第百四十九話 匂いに誘われて
「なっ……!? ま、まだ立ちはだかるのか……!!」
ヴィルフリートは驚愕する。
顔を隠しているが、他の異端審問官たちも同じような表情をしているに違いない。
異教徒を殲滅することだけを生業とし、基本的には一切の感情を表に出さないように訓練されている彼らが、明らかに動揺している。
血みどろになり、満身創痍のエリクは、それでもなお半魔の前に立ちはだかるのであった。
毒が全身をむしばんで耐え難い苦痛を味わっているだろうし、全身の裂傷も酷いものだ。
とくに、腹部に突き刺されたいくつもの短剣は、間違いなく致命傷である。
自分自身が死に近づいていることだって実感しているはずなのに、それでもエリクは自分が死んでしまう恐怖を感じないように、ミリヤムを庇い続けるのであった。
「お、お前、本当に人間か? こんなにボロボロになってまで……何故そこまでして半魔などを守ろうとする……? お前、怖くないのか?」
「エリク! もういいから……! 私をここまで庇わなくても……大丈夫だから! 迫害されるの、慣れてるし」
ありえないものを見る目でエリクを見て、不覚にも異教徒に純粋な疑問を投げかけてしまう。
それにエリクが答える前に、ミリヤムが限界を迎えた。
彼が自分のために傷ついているのを見れば、自分が傷つけられることよりも心が痛んだ。
自分に、エレオノーラやガブリエルのように戦うことができる力があれば……不出来な回復魔法だけでなかったらとどれほど思ったことだろうか。
もういい。もういいのだ。
エリクがいくらスキルで死なないからといっても、痛覚は存在する。
肉体的に殺せないのであれば、精神的に殺すことだってできるのだ。
エリクが死んでしまうのは、ミリヤムは見たくなかった。
彼はかすむ目でミリヤムを見て、薄く笑った。
やはり、出血量と毒が回ってきたことで苦痛を味わっているのだろう、顔全体にびっしりと汗を浮かび上がらせており、顔色も真っ青だった。
しかし、それでも彼はミリヤムに優しい笑みを見せて、ヴィルフリートの問いかけに答える。
「そう、ですね……。私だって人間です。確かに、(毒と短剣で腹を突き刺されるという快楽でどうにかなってしまいそうで)怖いです。ですが……」
エリクはそこまで言うと、ミリヤムを見て口を開いた。
「私には、この子を(二重の意味で)失うことの方が怖いのですよ」
「あっ……」
ミリヤムという存在そのものとして、自分の傷ついた身体を高度な回復力でかつ激痛も与えてくれる回復魔法使いとして。
比重がどちらが重いのかは、エリクのみぞ知る。
彼の心の内を知らないミリヤムは、心が痛むと同時にやはり凄く嬉しく感じてしまう。
「……ふんっ。お前が半魔なんぞに執着しなければ、良い天使教徒になれたであろうに」
少し……ほんの少し残念に思うヴィルフリート。
狂信者ぞろいの天使教徒、しかも異端審問官というその中でもさらに狂信度が高い人物に、少しでも残念という感情を抱かせられたのは信じられないことである。
少なくとも、ヴィルフリートが今まで処分してきた異教徒に対して、そのように思ったことはないのだから。
「殺せ」
だが、それで彼らを……魔を見逃す理由にはなりえない。
ヴィルフリートの冷酷な言葉と同時、異端審問官たちが再びエリクとミリヤムににじり寄る。
「逃げて、エリク……」
「ふっ……安心してください。私は最後まで、あなたの側にいますから」
こんな状況でミリヤムを置いて行けるはずもなく、またこんな美味しい状況でドMが逃げ出すことがあるはずがなかった。
エリクは自分の血に濡れた短剣を持ってにじり寄ってくる異端審問官たちを、心からの歓迎の意を込めて迎え入れようとして……。
「こーんな夜遅くに、なーにしてるの?」
緊迫した(エリクを除く)この場にふさわしくない、のんきな女の声が響いた。
深夜で雑踏もないため、やけにその声が通った気がする。
その声を聞いて訝しげな表情を浮かべたのが異端審問官たち、顔を輝かせたのがミリヤム、残念そうに顔を俯かせたのがエリクであった。
「ガブリエルさん!」
「やっほ、ミリヤム。夜遅くまで起きてたら美容に悪いよー」
建物の屋根にしゃがみ込んでこちらを見下ろしてきていたのは、褐色の肌と金色の髪を後ろでまとめ上げ巨大な戟を肩に担いだアマゾネス――――ガブリエル・モニクであった。
「ガブリエルさんも、どうして?」
彼女が夜はいつも豪快に寝ていたことを知っているミリヤムは、心強い援軍を嬉しく思いながらも不思議さも感じていた。
ガブリエルはニコッと夜には似合わないような、太陽のような快活な笑みを浮かべる。
「血と汗の匂い……戦闘があると感じ取ったからね。アマゾネスとして、これは見逃せないよ。しかも、その匂いがあたしの良く知っている男のものだとしたら、なおさらね」
そう言いながら、高い屋根からその身を投げだすガブリエル。
エリクなら脚の骨折間違いなしの愚行であるが、彼女なら何の問題もない。
大して音を立てることもなく、軽やかに降り立った。
「べ、別にあの時みたいに夜にエリクくんと話したいからこっちに来ていたってわけじゃないよ!?」
「…………」
褐色の頬を赤く染めて聞いてもいない言い訳を始めるガブリエルを、ミリヤムは白けた目で見つめた。
「なんだ? また異教徒か。処分する人間が増えたな」
「えーと……なんだっけ。騎士ちゃんが言うには、カルトだっけ?」
ヴィルフリートとガブリエルが見つめ合う。
彼は憎々しげな眼をしていたのだが、彼女の方は大して何の感慨も抱いていないようで、感情の宿らない目を向けていた。
「うちの街も天使教は受け入れていなかったからね。こういうのだって分かっていたし」
「半魔を庇う異教徒は皆殺しだ!」
「……話も聞いてくれないんだね」
頭が痛そうに抱えるガブリエル。
現女王である妹のことを思いだしてしまう。
「で、エリクくん。大丈夫? というか、そんなにボロボロになってもまだ立ち向かおうとするんだね」
「ガブリエルさん……」
ガブリエルはどうでもいい天使教徒を視界から外し、人懐こい犬のようにエリクの元に駆けよる。
ボロボロになっている勇者。出血量のせいか、目も虚ろである。
そんなエリクを見たガブリエルの感想は……。
「うん、いいね!」
ニッコリと笑った。
「うんうん、あたしと戦ってくれた時のことを思いだすよ。どんなにボロボロになっても戦い続けようとするその姿に、あたしは男を見たんだよね。うんうん」
ガブリエルは嬉しそうに笑い、エリクの頬に流れる血をペロリと舐めとった。
はぁっと蠱惑的な吐息が耳元で聞こえ、豊満な肢体が押し付けられる。
しかし、もはや満身創痍のエリクに、それを楽しむ余裕なんて微塵もなかったのだが。
「よし、ここからはあたしが相手をしてあげよう。ミリヤムが連れて行かれるのも……まあいい気はしないし、それに――――――」
ガブリエルはブンッと戟を薙いだ。
「――――――あたし以外がエリクくんをボロボロにするのって、あまり見ていて愉快じゃないからさ」
ガブリエルの言葉の後、一人の異端審問官の身体が倒れた。
頭部を失った首から、ぶしゃーっと噴水のように血が噴き出した。
エリクを苦しめた天使教の精鋭の一人は、あっけなく命を落としたのであった。
「なっ……!? こ、殺せ!!」
ヴィルフリートの言葉に従って、異端審問官たちが動き出す。
しかし、残念ながら彼ら程度の実力者でこの程度の数ならば、ガブリエルにとって本気を出すまでもなかった。
「ぎゃぁぁっ!?」
ガブリエルの振るう戟を短剣で受け止めようとしたが、そんな柔いもので受け止められるような威力ではない。
戟自体の重量もそうだが、彼女の並外れた力によって凄まじい威力を内包しているのだ。
それを、素早さ重視の武器でどうこうできるはずもなかった。
一人の異端審問官が肩から斬られたのを見ながら、二人の天使教徒が背後から襲い掛かる。
仲間の死を利用して異教徒を滅しようとするその態度は、まさしくカルトの非合法部隊にふさわしいものであった。
「わっと」
だが、そんな奇襲もガブリエルからすればただの突撃にしかならない。
ひらりと軽やかに攻撃を躱せば、当たると確信していたため避けられて硬直させていた一人の身体を、背中から串刺しにした。
「ぐぎゃっ!?」
慌てて攻撃を仕掛けようとするもう一人の異端審問官の顔面には、強力な拳を叩き込む。
鼻血を噴き出させながら地面に仰向けに倒れる彼を見ながら、ガブリエルは嘆息する。
「うーん……やっぱり、拳の力は騎士ちゃんの方が上かぁ。ムカつくなぁ」
「ひっ……! や、やめ……ぎぴっ!?」
顔を隠す布が取れてしまい、歪に曲がった鼻から血を流して歯も欠けている異端審問官が命乞いをする。
だが、当然そんな戦士らしくないことをされて、アマゾネスが見逃すはずもない。
戟の刃の部分を使って、丁寧に首を切り裂いてやる。
「ひっ、ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
ついに、耐えきれなくなった最後の異端審問官が、背を向けて逃げ出してしまった。
天使のために戦って死ぬのはいい。だが、仲間たちがああもあっさりと殺されていくのを見て、それでも戦えるほど彼の信仰は強くなかった。
天使教の総本山が近くにあれば、そういう狂信者もいることにはいるのだが……残念ながら、ヴィレムセ王国は遠く離れた場所にあるので、その分天使教徒の信仰心も一部を除いてそれほど高いというわけではなかった。
「はぁ……ダメだよ、敵前逃亡は。ちゃんと、戦士なら正面きって戦わないと。どれだけボロボロになっても、敵に向かわなくちゃ男らしくないよ。……まっ、エリクくんみたいなのは少ないか」
そう言って冷めた目を逃げる異端審問官に向けると、重量のある戟を肩に担いで……思い切り投擲した。
「ぐぉ……あぁぁぁ……っ!?」
ズドンッ! と凄まじい音を立てて、その戟は容易く男の身体を貫き、地面に突き立った。
このことによって、異端審問官はまるで串刺しにされたように、身体を縫い付けられてしまうのであった。
「そ、そんな……。て、天使教の精鋭たちが……ぜ、全滅……!?」
「…………つまらなかったなぁ」
愕然とするヴィルフリートを前にしながら、異端審問官を皆殺しにしたガブリエルはため息を吐くのであった。