第百四十七話 異端審問官
窓を割って部屋から飛び出したのはエリクである。
その腕の中には、ミリヤムがいた。彼女を離さないように、強く抱きしめる。
場所は二階。この高さくらいならば、落ちてもどうということはないくらいにエリクも鍛えられていた。
「ほっ」
スタリと地面に降りたつ。
ビリビリとした感覚が心地いい。エリクはニッコリである。
「ミリヤム、移動しますからしっかり掴まっておいてくださいね」
「う、うん……!」
エリクはそう言って走り出した。
そのすぐ後、宿屋の扉を蹴り倒さんばかりの勢いでこじ開け外に飛び出してきたのは、顔が見えないように布で隠された数名の人であった。
彼らは逃げた異教徒を全速で追いかけた。
「速いですね……」
エリクは人一人を抱えているとは思えないほどの速さで走ることができている。
これも、日ごろからヴィレムセ王国の王族によって鍛えられたおかげである。
しかし、彼を追っている者たちはさらに速かった。
もちろん、彼らは人を担いでいないので速いのも当然なのだが、エリクが思っていた以上に距離を詰められていた。
「(これは、逃げ切ることはできませんねぇ……)」
追いかけられているとは思えないほど良い笑顔を見せるエリク。
こんな絶望的な状況も、ドMからすればご褒美以外の何ものでもない。
「……仕方ありません。ミリヤム、戦いますよ」
「分かった……!」
エリクたちは開けた広場に出てきた。
日中は多くの人々でにぎわっている場所であるのだが、こんな深夜には誰も出ていなかった。
ヴィレムセ王国の王都も治安が良いというわけではないので、それも当然だろうが。
エリクが広場に出てミリヤムを下ろすころには、追手の彼らも広場にたどり着いていた。
もうエリクたちが逃げないと分かったからか、立ち止まってにじり寄ってくる。
「大体あなたたちのことは予想できるのですが、どなたかお答えいただけますか?」
エリクはそう尋ねながら、剣を抜き放つ。
とくに返事を期待していたわけではなかったのだが、迫りくる人は教えてくれるらしい。
「私たちは異端審問官だ。憎き敵である悪魔とそれに協力する異端者を抹殺しに来た。大人しく殺されれば、天使様もお許しくださるだろう」
「異端審問官、ですか……」
やはり、天使教の差し金であった。
天使に許されるか許されないかはどうでもいいし、許してもらわなければならないようなことをしているつもりはないので、大人しく殺されるつもりはない。
抵抗した方が苦痛は長く味わえるだろうし。
それに、ミリヤムをこんな所で死なせるわけにはいかない。
「別に、異端というわけではないと思うのですが……」
確かに天使を信仰しているわけではないが、だからと言って悪魔を信仰しているわけでもない。
彼が信仰するのは、勝手に作りだしたドM神様だけである。
「天使様を信仰しないだけでも許しがたいが、魔というのは存在自体が害悪である。それがたとえ、半分の血しか入っていなくても、だ」
そう言いながら、異端審問官は声を少しだけ和らげる。
「女は救いようがないが、勇者はまだ戻ることはできるぞ? お前は今まで魔を滅してきた……その功績は確かなものだ。ただちに過ちを認めてその女を差し出すのであれば、見逃してやってもいい」
「ミリヤムを差し出したとしたら……」
「無論、処分する。魔はこの世から全て駆逐しなければならないのだ」
やはり、わかりきっていた答えである。
エリクは考えることすらせず、緩慢に首を横に振る。
「やはり、話になりませんね。私がミリヤムを見捨てて命乞いをすることなんてありえません」
むしろ、ミリヤムが自分を見捨てて生き延びようとしてくれた方がドM的にはダメージを得られて嬉しい。
異端審問官はその答えを予想していたのか、大して落胆することもなかった。
「そうか。ならば死ね、異教徒。わが名はヴィルフリート。冥途の土産に持って行け」
そう言うと、異端審問官……ヴィルフリートは猛然とエリクに走り寄るのであった。
「…………ッ!!」
ジャッと月光に一瞬煌めいたのは、ヴィルフリートが振るった短剣であった。
エリクは長剣でそれを弾く。
短剣ということもあって、その攻撃は非常に軽いものだった。
ガブリエルの繰り出す戟とは比べ物にならない。
「おっと……!」
だが、次の瞬間にはすでに短剣の攻撃が襲い掛かってきていた。
エリクは身体をかがめて避けるが、頬をビッと斬られてしまう。
その痛みにニヤリと笑う。
「お前には『狂戦士』という二つ名もあったな。やはり、戦いを楽しむような輩は勇者にふさわしくない。天使教を信仰し、魔を滅する決意を持った者でなければな」
「そうですか。私としては、二つ名なんて仰々しいものは求めていないのですが」
ヴィルフリートの挑発にも、エリクは反応せず冷静に短剣を受け流していた。
怒りに任せて隙を見せてくれれば楽だったが……。
しかし、まさにエリクは防戦一方。ミリヤムも心配そうに彼の背中を見ていた。
だが、エリクは所々斬られて快楽を得るようなことはあっても、あくまで頭は冷静であった。
なるほど、確かにヴィルフリートの短剣の扱いは卓越している。
重さや威力がない分、手数が凄まじく多い。
上から横から下から。まるで、嵐のように振るわれる短剣に、長剣を使うエリクはどうしても押されてしまう。
しかし……。
「それは、ガブリエルさんで何度も見せられています」
「なっ……!?」
ガキン! と一際高い金属音が鳴った。
確かに、ヴィルフリートの短剣の扱いは見事なものだ。
明らかに慣れた様子から、今まで異教徒と断定してきた者たちを散々に殺してきたのだろう。
以前までの……勇者になって間もなかったときのエリクならば、彼に手も足も出ずに殺されていたかもしれない。
だが、この短期間で彼も非常に濃い経験をしている。
とくに、エレオノーラやガブリエルとの模擬戦を何度も繰り返してボコボコにされていることもあり、彼の実力というものは急速に跳ね上がっている。
彼女たちの加虐性や戦闘欲を満たすためとはいえ、エリクにも快楽以外にその恩恵があるのであった。
その結果、彼はヴィルフリートの短剣を弾き飛ばすことに成功したのであった。
大きく腕を跳ねあげられて、無防備になった腹部。
エリクはそこに剣を突き刺すのであった。
「がはっ……!?」
盛大に血を吐くヴィルフリート。
彼の血を少し顔に浴びながら、自分が強くなっていることに危機感を覚えるエリク。
「(これじゃあ、私のドM性癖を満たすことが少なくなってしまいます……!)」
弱い方がよかった……。傷つきやすいし……。
ドMを満たすための行為の副作用に、彼は大いに嘆くのであった。
「ぐっ……! い、異教徒が……!!」
脂汗を大量に浮かび上がらせながら、ヴィルフリートは怨嗟の声を上げる。
「魔を滅してきたから、ち、力だけはあるようだな……。異教徒のくせに……」
「恐縮です」
「お前をこの手で、殺せないことは……ざ、残念だ……。だ、だが……せめて半魔だけは必ず殺す……!!」
「――――――ッ!」
血を吐きながら凄惨な笑みを浮かべるヴィルフリートを見て、エリクはハッと振り向く。
自分の背に隠れていたはずのミリヤムが、離れた場所に立っていた。
彼女が自分から動いた? 動かされた?
違う、エリクが移動していたのだ。
ヴィルフリートとの戦いで、彼は離れた場所に誘導されていたのだ。
戦う力を持たないミリヤムは今、完全に無防備になっていた。
「やれ……っ!!」
ここで動いたのが、ヴィルフリートと共に行動しながらもエリクとの戦いに参戦しなかった異端審問官たちである。
彼らはヴィルフリートと同じ短剣を取り出した。
それを見たエリクは、考えるよりも先に身体を動かしていた。
「ぐあっ……!?」
ヴィルフリートの身体から乱暴に剣を引き抜き、ミリヤムの元へと駆ける。
「もう遅い!!」
ヴィルフリートは勝利を確信したように笑った。
それと同時、異端審問官たちの手から短剣が放たれたのであった。