第十七話 瀕死の足止め
オーガにとって、エリクは脅威ではなかった。
命の危機を覚えるような、そんな強力な敵。
オーガの本能は、エリクにそのような力はないと訴えていた。
かつて、『ビギナー殺しの小部屋』の主になるまで、オーガのいた深い階層では彼よりも強い魔物が何体もいた。
さらに、そこにたどり着く人間たちもまた、このオーガよりはるかに力のある者たちだった。
ゆえに、彼はその階層では弱者であった。
しかし、そのみじめな生活は、偶然この小部屋に入り込んだことで終わりを迎える。
この部屋はランダムに浅い階層に出現するようで、他の魔物が迷い込んでくることはない。
時折人間が入ってくることはあるが、その力は深い階層にやってくる鬼のような連中とは違って、とてもとてもか弱いものであった。
その時から、オーガは強者となった。
入り込んでくる愚かな存在をひねり潰し、自尊心を満たす日々は、それは楽しいものだった。
「グゥゥゥ……ッ!」
だが、久しぶりに現れた獲物は、なんと自分の身体を傷つけたではないか。
久々に受けた傷、久々に感じた痛みに、我を忘れて怒り狂ってしまっても仕方ないだろう。
しかし、少し時間が経てば冷静になる。
どうやら、その間に獲物は何か企んでいたようだが、所詮は雑魚の集まり。何をされようが、脅威にはなりえない。
――――――だが。
「グォァァァアァァァァァァァァアアァアッ!!!!」
だが、自身に傷をつけた落とし前はつけさせなければならない。
そのために、オーガは久々に全力で攻撃を開始した。
驚異的な脚力でエリクまで一気に距離を詰めると、そのまま彼を踏み潰そうと脚を下ろす。
エリクは横っ飛びをしてそれを避けるが、オーガの脚によって砕かれた地面を見てゾクゾクとする。
「はぁっ!!」
エリクも負けじと剣を振るう。
…………が。
「なっ!?」
ミリヤムが驚愕の声を上げる。
それもそのはず、エリクの振るった剣は、オーガの片手によって白羽取りされていたのだから。
オーガは気づいていた。エリクの技量が、実はたいしたことがないことを。
まだ、彼が深い階層にいた頃やって来ていた人間たちに比べると……いや、比べることすらおこがましいほど、エリクの剣の技量はお粗末なものだった。
冷静になって対応すると、片手で白羽取りのような曲芸じみたことも、オーガの動体視力をもってすれば可能なことだった。
「くっ……!」
「勇者!そういう時は武器から手を離さないとダメだよ!!」
エリクは力を込めて剣を引き抜こうとするが、オーガの力にかなうはずもない。
剣はビクともしなかった。
そして、そのように硬直してしまうことは、戦闘において決してやってはいけないミスであった。
デボラは王女であり、護身術は教えられる。
その教えてくれる師は、騎士団の中でも精鋭たちだ。このような事態に陥ったことについても指南してくれた。
だが、エリクはもともと騎士でもなんでもない、ただの庶民であった。
当然、戦闘訓練も受けたことのない彼は、そのことが致命的な結果につながることなんて知らなかった。
武器から一瞬たりとも手を離したくないという気持ちは弱者だからこそのものだが、それは本当に危険で命取りになる考えである。
「グォアァァァッ!!」
ゴッ! とオーガの足が跳ねあがる。
それは容赦なく、エリクの腹にめり込んだ。
「――――――」
悲鳴を発することもできなかった。
ミリヤムの耳に、なんとも形容しがたい不思議な音が聞こえた。
それは、間違いなくオーガの強靭な脚力で抉りあげられたエリクの腹から聞こえたもので……。
この時、エリクの腹部は凄まじいダメージと激痛が生じていた。
骨も何本も粉々に砕かれ、内臓の一部も大きな損傷を受けていた。
「ごほ……っ」
エリクの口から、まるで塊のような血が吐かれた。
その吐血量は、間違いなく命に支障をきたすほどのものだった。
彼が死ななかったのは彼のスキル、意識があったのはドM性癖からくる意識飛ばすのはもったいない精神のおかげであった。
これだけの攻撃を受けてもエリクは悦んでいた。
「ガァァァァァァッ!!!!」
さらに、オーガは追撃の手を緩めない。
あの一撃だけでも、エリクを地面に沈めておくには十分なほどだった。
だが、オーガはさらに浮き上がったエリクの身体に硬い拳を叩き込む。
ズドン!!
そんな凄まじい音と共に、エリクは地面にめり込むほど叩き付けられた。
「えり……く……?」
地面に沈んだエリクは、ミリヤムの呼びかけに応えない。
うつぶせのまま倒れこみ、ピクリとも動かない。
代わりに、彼の身体から流れ出る血液が、ゆっくりと地面に広がって行った。
冒険者のビギナーが……いや、それこそダンジョンの最深部に赴くトップ冒険者たち以外ならば、この連撃で命を落とすのは確実だ。
「……僕の悪口云々よりも、先に勇者が死んじゃったじゃん」
冷や汗を垂らすデボラ。
いくらのんきな彼女とはいえ、目の前で人があんなに壊される姿を見させられると、まだ子供の彼女は恐怖を覚えても当然だろう。
「オォォ……!」
オーガはニヤリと口角を吊り上げ、鋭い牙をちらつかせる。
最も面倒くさい敵は殺した。
何度か切り付けられたことは、今思い出しても腹立たしいが、二度完璧な当たりを入れられたことで戦闘欲は満たされた。
次は、獲物をいたぶって遊ぶ欲望が掻き立てられた。
小さなガキを先にいたぶろうか、それとも……。
「…………っ!」
こちらを健気にも睨みつけてくる女をいたぶろうか。
ミリヤムはデボラのように恐怖を覚えていなかった。
いや、覚えてはいたのだが、それよりもエリクをボロボロにしたオーガに怒りを強く抱いていたのであった。
そして、このオーガはそういう強い意志を持つ人間を壊すことが、何よりも好きであった。
「ギギギ……ッ!」
獲物は、お前に決めた。
そう言わんばかりに、ミリヤムの元に向かおうと歩き出そうとした時。
ガシッとオーガの太い脚を掴んだ手があった。
その手が伸びているのは、血だらけになり身体の節々がおかしな方向に曲がったりしているエリクであった。
「で、ぼら……王女……」
「な、なに?」
絞り出すように声を出すエリク。
のんきな色をかき消して、デボラもなるべく声を拾い上げようと耳を傾ける。
もしかしたら、彼の最期の言葉になるかもしれない。
なんだか、そう思うと胸がキュッと苦しくなる。初めての経験であった。
ゆえに、彼女は耳を澄ませて……。
「ち……」
「ち?」
「チビロリひんぬーガキンチョアホプリンセス……」
「――――――」
エリクの口から飛び出た言葉に、デボラの時間は止まった。
「……ふっ」
そんな彼女の隣で、ミリヤムが小さく噴き出す。
彼女がエリクに与えたデボラへの悪口。つまり、彼女が面と向かってデボラに言いたいけれど言えないことをぶちまけたのである。愉快だ。
心臓が止まってしまうほど、今のエリクの状況を見ると悲しくて苦しくなるが、少し気分が和らいだ。ありがとう、エリク。
「ふーん……そう思っていたんだ、勇者」
デボラは静かに呟いた。
怒っていないのか?いや、違う。これは、嵐の前の静けさだ。
「お前、自分の言ったことに責任持てよぉ、おらぁっ!!」
ゴウッ! とデボラを中心にして、魔力の風が発生する。
それは渦のように巻きながら、『ビギナー殺しの小部屋』全体に広がって行く。
その魔力の濃密さは、エリクやミリヤム、そして歴戦の冒険者たちが戦う姿を見たことのあるオーガでさえも、今まで見たことのないほどのものであった。
いったい、どれほどの爆発がくるのか。エリクは致命傷を負いながらもドキドキである。
「グルォァァオァオァァッ!!」
人間よりは知能の劣るオーガ。
しかし、この魔力の風は非常に危険だということは本能で察知した。
ミリヤムをゆっくりといたぶろうとして脚を向けていた方向を、デボラの方向に向ける。
そして、一気に距離を詰めて、何かをする前に叩き潰そうと脚に力を込めるが……。
「い、行かせ……ませんよ……!!」
素晴らしい爆発がこれから来るのだ。邪魔をさせるわけにはいかない。
オーガの脚に、必死にエリクがへばりつく。
まさに、死力を尽くしてしがみついてくるエリクを、簡単に引き離すことができないオーガ。
「グルォアァッァァァァァァァアッ!!!!」
オーガは怒りのあまり、頭の血管がいくつか切れてしまうかと思ったほどだった。
この雑魚は、どこまで自分を怒らせれば気が済むのだろうか。
「がへっ!ぐっ!ごえぇっ!ぎぎゃっ!!」
オーガはへばりついてくるエリクの背を徹底的に攻撃する。
硬い拳での殴打、重い脚での踏みつけは当たり前。
鋭い爪で肉を裂き、巨大な牙で一部を齧り取ったりもした。
人の肉が裂けて血が溢れ出し、エリクの口から悲鳴が飛び出してくる。
そして、ついにはぐったりとしてしまう。
それを見て、オーガは満足そうに笑う。
そうだ、それでいいのだ。雑魚が自分の邪魔をするなど、許されるはずもなかったのだ。
久しぶりに人間を徹底的に痛めつけられたので、オーガは少し気持ちが落ち着いた。
冷静になって、巨大な魔力の渦の中心にいるデボラを見る。
あまり時間に余裕はないが、オーガの脚力をもってすればまだ間に合う。
デボラの側には、泣きながらこちらを見てくるミリヤムもいるが、彼女はオーガにとって何の障害にもならない。
突進すれば、たとえ立ちはだかってきたとしても簡単に吹き飛ばせるだろう。
オーガは自身の勝利を確信して、鋭い牙を見せて笑う。
オーガがデボラとミリヤムを惨殺するための第一歩を踏み出した時であった。
「グギャァッ!?」
足に激痛が走った。
しばらくの間……『ビギナー殺しの小部屋』の主となってからは、一度も感じたことのないほどの激痛だ。
バッと見下ろすと、そこには血だらけになって今にも息絶えそうになっているエリクが、ニッと笑っていた。
オーガの足に、剣を突き立てて。
「こ、これ……で、動け、ない……でしょう……?」
こいつは本当にどこまで……っ!!
そんなにも、あちらで魔力の渦を作り出しているデボラが可愛いか。
そんなにも、エリクを泣きはらした目で見ているミリヤムが大切か。
「ガァァァァァァァァァァァァァァァッッ!!!!」
オーガは今まで以上に……限界を超えるほどの力をもってして、エリクを攻撃する。
硬い拳で殴りつければ、骨が砕ける感触がした。
鋭い爪で切り付ければ、肉が抉れる感触がした。
その痛みや苦しみは、誰も想像できないほどのものに違いない。
違いない……はずなのに。
「はな……じまぜん……よ……」
何とか自分から逃れようと暴れまわるオーガの攻撃。
そして、これから来るであろうデボラの最大の爆発。
これらを、ドMが逃すはずがない。
意地でもしがみつく……!!
「グァァッ!?」
魔力の渦が、いつの間にかオーガを中心にして生まれていた。
……いや、本当の中心にいるのは悪口を言ったエリクなのだが、そんな彼と密着しているのだから、オーガも対象範囲内である。
「ゴァァァァァアァァァァァァァッッ!!!!」
一層激しく暴れはじめるオーガ。
もはや、エリクは傍から見たら死体となんら変わらないほどの傷を負っている。
だが、スキルで彼が死ぬことはない。
オーガの足を地面に縫い付けた剣を、硬く握りしめる。
「さぁ……デボラ王女……!!」
「ふふふっ……怒りで、今までで最大の爆発をお見舞いできそうだよ……!」
血反吐を撒き散らしながら、キラキラとした目でデボラを見るエリク。
それに応えるように、デボラは小さな手を上にあげる。
「くたばれぇぇぇぇぇぇぇっ!!!!」
「ガッァァァァァァァァッァァァァァァッ!!!!」
魔力の渦が急速に集束していく。
オーガは本能が命の危機を激しく訴えかけてくるため、必死に逃げようとするがエリクがへばりついて離れない。
「エリクッ!!」
「ふっ……」
ミリヤムがエリクの名を呼ぶが、エリクはニッコリと安心させるような笑みを彼女に向けるのみであった。
そして、エリクはオーガもろとも、凄まじい爆発に巻き込まれて見えなくなるのであった。