第百六十六話 最期の最期
「ブヒヒヒヒヒ……ッ!」
ベロリと舌なめずりをするオーク。
彼が見下ろすのは、あまりにも小さくて弱弱しい人間の雌だ。
さて、どうしようか?
犯すにしては、小さすぎる……まあ、相手のことを一切考えないので死んでしまっても構わないが。
だが、生きたまま食べるというのも、捨てがたい選択肢だ。
人間の子供の身体は、とても柔らかくて美味い。
死んでしまえば、少し硬くなってしまうのが困る。
じっくり考えよう。自分の邪魔をする者は、もういないのだから。
「あ、あぁ……」
ミリヤムはガクガクと震えながらオークを見上げる。
オークに戦闘技術なんて達者なものはなかった。
ただ、無造作に腕を振るっただけ。それでも、エリクの身体をあんなにもあっけなく吹き飛ばすことができる。
あまりにも無慈悲な生まれ持った力の差であった。
このまま、エリクは戦意を喪失して動くことができずに魔物に襲われ、ミリヤムはオークに良いように弄ばれてから殺される。
それが、誰でも予想できる普通の未来なのだが、子供ながらにエリートドMの彼は一味違った。
カツン……と石が転がって来た。
腰を抜かしていたミリヤムも、彼女ににじり寄っていたオークも、飛んできた方を見る。
そこには、痛み(と快楽)に顔を歪めながらも、スリングに石をはめて投げるエリクの姿があった。
「エリク……!」
「ブゴォォォ……ッ」
彼の名を呼ぶミリヤムと、せせら笑うオーク。
大人しくしておけば、後で殺してやったものの……どうにもこの人間の雄は馬鹿なようだ。
吹き飛ばされたダメージもあって、その投擲力は鼻で笑ってしまうほど弱弱しいものだった。
……が、自分に攻撃を仕掛けてきたのは、良くないことだ。先に処分してやろう。
そうして、ニヤニヤと笑いながらオークはエリクに近づいていく。
それが、彼の作戦通りとは知らずに。
「ふっ!!」
エリクは素早く腕を振るい、スリングに備え付けていた石を思い切り投擲した。
それは、偶然か必然だったのか、エリクが硬い皮膚を持つオークに唯一ダメージを与えられる場所……すなわち、眼球目がけて突き進み……。
「ブギャァァァァァァァァァァァァァァァァッ!?」
オークの悲痛なまでの叫びが響き渡った。
彼は目を両手で覆い、のた打ち回る。
動きが鈍いオークは至近距離から放たれた石を避けることも防ぐこともできず、片目に受けてもだえ苦しむ。
そんなオークを一切見ずに、エリクはまた新たな石を拾い上げてミリヤムに怒鳴る。
「ミリヤム! 今のうちに……!! ラウナさんを助けたいのであれば、絶対に振り向かずに走ってください!!」
「…………ッ!!」
エリクは傷だらけだった。
あのオークの怪力をその身に受けているため、恐怖だってミリヤム以上に感じているだろう。
だが、それでも彼はまだ囮としての役割を果たさんとし、彼女をサルガドの村に逃がすように言う。
本当は、そんな優しいエリクを置いて逃げたくない。
自分も残って、彼の身体を治してあげたい。
だが……だが、エリクの望んでいることは、ここに残って薬草を届けることができなくなることではない。
ミリヤムは涙を流しながら、今度こそ腰を抜かすことなく走り出した。
息を切らしながらも、決して足を止めることはない。
どんなに苦しくても、エリクが必死に作ってくれたこの時間で、村まで薬草を届けるのだ。
「あああああああああああああああっっ!!」
だから、決して振り向くことはしなかった。
たとえ、どれほど耳を塞ぎたくなるような悲鳴(嬌声)が聞こえてきたとしても。
◆
ミリヤムが背を向けて走り出すのを、私は温かい目で見送りました。
ふっ……これが、一度人生においてやっておきたかった『ここは俺に任せて先に行け! なーに、すぐに追いつくさ』です。
この、絶望的な敵を目の前にして仲間に置いて行かれる喪失感……堪りません!
しかし、最期に言えてよかったです。それに、初めての友人になり得るミリヤムを、逃がすことができて。
――――――これが、私の最期の時でしょうから。
「ブギョアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
起き上がって怒りの咆哮を上げるオーク。
石がぶつかった目からは血が流れています。羨ましいですねぇ……。
しかし、オークの怒りは最高潮に達していました。
まさか、反撃されるとは思っていなかった雑魚の獲物に手痛い攻撃を受けてしまったことが、余計に怒りを助長させているようですね。
ここで、オークにめちゃくちゃにされて最期を迎えるのは、まさにドMとしての本懐。
まあ、もう少し生きてドMライフを楽しみたかったと言えばそうなんですが……。
「ミリヤムの……私の初めての待ってくれる人のためならば、この命を使うことに悔いはありませんね」
それに、オークという嫌われ者の魔物に殺されるというのも……屈辱的で興奮します!
そんなことを考えながら、私はスリングにはめた石を、再びオークの目を狙って投げつけました。
しかし……私はまったくの無知でした。
一度ラッキーな攻撃が届いたからといって、慢心していたのかもしれません。
オークを相手にしても、数分は囮としての役割を果たすことができるのだと、思い上がっていました。
こんな子供に、オークなんて止められるはずもなかったのに。
「ブギアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!」
オークは顔面に飛来する石を、機敏に腕で払いのけてしまいました。
今まで、こんな素早い動きはしていませんでした。
目を傷つけられた怒りで、リミッターが外れたのでしょうか?
とにかく、今のオークはスピードもパワーも、先ほどとは比べ物にならないくらいになっていたということです。
そして――――――。
「…………え?」
片腕で石を払い、さらに片手で持っていたこん棒を振りぬきました。
そのあまりにも速い動きは、私の目で追えるものではありませんでした。
その結果、私の下半身を薙ぐようにして振るわれたこん棒によって、文字通り私の下半身は消し飛びました。
「ああああああああああああああああああああああああああっっ!?!?」
最初は何が起きたのかわからなかったのでポカンとしてしまっていたのですが、ドシャリと上半身が地面に落ちて衝撃と痛みを味わったことで、現状認識ができて悲鳴を上げてしまいました。
怒りによってリミッターのないとてつもない力が込められたオークの一撃。
そんなものを、とくに鍛えもしていないどころか健全な成長のための栄養も足りていない子供がまともに受けたら……致命傷を負うことなんて簡単に想像できます。
しかし、これは……!
「ひぃぃぃ……っ! ぎっ、うわぁぁぁぁぁ……っ!!」
傷口があまりにも広すぎて、血の流失が半端ではありません。
一秒一秒、確実に身体が冷たくなっていく感覚があります。
ドチャドチャというのは、臓器が零れ落ちる音でしょうか?
「ヒュー、ヒュー……」
そして、この信じられないほどの苦痛と快楽! 今まで生きてきた中で、最も大きくて素晴らしいものです!!
人の最期とは、皆このような素晴らしい快楽を得ているのでしょうか?
あぁ、あぁ! 素晴らしい! 今まで生きてきた甲斐がありました!!
このまま放置されても、私は命を落とすでしょう。
しかし、怒り狂うオークはこの程度で私を見逃すほど優しくありませんでした。
「ブギッ! ブギャッ! ブォォォッ!!」
「がっ!? げぇっ!! ぶっ、いぎゃっ!!」
倒れこむ私に、さらに足で何度も踏みつけるという追い打ちをかけます。
もともと、オーク自身の体重がかなり重いということもあって、私は絞り出すような悲鳴を上げました。
胴体を踏みつけられれば血と吐しゃ物を口から溢れさせ、片腕は踏まれて歪な方向に曲がってしまい、顔面は視界が遮られてしまうほど腫れ上がってしまいました。
「ぁ……ぅ……」
「ブルルルルルルルルルルル……!!」
もう、いつ死んでもおかしくありません。
そんな状態の私を……踏み潰された芋虫のように地面に倒れこむ私を見て、ようやくオークは怒りを発散したのか、攻撃を止めました。
そして、一つペッと汚い唾を、私に吐きかけて目を違う方向に向けます。
それは、ミリヤムが逃げて行った方向でした。
あぁ……今日、私は死ぬのです。
オークに殴られ、蹴られ、踏み潰され……唾を吐きかけられて、誰にも看取られることなく、たった一人でこの森で死にゆくのです。
そして、死体は何らかの魔物や動物に食い荒らされるのでしょう。
……なんと、ドMとしてこれ以上ないくらいの最期ではありませんか。
こんな幸せな死に方をするドMは、私の他にいるのでしょうか?
そう思ってしまうほどの幸福感と快楽に、私は目を閉じそうになって……。
「ミリ、ヤム……」
まだ、目を瞑るわけにはいきませんでした。
このままでは、オークはミリヤムを追いかけてしまいます。
もしかしたら、オークに捕まる前に彼女はサルガドの村に逃げ切ることができるかもしれません。
ですが、もしオークがそこまで追いかけて行ったら?
そうなれば、本当に終わり。ミリヤムだけでなく、私を人間扱いしてくれたラウナさんも……私をいじめてくださった村人の皆さんも殺されるのです。
「ブギッ?」
いつの間にか、私は無事だった片方の腕でオークの脚に縋り付いていました。
こんなことをするつもりはなく、ただゆっくりと死にゆく快楽を味わおうとしていたのですが……。
縋り付くと言っても、普段の私はおろか、ボコボコにされて今にも死にそうな私にオークを食い止めることなんてできるはずもありません。
オークも、やれやれと呆れたように肩をすくめています。案外人間臭いですね。
そして、こん棒を振り上げ……。
「うぎぃぃっ!?」
私の身体に振り落としたのです。
悲鳴と共に血を吐き出します。
しかし、それで命を落とすことはありませんでした。
オークがその気になれば、私の身体を潰すような力で仕留めてしまうことだってできたでしょう。
「ブギギギギ……!」
要は、いたぶっているのです。
私を痛めつけ、ネズミをいたぶる猫のように死ぬギリギリまで苦痛を与えようとしているのでしょう。
なんて素晴らしい……人間だったらご主人様になってほしかった……。
しかし、オークを生かしておくわけにはいきません。
母を治したいと……私のことを待ってくれるというミリヤムのために、ここで私と共に死んでもらいます。
「ブヒッ?」
私の身体が光りだして、不思議そうに見下ろしてくるオーク。
ふっ、良かったです。暴れられたら、もう縋り付く力もありませんでしたので。
ああ、でも……。
「待っていてくれている人の元に、帰りたかったですね……」
私は最期の最期にそんなことを思ってしまって……。
そして、光に包まれました。