第百六十五話 美しき交流
「ひっ、あ……」
オークは食事を止め、ズシズシと音を立てながらミリヤムとエリクの元に近寄って行く。
新たな獲物が現れたと、ニヤニヤとした笑みを浮かべているオーク。
口元には汚らしく血が付着しており、その恐ろしい魔物が近寄ってきているという状況に、ミリヤムは立ち上がることすらできなかった。
悲鳴も上げられない。喉がひくついて声が出てこない。
オークは様々な種族でも雌であるならばその欲望をぶつける対象とする。
そして、それはまだ子供であるミリヤムにもまた同様であった。
その欲にまみれた目を初めて強烈に受けたミリヤムは、恐怖のあまり動くことができなかった。
「ミリヤム!!」
彼女一人であるならば、このままオークの魔の手に捕らえられていただろう。
だが、ここにはエリクがいた。
彼は大きく名前を呼び、手を差し出したのである。
「…………ッ!!」
ミリヤムも、こんなお膳立てをしてもらってもまだ腰が抜けている弱い少女ではない。
彼の手を借りて立ち上がると、二人してオークに背を向けて逃げ出した。
「ブオオオオオオオオオオ!!」
獲物が逃げた。
オークはすぐに怒声を上げて、彼らを追いかけはじめた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ!」
ミリヤムは息を切らしながらも、エリクに腕を引っ張られて走り続ける。
後ろからは怒声と地響きが聞こえてくる。
その恐怖で心臓は潰れそうになり、今にも足から崩れ落ちそうになるのだが、エリクが腕を引っ張ってくれるおかげで倒れこむことはなかった。
幸いなことに、追いかけてくるオークはのろまであった。
これが、オークに殺された狼などであれば、すぐに追いつかれて牙で食らいつかれていたのであろうが、不幸中の幸いと言うことができるかもしれない。
まあ、狼は食い殺すだけでも、オークはその前に女をおぞましい目に合わせるので、どちらがいいとかそう言う話ではないのだが。
それに、木々が鬱蒼と生い茂っている点も、ミリヤムたちに有利に働く。
小さくて小回りの利く彼らよりも、オークのように大きな身体を動かすにあたって木々は非常に邪魔になる。
それらのこともあって、二人とオークの距離は縮まるどころか離れはじめていた。
このままでは、上手く逃げ切ることができるだろう。
だが、その後はどうするのだろうか?
もし、ペリエの森から抜け出すことができたとしても、そのままサルガドの村に逃げる?
冒険者や騎士どころか自警団すらないあの村にオークを連れて行けば、それこそ大惨事になるだろう。
「ご、ごめ……!」
「謝罪は必要ありません! とにかく、脚を動かして!」
ミリヤムは自分のせいでオークにばれてしまったと、息を切らしながら謝ろうとする。
しかし、エリクはそれを遮って走ることを優先させる。
自分一人ならばちょっとオークに弄ばれるのもいいかもしれないのだが、ラウナも待っているミリヤムを巻き込むわけにはいかない。
ドMにしてはまともな思考をしていた。
幸いなことに、二人を追うオークは鈍足のようなので、上手い具合に逃げ切ることができそうだった。
「ミリヤム! 伏せてください!!」
しかし、ハッと後ろを振り返ったエリクは、ミリヤムに覆いかぶさる。
そのすぐ後、彼らの頭上を重たい空気を裂く音が通りすぎ、凄まじい衝撃が彼らを襲った。
「きゃぁぁぁぁっ!?」
ミリヤムは悲鳴を上げることしかできなかった。
しばらくして顔を上げれば、彼らの行く道を遮るように木々が倒れていた。
近くには、大きなこん棒も転がっている。
「ブギギギギギギ……ッ」
後ろを振り返れば、ニヤニヤと笑うオークの姿が。
オークがこん棒を放り投げ、それが木々に当たって崩してしまったのだ。
おかげで、子供の二人が乗り越えられそうにない。
少し迂回すればいけるだろうが……確かに時間のロスになっていた。
オークが狙ってこれをしたとは考えにくい。
それほどの知能があるとは思えないし、投擲技術もまた然りだ。
ミリヤムは、今まで幸運が自分たちを味方してくれていると思っていた。
だが、この重要な時にこちらに振り向いたのは、不運の方だったようである。
「はぁ、はぁ……! ミリヤム、これを持って、先に行ってください」
どうすればいいのか?
そう考えていたミリヤムに、エリクが息を切らしつつも背負っていた籠を押し付けてきた。
そして、彼がしようとしていることに、ミリヤムはサッと顔を青くする。
「だ、ダメ! だって、そうしたら……!」
しんがり……と言えば聞き心地はいいが、子供のエリクがオークをどう食い止めようというのだろうか?
要は、囮である。
そんなことをすれば、ほぼ間違いなく命を落とすだろう。
こういう場面を、エリクは待っていたのだ。
「このまま逃げても、二人とも捕まってしまいます。そうしたら、病にり患している人を
……ラウナさんを助けることもできなくなってしまいます。私たちも死んで、村人も死ぬ……その最悪の状況だけは、回避しなければなりません」
目的はどうであれ、言っていることはまともなので、ミリヤムは返す言葉がなかった。
そうだ。村人たちはともかく、母だけは絶対に助けなければならない。
そう考えれば、どちらかが囮になってオークから薬を逃げさせる方が……。
「で、でも、これは私のせいで……だったら、私が囮を……!」
しかし、それならば、囮になるべきは自分である。
自分が音を立ててしまったがために、オークに見つかって追いかけられているのだから。
だが、エリクは優しく笑いながら首を横に振る。
「ダメですよ、ミリヤム。あなたには、待っている人がいるんですから」
こんな美味しい場面、譲れない。
「…………ッ!!」
ミリヤムはハッとする。
ラウナは彼女が出る前に言っていた。
もし、ミリヤムが生きて戻って来なければ、薬草が来ても使うことはない、と。
それは、彼女が囮をしてエリクが薬草を持ちかえったとしても、ラウナは病を治すことはないということだ。
だが……だが、それではあまりにも悲しいではないか。
まるで、エリクなら……待っている人がいない彼ならば、死んでもいいと言っているような気がして……。
「大丈夫。何も、私は死ぬつもりはありません。必ず生きて村に戻りますから」
エリクはそう微笑んで、スリングと石を握りしめる。
その姿は、死を覚悟して最後の戦いに挑む戦士のようにミリヤムは見てしまった。
内心、圧倒的な力に翻弄されることにドキドキして期待しているとは知らず。
だからこそ、ミリヤムは涙ながらに声を発した。
「……私が待っているから!」
「ミリヤム……」
目を丸くしてミリヤムを見るエリク。
ミリヤムは涙を流しながら、籠を背負って彼を強く見る。
「あなたに待っている人がいないなんてことはない。私が、ずっと待っているから……!」
「……ええ、わかりました。ありがとう、ミリヤム」
それは、エリクの初めての心から純粋な笑みを浮かべた瞬間だった。
彼は今の過酷な状況をまったく苦にしていない。
親という存在がおらずに村八分と迫害を受けていること、厄介ごとや雑事を押し付けられること、そんな存在のために危険な魔物のはびこるペリエの森に送り出されること、全てが快楽に変換されている。
しかし、だ。ミリヤムのように、心から自身のことを案じてくれるような存在が現れて、嫌だと思うはずがない。
彼にとっても、ミリヤムが初めての……特別な存在になったのであった。
――――――だが、その美しき交流も、この場においてするべきではなかった。
「――――――ッ!? エリ……!!」
ミリヤムの目に映ったのは、緑の巨体。
エリクはバッと振り向くが、振り向いたところで何かできることもない。
オークの無造作に振るわれた腕を、まともに受けたエリクはポーンとゴムまりのように身体を飛ばし、木に打たれて止まるのであった。
残るのは、厭らしい笑みを浮かべるオークと、愕然とするミリヤムだけであった。