた。
「私の拳をまともに受けてまだ立てるとは……流石は勇者ですね」
「いえいえ。私のスキルによるものと、ミリヤムのおかげです」
エリクは謙遜するが、エレオノーラの心には純粋に感心するものがあった。
自身の拳が強力であることは理解している。
重厚な鎧や手甲を身に着けていながら軽やかに動くことができるほどの力に、強固な手甲。
それをまともに顔面に受ければ、人間であれば大抵が命を落とすだろう。
事実、今まで再び立ち上がった悪人など存在しない。
エリクがフラフラになりながらも立ち上がることができた理由は、彼の言う通り二つである。
彼のスキルである『不死』で、命を落とすことはなかった。
普通、死ななくともそれに相当する痛みを与えられたら戦意が喪失するものだが……彼には特別な才能があるため大丈夫だ。
そして、もう一つはミリヤムにもらっている回復魔法付きのアクセサリー。
これのおかげで、彼の顔面はミリヤムが卒倒しない程度に回復してもらうことができていた。
これがなければ、ぐちゃぐちゃになった顔で再登場するというアンデッドモンスターみたいになっていただろう。
「まあ、生きていても未来は変わりません。悪は必ず滅びる。この私の、正義の鉄槌によって」
エレオノーラは手甲同士をぶつかり合わせる。
再びエリクを殴りつけるという強い決意の表れである。
「エリク……どうするの……?」
ミリヤムはポツリと呟く。
先ほどの攻防を見ていたが、戦闘力は明らかにエレオノーラの方が上だ。
今も彼女はやる気満々でゆっくりと歩いて行っているのに、エリクは立っているのもままならないほどフラフラしている。
このままでは、次のエレオノーラの攻撃を避けることはできず、本当に死んでしまうかもしれない。
スキルがあるからそれはないかもしれないが、ミリヤムの心は心配一色になるのであった。
「少し、疑問に思うことがあるのですが……」
「……何でしょうか?」
避けることもせず、剣を構えることもせず、ポツリと呟くエリク。
普通の悪を相手にする時ならば一切聞かないであろうエレオノーラも、短期間とはいえ共に行動した彼が言った言葉ということで聞き返す。
「エレオノーラさんは『悪』と『正義』という言葉を多用していることから、あなたにとってとても重要な言葉なのだと思います」
「当然です。世の中には様々な価値がありますが、最も重要なのが悪と正義です。そして、悪はこの世に存在してはならない価値。正義である私は、悪を限りなくゼロに近づけていく努力をし続けなければならないのです」
エレオノーラはどこか誇らしげに語る。
騎士たる自分は、正義の執行者である。悪を滅ぼすことは悪いことではない。正しいことである。
これにはエリクも同意する。
「なるほど。確かに、騎士たちのおかげで治安は守られていますしね。エレオノーラさんも、ここ数日で王都の治安のために素晴らしい仕事をしていました」
「あなたもまたすばらしかったのですよ、エリク。そのまま正義の道を貫き通してくれていれば、こうして私に殺されるようなことはなかったのに……」
どこか残念そうに呟くエレオノーラに、エリクは苦笑する。
彼が話しはじめたのは、彼女に情を思い出させて命乞いをするためではないからだ。
「エレオノーラさん、あなたは本当に正義なのでしょうか?」
「…………は?」
一瞬虚を突かれるエレオノーラ。
しかし、次の瞬間には冷たい怒りの炎を燃やし、彼に向かって走り出した。
「何を言うかと思えば、私が正義ではないと? やはり、悪人と話などするだけ無駄でしたね」
「ぐっ……!!」
話している時間で少し回復したのだろう、エレオノーラの攻撃を避けることに成功するエリク。
しかし、何度も手甲を突き出し振るってくる彼女の猛攻に、防戦一方だ。
カウンターなどできる状況ではない。
そんな中でも、エリクは話しはじめる。
「いえ、エレオノーラさんのしていることは、間違いなく正義であり善です。それは、疑いようがありません」
「それでは……」
「ですが」
手甲を剣で塞ぎ、その勢いで後ろに下がるエリク。
距離が離れたことで、エレオノーラも攻撃を一時止める。
何を言うつもりだろうか。分からない。
分からないが、何故か聞いてはいけない気がした。
エレオノーラの顔に汗が浮かび上がる。
そんな彼女を見ても、エリクは口を開いた。
「あなたは本当に正義のために戦っているのですか?」
「…………ッ」
エレオノーラの心臓がドクンと跳ねあがる。
言い返そうと口を開くが、言葉が出てこずパクパクと開閉させるだけだ。
落ち着け、落ち着け。気持ちを落ち着かせて、エレオノーラはキッとエリクを睨みつける。
「あ、当たり前でしょう。正義以外の、何を根拠にして私が戦っているというんですか!? 私が悪を滅ぼしてきた今までを否定するつもりですか!?」
エレオノーラは初めて声を荒げた。
それは、まるでこれ以上痛いところを突いてほしくないというようで……。
しかし、エリクは口を開ける。
「私はずっと疑問に思っていたんです。エレオノーラさんは、何故あれほどまで熱心に誰かを助け、そして苛烈なまでに悪に対して攻撃を加えるのか」
「そ、それは……私が正義だからです。だから、悪を滅ぼすのは当たり前で……」
「ええ、エレオノーラさんはそう言います。私もそうなのだろうと思っていました。しかし、私はどうにも違和感がぬぐいきれなかったのです」
エレオノーラの顔は、今までにないくらい狼狽していた。
たとえ、どれほどの攻撃を受けようとも表情を一切変えない彼女が、エリクの言葉で顔をゆがめているのである。
エリクがその違和感に気づいたのは、こじれすぎた性癖を持つが故である。
同じ時間を過ごしていたノーマルのミリヤムは、エレオノーラを見て違和はまったく感じていなかったのだから。
「エレオノーラさん、誰かを殺したり殴ったりするとき――――――歪な笑みを浮かべていますよね」
「――――――ッ!!」
ビクッと身体を震わせるエレオノーラ。
顔面も蒼白となっていた。
戦闘の状況では、圧倒的に有利なのは彼女である。
エリクからは有効なものどころか一撃たりとも攻撃を受けておらず、一方エレオノーラの強力な一撃を受けた彼はフラフラなのだから。
それなのに、今追い込まれているのは彼女であった。
「わ、笑っている? わ、私が……?」
「ええ。クレト・ラボイを殺害した時も、罪を犯した少年を殺そうとした時も」
愕然としているエレオノーラに、エリクは一つ一つ例を挙げていく。
彼が彼女と行動を共にしたときのことを話していく。
そして、今。
「――――――私の顔面を殴る時も、あなたは凄惨な笑みを浮かべていましたよ。自分でお気づきになっていないのですか?」
「――――――」
エレオノーラは顔を凍りつかせていた。
笑っていた? 誰が? 自分が?
人を殴っていた時に……殺していた時に笑っていた?
暴力を振るうときに笑っていたとしたら、それは正義といえないのではないのか?
それは、まさにエレオノーラが最も忌避している悪なのでは……。
「……見間違えでしょう。仮に笑みを浮かべていたとしたら、それは悪を滅ぼせて嬉しかったに違いありません。……もう、お話はここまでです。後は、あなたを殺すだけです」
「おや。まだ、私の話は終わっていませんが……」
「聞く必要がないと言っているんです!!」
猛然とエリクに接近して襲い掛かるエレオノーラ。
まるで暴風のように手甲を振り回して彼を殺してしまおうとする。
しかし、エリクはそれを見事に避けたりいなしたりして、直撃を受けないでいる。
それどころか、少し余裕の笑みすら浮かべていた。
それは、エレオノーラの動きが先ほどまでとは比べ物にならないくらい精彩を欠いていたからである。
疲れたのだろうか? いや、違う。精神的にダメージを負っているからだ。
そのため、一発をくらってダメージが大きいはずのエリクの方が余裕のあるというおかしなことになっていた。
「仕方ありません。それでは、独り言を言わせていただきます」
「黙りなさい!!」
避けながら言葉を発し続けるエリク。
それを止めようと必死に攻撃を仕掛けるエレオノーラであるが、彼の口を黙らせることもできない。
強固な手甲の猛攻を避けながら、エリクは口を開く。
「なるほど、エレオノーラさんの言う通り、悪を滅ぼす快感から笑みを浮かべていたということも考えられますね。しかし、私の考えは少し違うのです」
「黙れ!!」
丁寧な口調……たとえ、相手が悪人であっても崩さなかった敬語ではなくなり、荒々しい口調に変わる。
顔一面に汗をびっしりと浮かび上がらせ、まさに焦燥しきっている様子。
「悪を滅ぼす正義の笑み……であるならば、もう少し爽やかでもよかったはずです。しかし、何故だかエレオノーラさんの笑みは快楽に酔いしれた者が浮かべるような……そう、高潔なものではなく低俗なもののように見えたのです」
これは、エリクだからこそ気づけた笑みの質の違いだ。
そう、性癖をこじらせた低俗な男である彼だからこそ、自分と同じ類の笑みをエレオノーラが浮かばせていると気づけたのだ。
「黙れと……言っているでしょう!!」
エレオノーラは手甲を纏った拳を振り上げ、エリクに思い切り突きだした。
それは彼が避けることができないほどのスピードで迫っていき……。
「…………は?」
ガキィン! という金属音と衝撃を受けて、エレオノーラはポカンと口を開けてしまう。
目の前の衝撃的な光景……エリクが剣で手甲を受け止めたものが広がっていたからだ。
手甲の大きさと剣のそれは比べものにならない。
また、腕力ならばエレオノーラの方が格上だ。
それなのに、どうして受け止めることが……。
理解できないエレオノーラであったが、要は彼女が図星を突かれて力を出せなくなっただけである。
手甲を受け止めたエリクは、目の前に迫っていた棘を見てうっとりとしながら、ふっと息を吐く。
「私が思うに、エレオノーラさん。あなたは――――――」
エレオノーラの本能が、聞くべきではないと警鐘を鳴らしている。
耳を塞いでしゃがみ込み、声を上げてエリクの言葉を飲み込むべきだ。
しかし、エレオノーラは動くことができなかった。
そんな彼女に、エリクの言葉が突き刺さった。
「――――――人をいたぶることが好きなのではないですか?」