第百七十八話 アルラウネ
そこは、ヴィレムセ王国から遠く遠く離れた場所。
いくつもの国を越え、そして人々から忘れられたような場所にあった大森林。
強力な魔物や動物が跋扈しているその場所の、一番奥深くにあたる場所に、黒い女がいた。
長い髪も黒、目も黒、衣服も黒。肌は人間らしい色をしているが、印象としては黒としか残らないような女だった。
そんな彼女は、今まで人間や魔族が立ち入ったことのない場所にいた。
そこに、彼女が住んでいる……というわけではない。
ここには、彼女が叶えてあげるべき願いを持つ者がいるのだ。
黒い女の見る先には、花があった。
しかし、未だ咲き誇っておらず、つぼみのような状態。
そして、その閉じた花びらから上半身を出している人型がいた。
それは、人間ではなく、アルラウネという魔族であった。
「ねえ。あなた」
黒い女は声をかける。
しばらく、返答はなかった。
自分が話しかけられているとは思っていなかったのか、それとも話せるような存在と会うのが長い間なかったからなのか。
閉じていた目を憂鬱そうに開け、目の前に黒い女がいることに小さく目を見開いて驚きを露わにする。
「……あ? 何ですか、お前。……あの牛乳を思い出させるような無駄脂肪ですね」
アルラウネは誰かを思い出しているのか、遠い目をする。
しかし、それは親しい友人を思い浮かべるような穏やかな表情ではなく、まるで怨敵を思い出すような嫌そうな顔であった。
まあ、そんな顔をしても、黒い女には関係のないことだ。
彼女は、自身のやるべきことのために、口を開いた。
「あなた、今望みはない?」
「望みぃ? そりゃあ、あるですよ。というか、お前誰ですか? ここは人なんて来られるような場所じゃねーですが」
胡散臭そうに黒い女を見るアルラウネ。
人が決して踏破しえない場所に現れているという時点で怪しさは満点なのだが、まるで宗教勧誘のようなことを言われれば警戒するのも当然だろう。
とくに、このアルラウネは、そのようなカルトを天使教の他にもあったことを知っているため、なおさらだった。
あの狂信者は、まだ元気にしているだろうか? 死んでいてくれたら嬉しいのだが。
「私は来られるのよ」
「はーん……ただの人間や魔族じゃなさそーですね。ま、知り合いにそういう雌豚をいっぱい知っているですから、とくに今更驚くことなんてねーですが」
興味なさそうに天を仰ぎ見るアルラウネ。
ここに来られるということは興味深いが、誰も来られないというわけではない。
彼女のかつての居場所では、この場所に来られる者なんて嫌になるほどいた。
全員死んでいてくれたら嬉しいのだが……。
「で? 望みがあるから、何だってんですか。言っておくですが、今……というよりここしばらく、ララの機嫌はすこぶる悪いです。さっさとどこぞに行きやがれです。ウザってー」
アルラウネはそう言って目を閉じる。
彼女はあの時からすこぶる機嫌が悪かった。
大切な人が、自分の側から消えてしまったのだから、それも当然だろう。
彼女の生きる目的は彼だったのだから、なおさらだ。
「その望み、叶えてあげましょうか?」
「…………は?」
だから、黒い女の言葉に、アルラウネは目を見開くのであった。
初めて、彼女は黒い女を直視した。
アルラウネに見つめられても、黒い女はいつも通りの余裕の表情を浮かべている。
「私は、強い望みを抱く者の前にしか現れないわ。大体、私を惹きつけられるような強い望みを抱くのは、死に際の人が多いのだけれど……あなたからは、そんな人たち以上の強い望みの匂いがしたの」
「…………」
黒い女の言葉に、アルラウネは言葉を発さない。
ただ、じーっと彼女を見つめていた。
「私なら、あなたの望みを何でも叶えてあげられるわ。教えてちょうだい。あなたはどんな望みを持っているのかしら?」
黒い女がそう言うと、しばらく静寂が訪れた。
もともと、彼女がここに来るまでは、いつもこんなに静かなのだが。
静かな時間が過ぎていく。
黒い女は、アルラウネが望みを言うことを待ち構えていた。
しかし、返ってきたのは……。
「ウザってー……って言ったですよ、クソ女」
今まで感じたことのないほどの強烈な殺意と敵意であった。
「あら……」
黒い女はそう呟いて、どんどんと首を反らしていく。
それは、目の前のアルラウネがどんどんと上にあがっていっているからである。
彼女の下半身は植物と一体化していたが、その植物が巨大化し、地面からスルスルと伸びていくのである。
そして、他にも巨大な植物がいくつも地面から伸びてきて、黒い女を威圧した。
アルラウネに、本来このような強大な力はない。
彼女が特殊なのである。
「ララの望みはあの人がまたララのことを抱き上げて微笑みかけてくれること……ですが」
ギロリと眼下の黒い女を見下ろすアルラウネ。
その表情はあからさまに不快げであり、黒い女の申し出は受け入れられることがないことは明らかであった。
ギュルリと地面から伸びていた太い蔓が鞭のように唸り、黒い女の腹部に直撃。
彼女の身体をあっけなく吹き飛ばすのであった。
「お前程度にあの人をどうこうできるはずもねーだろーが」
その黒い女は、吹き飛ばされた後光になって消えてしまったが、このアルラウネにすでに彼女への興味はなくなっていた。
逃げようが死んでいようが、どちらでも構わない。興味がない。
今彼女にあるのは、黒い女に呼び起こされたあの男への強い執着だけであった。
「はぁ……マスター、ララはずっと待っているですよ……」
そう言って、アルラウネは巨大化を解除し、再びつぼみの中で眠りにつくのであった。
最終章 黒い女編です。
最後までお付き合い、よろしくお願いします!