第五十三話 人狼と成り果てたもの
「あー! もう、飽きたー!!」
「デボラ王女、そんなことをおっしゃらずに……」
ヴィレムセ王国の王城の一室で、小さな王女が駄々をこねていた。
愛らしい顔をプクッと膨らませているのは、デボラ・ヴィレムセであった。
彼女を指導している教員は、彼女がまたいつ『癇癪』を起こすかわからず、恐怖におののいている。
だが、最近のデボラは一度たりとも癇癪を起こしたことはなかった。
それは、利他慈善の勇者たちと共に冒険をしたからだろう。
その経験から成長し、彼女はむやみやたらに癇癪を起こすことはなくなったのだ。
……まあ、だからといってわがままが治ったというわけではないのだが。
「もー! ずっと部屋に引きこもって勉強ばかりだったら、滅入っちゃうよぉ! 何か面白いことないのー?」
「私に言われましても……」
教師役の彼女は、王女としての礼儀やマナーを教えるための教師だ。
デボラが喜ぶような、英雄譚などを聞かせてあげることなどできない。
デボラは不満げな表情を隠そうともしない。
「あーあ……エリクがいたら、面白いのになぁ……」
デボラが頭の中で思い浮かべるのは、自身の忠節の騎士である。
彼とダンジョンの『ビギナー殺しの小部屋』でオーガと戦ったこと、命を狙ってくる山賊と戦ったこと、反乱を起こしたビリエルを倒したこと。
どれも、今まで生きてきた中で最も鮮烈で印象的で、何より楽しかった出来事だ。
……命を狙われたことも面白いと言えることが、デボラの肝の強さを表している。
エリクと出会って間もなくそんなことがあったのだから、彼と一緒にいればまた凄く面白いことが待っているのだろう。
「エリクも全然王城に来ないしさー。まったく……何しているんだよー」
机に上半身を寝そべらせて、ぶーぶーと不満を言い続ける。
その年相応の仕草に、『癇癪姫』と恐れていた教師も苦笑いする。
「利他慈善の勇者さんは、現在王都の治安維持にあたっていて、王都の民からの評価も高いですよ。色々と問題を解決してくださると」
「むー……何だか面白そうじゃないか。僕、飛び出したくなってきた」
「お、おやめください。そうなったとき、私はレイ王からどのような罰を与えられるか……」
恐ろしいことを口走るデボラに、教師は冷や汗を垂らす。
自分の担当の時間に逃げ出されたら、親馬鹿なレイ王が何の罰も与えてこないはずがない。
彼女の言葉を受けて、不服そうにため息を吐くデボラ。
「あーあ……エリクのやつ、今何か面白いことなんてしてないだろうね。もししていたら、爆発させてやるんだから」
デボラはどこかにいるであろうエリクに思いを寄せた。
◆
エリクは吹き飛ばされると、そのまま横に飛んで行った。
たまたまそこには窓ガラスがあり、そこを割って彼は外に放り出された。
外は彼が立派だと思っていた庭で、柔らかい芝生のおかげもあってエリクは骨折をするようなことはなかった。
「うっ……がはぁっ……!」
しかし、身体を地面に叩き付けられて、彼はすぐには立ち上がることができないほどのダメージを負った。
エリクはそっと手を頬にやる。
頬を、横から殴りつけられたのだ。
じんじんとする痛みに、彼は後で腫れ上がるだろうと予想する。……嬉しそうに。
「あれだけ吹き飛ばされてもまだ生きているか。勇者というのは、頑丈なのだな」
割れた窓ガラスからエリクを見下ろすクレト。
すでに汗はひき、余裕たっぷりの笑みを浮かべている。
つまり、隠し玉……切り札を使ったというわけだ。
「だが、『守護者』という大層な二つ名をつけられているお前でも、こいつには勝てまい」
クレトの言葉に応えるように、何かが彼の側から飛び出して庭に軽やかに降り立った。
「これは……」
地面に落とされたダメージから回復したエリクは、立ち上がって目の前に立つ者を見る。
それは、二足歩行で人の形をしているが、厳密には人と違っていた。
狼の顔、ふさふさと生えた体毛。
悠然と立っているのは、人狼と呼ばれる種族であった。
「いや、少し違うな。そいつは、獣人だ。……今では、元といった方が正しいか」
獣人は、人狼と同じく人と魔物の血が混ざった存在であるが、どちらかというと人間の血の方が濃い。
体毛も薄く、人間とそう変りない。
だが、エリクの前に立つ男は、間違いなく人狼……つまりは魔物の血の方が強かった。
「不思議で仕方がないという顔だな。そいつは、私が買い上げた奴隷でな。人より身体能力が高い獣人を用心棒に置こうとしていたのだが……大して実力もなく、また私に反抗的でな。……少し、処置を施したのだ」
エリクが聞いてもいないことをペラペラと話しはじめるクレト。
最善の行為をとるのであれば、今すぐ背を向けて逃げ出すべきである。
エリクは人狼に捕まっているし、エレオノーラもグレーギルドに捕まっている今しかチャンスがない。
優位と思えばこのように油断してしまうところが、クレトの悪い癖なのかもしれない。
「処置、とは?」
「ちょっとした薬を使ったのだ。少々高かったが……それに相当するだけの効力はあった。力は強くなり、私に忠実になった。まさに、私の切り札というわけだ!!」
クレトの言うことを信じれば、エリクの前に立つ人狼も元は人格の持つ獣人だったのだ。
しかし、今では会話すらできないだろう。エリクを見る目は殺意に満ちていた。
「なんて非人道的なことを……」
私にやってほしい……という言葉は飲み込んだ。エリクは空気を読める人間なのだ。
「さあ、どうする? 私を見逃すというのであれば、お前を見逃してやってもいいのだぞ?」
等価交換だ、と続けるクレト。
悪い取引ではないだろう。
しかし、エリクは首を横に振った。
「エレオノーラさんから、あなたを捕まえるように頼まれましたからね。あなたを逃がすわけにはいきません」
エリクの決意を秘めた言葉に、クレトは冷めた目を向けた。
「そうか。ならば、死ぬがいい」
「オォォォォォォォォォォォォォォッ!!」
クレトの言葉に応えるように、人狼の遠吠えが夜空に響き渡った。
エリクが剣を抜いて構えた直後、瞬きをした間に人狼の姿が目前に迫っていた。
「がっ……!?」
人狼の剛腕が振るわれ、とっさにエリクが盾にした剣の上から叩き付けられた腕力に、エリクはまた吹き飛ばされたのだ。
しかし、今度は不様に転がるということはなかった。
吹き飛ばされながらも体勢を整え、追撃に備える。
「……いない?」
だが、エリクの視界に人狼の姿はなかった。
どこにいったのかと視線を巡らせていると……。
「ぐがぁっ!!」
衝撃が襲ったのは背だった。
人狼は一瞬の間にエリクの背後に移動し、無防備なそこに蹴りを叩き込んだのであった。