第百六十三話 森とスリング
「ここが……」
ミリヤムは高い木々を見上げる。
彼女とエリクがいたのは、ペリエの森の入り口……といってもちゃんと舗装されたものではないのだが、森の外側である。
あと数歩踏み出せば、もう森の中……危険な魔物たちがうじゃうじゃといる場所である。
そんな森の前で、エリクは振り返ってミリヤムを見る。
「では、入る前に注意点を教えておきます。と言っても、私も一度来ただけなので、完全に熟知しているわけでもないので、知っている範囲ですが……まあ、何も知らないよりはマシでしょう」
本来ならば、この森に入ったことのあるであろう冒険者などに依頼を出して案内や注意をしてもらった方がいいのだろうが……寒村に住んでおり、さらにその中でも迫害されている二人が、そんなことできるはずもなかった。
依頼金というだけならば、ミリヤムが母と一緒に一生懸命何年もかけて貯めたお金があるが、それはサルガドの村から出るためのものだ。
それに、二人の子供が依頼者と知られれば、足元を見られたり……下手をすれば、金だけ奪われて案内しないということもあり得るだろう。
ミリヤムは頷き、エリクの言葉を待つ。
「基本的に歩きづらいような地形ではありません。まあ、舗装はされていないので、村などに比べるとあれですが……ただ、落ち葉のせいで道が見えなくなっている場所もあり、そのせいで私は崖になっていることに気づかずに転がり落ちましたので、そこは注意してください」
「うん。そんなドジ、しない」
「おっふ」
力強く頷くミリヤム。
暗にドジと言われたエリクは、これだけでも快楽を得ていた。エリートである。
しかし、すぐに悦から復帰して、彼はピッと人差し指を立てる。
「それと、無事に帰ってくるために重要な魔物ですが、基本的に五感が鋭いように思いました。ですので、できるだけ足音を立てずに歩きたいと思います。そのために、落ち葉などは崖のことも含めて踏まない方がいいですね」
「分かった」
ごくりと喉を鳴らしながら、ミリヤムは頷く。
一番の課題は、いかに魔物と遭遇せずに薬草を摘んで帰ってくるかである。
戦う術を持たない子供の二人は、たとえ弱いとされている魔物と遭遇するだけで命の危険がある。
素早く……しかし、こっそりと目的を達成しなければならない。
「では、行きましょうか」
ミリヤムの緊張をほぐすように、エリクは穏やかな笑みを向けてくる。
それを見て、彼女もふっと少し気が楽になり、先に歩き出した彼の後ろに続くのであった。
エリクはただこの先に待ち受けているであろう苦難にワクワクしていただけだが。
◆
ミリヤムの先入観では、ペリエの森というのは非常に陰鬱としたものだった。
陽の光が届かず、じめじめとしていて醜悪な魔物が跋扈する危険地域。
しかし、いざ中に入ってみると意外や意外、確かに外よりは薄暗い印象があるが、決してじめっとしているわけでもなかった。
むしろ、木々や葉によっていい具合に陽光が遮られ、非常に心地いい気温や湿度になっている。
魔物の怒声が聞こえてくるというわけでもないので、穏やかなピクニックのようだ。
「なんだか……思っていたよりも明るいかも」
「そうですね。手入れがされていませんので木々は大きいしたくさんあるのですが……ただ、光も十分に届いていますね」
本当に魔物がいるのかと思ってしまうくらい、とても良い場所だった。
しかし、すぐにミリヤムはそんな甘い考えを振り払う。
見た目がそうでも、自分はまだペリエの森に入ってすぐである。全然この森のことを分かっていない。
それに、エリクはこの森に入って、後少しで死んでしまうような重傷を負って戻ってきたのである。
決して油断していい場所ではなかった。
「私が見つけた場所は、浅いというわけではありませんが深すぎるというわけでもありませんから、少し歩けばつきますよ」
「そっか……」
硬い表情を浮かべるミリヤムを緩めようと、エリクは肩の力を抜けるようなことを言う。
ミリヤムも、少し顔を緩めた。
これが、最深部なんて所にあったら、間違いなく二人は生きて出てこられないだろう。
「ふー……なんだかちょっと楽しいかも……」
深く息を吸えば、サルガドの村よりもはるかに美味しい空気を吸っている気がした。
森の中にいて緑豊かな自然に囲まれていれば、なんだか不思議と穏やかな気持ちになれる。
「サルガドの村を抜け出したら、色々なものが見られる」
「まあ、あの辺りは何もありませんからねぇ」
こういう光景は、あの寒村では決して見られないものだ。
あんな村を抜け出して、母と……そして、エリクと一緒にこんな素晴らしい場所を自由に歩いてみたい。
そのためにも、何としてでも薬草を採ってこなければ……。
「ただ、ペリエの森みたいな危険な場所以外観光したいな」
「うーむ……意見の相違ですねぇ……」
命の危険を感じずに観光をしたいミリヤム。
危険な地域以外行きたくないエリク。
仮に二人がサルガドの村を抜け出して一緒に行動するようになったとしても、なかなか意見が合わなそうだった。
二人は危険なペリエの森を歩いているとは思えないほど、会話が弾んでいた。
二人とも村では話せる人がろくにいないから、最近親しくなった者との会話が楽しかったということもあるだろう。
しかし、それを止めるように、エリクはバッと腕を伸ばす。
「ミリヤム、少し止まってください」
「どうし……ッ!?」
何があるのかと聞こうとすれば、しっと唇に指を当てるエリクを見て、首を傾げる。
エリクの視線の先を見れば……魔物がいた。
あれは、ミリヤムでも知っているポピュラーな魔物……ゴブリンだった。
人間から見れば醜悪な顔つきで、しかし身長は低く子供と同じくらいである。
だが、その子供であるエリクとミリヤムからすれば同じくらいの身長であり、武器も戦闘経験もない彼らからすれば脅威であることには変わりない。
ゴブリンは手に錆びついた短剣を持っていた。
あの剣で滅多刺しにされたら……ゾッとしてミリヤムは顔を青くさせる。
「ど、どうしよう? あっちに薬草があるんだよね……? 通れないよ……」
普通であれば、ばれないように先を急ぐかゴブリンがどこぞに行くまで隠れていればいいだろう。
だが、問題は目的地までの道を遮るようにして、ゴブリンがキョロキョロと回りを見渡していることである。
去るのを隠れて待つか? しかし、なかなか去らずに時間が過ぎてしまえば、また別の魔物が現れて見つかってしまう可能性だってある。
しかし、エリクはニヤリと自信ありげに笑う。
「ええ。ですが、これがありますから」
彼が手に持っているのは、ペリエの森に行く前にミリヤムが聞けば意味があると笑っていたスリングと呼ばれる布のようなものであった。
エリクは地面に落ちている手ごろな石を拾うと、スリングに設置する。
まさか、それでゴブリンを攻撃するのかと恐恐とするミリヤム。
確かに、自分たちとあまり変わらない背丈のゴブリンならば、上手い場所に当てることができれば戦闘不能に追い込むことができるかもしれないが……失敗すれば、死ぬのは自分たちである。
しかし、飛びかかってエリクを止めないくらいには、彼のことを信頼していた。
「よっと」
その信頼に応えるように、エリクはスリングに収めた石を見当はずれな遠い場所に放り投げたのである。
それは、木の幹に当たってカツンと音を立てた。
「ギッ!?」
その音がした方角を、バッと振り返って見据えるゴブリン。
その反応の素早さから、確かに魔物たちは五感が鋭いのだとミリヤムは納得する。
じっとそちらを見ていたゴブリンであったが、何が音を立てたのかわからなかったのだろう、短剣を構えながらそちらに歩いていくのであった。
「さ、今のうちに」
「う、うん……!」
その隙に、エリクに促されてミリヤムは素早く音を立てないようにしてその場を走り抜けた。
すぐ後にエリクも続き、何もなかったとゴブリンが戻ってきたころには、二人の姿はかの魔物からは見えない場所にまで進むことができたのであった。
「そういう使い方のために持ってきてたんだね……!」
感心したように目を輝かせてエリクを見るミリヤム。
彼は、もっと蔑んだ目を向けてほしいと思いながらも、スリングを振る。
「ええ。以前来たときにも、これがあれば便利かなっと思いまして」
なお、一人だったら使わない模様。
「ありがとう、エリク。あなたのおかげで助かった」
素直にお礼を言うミリヤム。
あの母以外に心を閉ざしていた彼女が、こんな心のこもったお礼を言う時がこんな近くに来るなんて、彼女自身でさえも予想していなかった。
「いえいえ、お気になさらず。では、あれが戻ってくる前に先を急ぎましょうか」
「うん!」
エリクと共に、ミリヤムは前に進んだ。
その後も、魔物を見つけることはあったが必ず自分たちが先に発見して隠れ、エリクがスリングを使って石を投擲し、その音に魔物が引き付けられているうちにさっと音を立てずに通り抜けるという手法を繰り返し、目的地に向かっていく。
そして、二人はついにたどり着いたのであった。
「さて、着きました。ここに、薬草がありました」
エリクに言われて、その光景を目に入れるミリヤム。
「わあ……!」
ミリヤムは、思わず子供らしい歓声を上げてしまった。
そこは、木々が開けて陽光が存分に届く場所だったのだ。
そして、広がるのは美しい花々である。
幻想的ともいえる美しい花畑が、彼ら二人の眼前に広がっているのであった。