第百六十二話 母の愛
早朝、ミリヤムは身支度をしていた。
これから、あの危険なペリエの森に薬草を求めて向かうのだ。
……確かに、怖い。一人だったら、震えて涙を流していたかもしれない。
だが、自分は一人で行くのではない。
初めての友達と……エリクと一緒に向かうのだ。
恐怖は確かに残っているが、随分と軽減されていた。
「じゃあ、行ってくるから。お母さんはちゃんと寝ていてね」
そう言って、ミリヤムは振り返る。
そこには、粗末な布団に寝ているラウナの姿があった。
顔色が悪いので、普段の薄幸の雰囲気も相まって今にも消えてしまいそうなほど儚い印象を与える。
そんな彼女の目にあるのは、自身の落命への恐怖ではなく、ただ娘を心配するものだけだった。
「ミリヤム……お願いだから、無茶だけはしないで……げほっ、げほっ」
「大丈夫。お母さんの分の薬草を採ってきて、その病気をすぐに治せる薬を作ってもらうから。だから、待っててね」
咳をしながら起き上がろうとするラウナを寝かせて、決意を固めた表情をするミリヤム。
しかし、ラウナは首を横に振る。
「いいの、私のためにあんな危険な森に行く必要はないわ。大丈夫、私は病気なんかに負けないから。だから、ミリヤムは安心してここにいても……」
「……あのね、最初の方に病気にかかっていた村の人、一人死んだんだって」
「…………ッ!」
ミリヤムの言葉に、ラウナはハッとする。
自身が嘘をついていることが、娘にはとっくにばれているのだ。
おそらく、このままだと自身は治ることなく衰弱し、命を落とすことになるだろう。
そのことは、ミリヤムも分かっていたのだ。
「私、お母さんに死んでほしくないよ……」
「ミリヤム……!」
感極まるように、目じりに涙を溜めるラウナ。
娘にそんなことを言われて、感動しない母がどこにいるのだろうか。
しかし、自分が死なないためには娘を危険な場所に送り込まなければいけないというジレンマに苦しむ。
「大丈夫だよ。私、必ず生きて戻ってくるから。……そ、それに、私だけじゃないから」
「えっ?」
恥ずかしそうに言いつつ顔を背けたミリヤムを、驚いたように見つめるラウナ。
「あいつ……エリクも、一緒に来てくれるって。案内してくれるって言うから、ちゃんと薬草を持って帰られるよ」
「あの子が……」
ラウナの頭の中に浮かび上がるのは、自分たちよりも過酷な生活を強いられているのにもかかわらず、とても充実した笑顔を受ける不思議な少年であった。
彼もミリヤムと同じくらいの年齢なのに、たった一人でサルガドの村人たちからの迫害に小さな身体で耐えている。
できることならば、彼のことも助けてあげたかったのだが……今の自分ではミリヤムを守ることで精いっぱいであった。
しかし、そんな彼をミリヤムは嫌っていたはずなのだが……名前まで呼んでいるし、穏やかな表情で彼のことを話している。
自分が寝込んでいた間に、何かあったのか……?
「そ、それでね、お母さん」
うんうんと考えていたラウナに、さらにミリヤムが衝撃的な言葉を言い放つ。
「私たちがこの村を出る時……そ、その……あ、あいつも、誘ってあげてもいいかな?」
「え……?」
ミリヤムが……エリクを一緒に村から脱出させたいと言った?
母である自分以外、まったく意に介さずむしろ敵対的な考えを持っていた、あのミリヤムが?
エリクのことも、同じ迫害されている仲間だからということで、決して好意的ではなかった。
彼女から見れば、迫害を甘んじて受けているその姿は、プライドも何もない情けない姿だったからである。
自分にはラウナがいてエリクには誰もいないということは、まだ子供であるミリヤムには納得できる理由にはならなかった。
そんな彼女が……彼を連れて行きたいと言ったのである。
「えと……あいつも迫害を受けているし、出て行くんだったらついでに連れて行ってあげてもいいかなって。あ、案内もしてくれるみたいだし、そのお礼っていう感じで……」
あわあわと言い訳を始めるミリヤムに、ラウナはクスッと笑ってしまう。
一生懸命なその姿は、とても愛らしかった。
「……ふふっ、やっぱり、あの子は良い子だったのね。将来の義理の息子になるのかしら?」
「ち、ちが……っ!! あ、あいつは、その……と、友達!」
「そう」
顔を真っ赤にして否定するミリヤムを、本当に微笑ましいものを見る温かい表情を作るラウナ。
それがまた、ミリヤムの羞恥を掻き立てるのであった。
「いいわよ。もちろん、あなたの初めてのお友達だものね」
「う、うん。……それじゃ、行ってくるね」
提案を受け入れてくれたラウナを見て、ミリヤムはさっさと立ち上がって出て行こうとする。
この場に残るのはいたたまれなかったからだ。
「ただし!」
しかし、ラウナの普段では決して出さない強い口調の言葉に、ミリヤムはビクッと身体を震わせて静止する。
振り返れば、今までに見たことのないような厳しい顔つきをしたラウナがいた。
何を言われるのかと、恐恐としていると……。
「たとえ、薬草を持って帰られなくても、絶対に生きて帰ってきなさい。もし、薬草はあってもあなたが生きて帰ってこなかったら、私はそれを飲まずに死にます」
「…………ッ!!」
ラウナから届いたのは、強い母の愛情であった。
ミリヤムは、もちろん生きて戻ってくると決意していたのだが、それでも心の内のどこかに最悪の場合は薬草だけでも持ちかえって母を治そうと考えていた。
そして、母はそれを見抜いて、それが成し遂げられたとしても薬は飲まずに死ぬと宣言した。
つまり、一蓮托生……ミリヤムが生きればラウナも生き、ミリヤムが死ねばラウナも死ぬということになったのだ。
そんなにも、自分のことを大切にしてくれている。
母の愛情を改めて感じて、ミリヤムは目頭が熱くなる。
「だから、必ず生きて戻ってきて。お願い」
「……分かった」
優しく微笑むラウナに、強い表情で頷くミリヤム。
もはや、彼女は自分がどうなってでも薬草だけは……と言う考えは持っていなかった。
「じゃあ、行ってくるね」
「ええ、行ってらっしゃい」
二人はそう言って別れたのであった。
◆
待ち合わせ場所には、すでにエリクが待っていた。
「ごめん、遅くなっちゃって」
ミリヤムが謝罪すると、エリクは笑顔で首を横に振る。
「いえ、構いません。これから、命を張る危険なことをするのですから、別れくらいちゃんとしておくべきでしょう。それができる人がいるというのは、とても貴重ですから」
「あ……」
そうだ。エリクには、そうやって命を懸けて帰りを待ってくれている人がいないのだ。
自分は、まだ幸福だったと思うと同時に、無神経なことを言ってしまったと自戒する。
「さて、と」
改めて自分が孤独であることを認識してこれをも快楽に変換していたエリクは、よいしょっと籠を担ぎ上げる。
ミリヤムは不思議そうにそれを見つめた。
「……その籠ってなに?」
「もちろん、薬草を入れるためのものですが……」
逆に、何に使うの? と首を傾げるエリク。
しかし、ミリヤムの思っていたことは、それとはまた違うことだった。
「……お母さんの分だけじゃないんだね」
苦々しい顔をするミリヤム。子供がする顔ではない。
自分たちは、これから非常に危険な魔物たちの跋扈するペリエの森に、命を懸けて突入する。
そこで得られた薬草を、普段自分たちを迫害してきて、しかもこのような非常事態になっても自分たちの命を考えてペリエの森に入ろうとしない連中。
どうして自分たちが採ってきた薬草で助けてやらなければならないのか?
ミリヤムは、どうしてもそう思ってしまう。
「まあ、薬草がなければ死んでしまいますからね」
「……あんな奴ら、死ねばいいのに。エリクは本当に優しいね」
「いえいえ」
ミリヤムはため息を吐く。
残念ながら、目の前で笑顔になっている少年は、そんな理不尽なことをしてくる人のために命を懸けなければならない、ということに快楽を得ているのでどうしようもない。
「あと、それは?」
ミリヤムの目は、彼の持つ布のようなものにも向けられた。
「ああ、石を飛ばすために作ったものです。スリングと呼ばれるものですね。自分で投げるよりも、遠くに速く飛ばすことができるので、便利ですよ」
「……それで、魔物と戦うの?」
懐疑的な目をエリクに向けるミリヤム。
人間相手になら十分な力を発揮する投擲だろうが……屈強な魔物たちに、そんなしょぼい攻撃が通用するのだろうか?
そう思っていたミリヤムの考えを否定するように、エリクは苦笑する。
「まさか。大して役に立ちませんよ」
「……? じゃあ、どうして?」
首を傾げるミリヤムに、意味深に微笑んでみせる。
「戦い以外にも、案外役に立つものなんです。では、行きましょうか。ラウナさんを、必ず助けましょう!」
「……うん!」
スリングとやらは気になるが、大事なことはラウナを助けるための薬草を採って来ることだ。
多少の違和感を追及しない程度には、ミリヤムもエリクに心を許していた。
これは、ラウナ以外に心を開かない彼女からすれば、かなり好意的な印象を持っていることになる。
二人は決意を新たにして、ペリエの森へと向かうのであった。