第百三十六話 寝るということ
「ぐちぐちうるさいのぉ。まったく……儂に説教するなんて……。説教を受けることなんて、何年ぶりじゃ?」
アンヘリタは月夜の下、ブツブツと言いながら彼女の住処の廊下を歩いていた。
明日には、王都に戻るエリクについていくことが決まっており、これが最後の住処で過ごす日になる。
……と言っても、二度と来ることができないというわけではないため、とくに感慨を抱くこともなかったが。
アンヘリタの頭に浮かぶのは、弱いくせに物凄く冷たい目を向けてきたミリヤムであった。
「ねちねちねちねちと……奴は姑か?」
無表情のアンヘリタでも、多少疲れた雰囲気を醸し出す。
ミリヤムはここぞとばかりに肝を引き抜くことに関して、ねちっこく……ミリヤムからすれば懇切丁寧にコンコンと説教をしたのである。
やれあなたのために回復をしているではないだの、やれエリクの肝はあなたものじゃないだの……。
「……後者は少し危ない臭いがするのぉ」
ミリヤムもエリクの肝を求めるようになったらどうなるのだろうか?
まあ、普通の人間が人間の臓器を喰らったらいい影響なんて出るはずがないのだが。
アンヘリタは白狐だからこそ、人間の肝を美味しくいただくことができるのだ。
「むっ?」
絶対にミリヤムにエリクの肝はやらない。
そう固く決意していると、廊下に座り込んで外の景色を眺めている彼の姿があるではないか。
とっくに眠っているとばかり思っていたが……。
「……ほうほう」
アンヘリタはすすすっと足音を立てずに彼に近づく。
卓越した能力で気配も遮断しているため、エリクが気づく様子はない。
黒い着物をピッチリと来ているため動きやすそうではないのだが、器用に歩いていく。
そして……。
「これ。こんな夜更けに何をしておる?」
「アンヘリタさんですか」
ふわりと背中に抱き着いてみる。
ついでに、白くてモフモフする尾も巻き付かせてやる。大サービスだ。
白狐の尾に優しく抱いてもらえるなんて、そんな貴重な体験ができる者はエリク以外いないだろう。
「いえ。少し思い返していまして……」
エリクはカッレラ領に来てから味わった苦痛を思い返していると興奮して眠れなくなってしまったので、外に面している廊下に出て身体を冷やしていたのである。
ズタボロにされて肝を何度も抜かれて……ここでは素晴らしい体験ができた。
しばらくはこの経験を思い返すだけで多少性癖を満足させることができるだろう。
それに、この後も楽しみがある。
エリクがレイ王から命令されたのは、ニルスがテロ組織『救国の手』とつながっているのか調査することだった。
しかし、実際に行ったのはニルスを殺害するところまでいってしまった。
「(これは、越権行為で断罪不可避でしょうねぇ……)」
とくに、レイ王は自分のことを良く思っていないようなので、厳罰が期待される。
エリクはニコニコと笑っているのであった。
「…………ふむ」
さて、エリクの反応につまらなかったのがアンヘリタである。
わざわざ豊満な胸を押し付けているというのに、まったくもって可愛らしい反応を見せない。
「エリクよ、お主は同性愛者なのか?」
「はい? いえ、そんなことはありませんが……」
「ふむ……ならば、もう枯れておるのか?」
「はっはっはっ。それはありえませんとも」
最初こそ困惑気味に返していたエリクであったが、次のアンヘリタの質問には思わず笑ってしまう。
枯れている? おそらく、彼の性欲は大陸一である。性豪である。
ただ、残念なことに、その欲は全てM関連であるからして、一般的な性欲が強い者のような行動をとらないだけである。
なんなら、今も背後からアンヘリタにいきなり肝を抜かれないかな、などと期待しているほどであった。
「……ならば、儂に魅力がないか?」
むっとしたように小さく頬を膨らませつつ、エリクの頬にこすり付けるアンヘリタ。
彼女がこんなに人間に懐くのは、あの人以来である。
しかし、魅力がないと言われた方が腹立たしい。
同性愛者や不能であれば、自分がどうとでもできてしまうのであるが、自分自身がダメだと言われればどうすることもできまい。
「いえ、そんなことはないと思いますよ。美人です」
間近でジト目を向けてくるアンヘリタに、大して恥ずかしがることなく言い切るエリク。
彼だって救い難いドMだとしても、容姿の美醜くらいは見て感じることはできる。
ただ、エリクにとって美醜はあまり関係がなく、自分を痛めつけてくれるかどうかが指標になるのだ。
その点、アンヘリタは非常に高得点である。
肝を物理的に引き抜いて目の前で喰らってくれるような人物なんて、彼女以外に存在しないからだ。
次点でデボラが続く。彼女のスキルである爆発もまた、彼女だけの痛めつけ方法であるからだ。
「そうか」
無表情ながら、アンヘリタの纏う雰囲気が柔らかくなった。機嫌が良くなったのだろうか。
これを感じ取り、エリクは失敗したと後悔する。
彼女を怒らせて肝を引き抜かれておけばよかった……!
「ふーむ……」
一方、アンヘリタはさてと考え始めていた。
どうやら、エリクの言葉を信じるとすると、自分は魅力がまったくないというわけではないらしい。
男にも興味がないということだったので、性欲の対象はちゃんと異性なのだろう。……本当はドMにだけ対象が向けられているのだが。
これだけ胸を押し付け密着しているというのに、まったくうろたえていないというのは、彼の性欲が著しく少ないのか、さらに彼の理性がとんでもなく強いかのどちらかなのだろう。
もしかしたら、その両方を兼ね備えているのかもしれない。
「……面白い」
アンヘリタは小さくほくそ笑む。
彼女には、あの人を同性愛に一時的にとはいえ引きずり込んだ実績がある。
ミリヤムに教えるほど房中術にも理解がある。エリクを快楽に悶えさせることにも、自信があった。
「よし、エリクよ。儂と寝るぞ」
「はい。……はい?」
耳元でぼそぼそと囁き声を聞いて、つい返事をしてしまうエリク。
しかし、すぐにその意味を理解できず、聞き返してしまう。
アンヘリタはそんな彼を構うことなく、尾で彼の身体を立たせると腕を引っ張る。
すぐ近くには、エリクにあてがわれていた部屋がある。
そこには、ちゃんと寝具も用意されていた。もともと、彼は寝られなくて廊下に出ていたからである。
「一人で寝られんのであれば、儂を抱き枕にすればよい。体温も少し冷えていて、心地いいじゃろうて」
「はぁ……それは確かに……」
味わった苦痛を思いだし、興奮して眠れなくなっていたので、確かに火照った身体を冷やすことができればすぐに寝られるかもしれない。
しかし、女と同衾するのはいかがなものだろうか?
Mが関連しないのであれば、比較的常識的な思考をしているエリクは、ここで悩んでしまう。
「ほれ、早く来んか」
すでに、アンヘリタは寝具の中に入ってエリクを待ち構えていた。
いつもぴっちりと着ている黒い着物をはだけさせ、豊満で白い身体を夜の中で映えさせている。
深そうな胸の谷間やへそ、そしてさらに下までもが見えそうになり、蠱惑的な雰囲気を醸し出す彼女を見れば、普通の男なら喉を鳴らしてしまうような光景であった。
胸に文様が入っているのも、エロスが感じられる。
「はぁ……」
残念ながら、エリクは普通の性癖の男ではなかったため、とくに我を忘れて飛びかかるなんてことはなかったが。
なんだかよくわからないが、迎えられるのであれば行っておこう。
「(それに、何だか私のMセンサーが行っておくべきだと伝えてきますしね)」
そんなアンヘリタには聞かせられない理由で、寝具の中にもぐりこむエリク。
「……えらくすんなりじゃな。もっと慌てんか」
「えぇ……?」
またむすっとし始めたアンヘリタに、首を傾げるエリク。
無粋な反応をする彼にもっと言いたいことはあるが、今はいいだろう。
せっかくの同衾機会だ。楽しませてもらわなければならない。
さて、とアンヘリタがエリクに馬乗りになろうとすると……。
「では」
「…………」
その前に、エリクがアンヘリタの身体を抱き寄せてしまったのである。
これには、アンヘリタも無表情ながら混乱する。
頭と腰を抱き寄せられ、胸板に顔を押し付けられる。
「(雄の匂い……)」
ひくひくと鼻を動かして思わず匂いを嗅いでしまう。
いや、そうじゃない。良い匂いだが、今はそうじゃない。
「……何をしておるんじゃ、お主」
「いえ、抱き枕にして良いとおっしゃっていましたし……」
こやつ、頭のねじが抜けておるのか?
思わずそう思ってしまうアンヘリタは、ジトーッと彼の顔を見上げる。
半裸の美女と添い寝をして、本当にただ眠るだけのつもりの男がどれくらいいるだろうか。
長い時を生きてきたアンヘリタも、こんなバカな男は見たことも聞いたこともなかった。
……いや、遠く離れた闇ギルドのマスターも似たような感じだったらしいが、それは今どうでもいいことだろう。
「はぁ……まあ、良いわ」
アンヘリタは息を一つ吐くと、ごそごそと寝心地を良くするために彼の身体の中で動く。
自分の体温と比べると、やはり熱い。
それに、これほどまでに接近すると、身体の硬さや匂いも実感してしまう。
女である自分とは、かなり違いがあるようだ。
そもそも、男と大して交流がなかったアンヘリタからすれば、エリクは最も近しい男になる。
「今晩は儂を肉枕として好きにするといい」
蠱惑的な声で、アンヘリタはエリクの耳元でささやく。
「ふっ……それでは、私はあなたの肉壁となりましょう」
まあ、エリクは相変わらずであったが。
「……なんじゃ、それは。馬鹿なことを言うでないわ」
良い笑顔を浮かべるエリクから顔を逸らし、アンヘリタは彼の胸に顔を押し付ける。
冷たい反応も良い! とビクビクしているエリクは、彼女の耳と尻尾がせわしなく動いていることに気づかなかったのであった。
◆
ミリヤムはエリクの部屋の前に来ていた。
いつもは自分よりも早起きな彼だが、今日はまだ起きていなかった。
仕方ないなぁと思いつつも、エリクを起こすことにちょっとした楽しさを覚えてふふっと笑う。
「……エリク、朝――――――!?」
少し笑いながら部屋に入ったミリヤムを待ち受けていたのは、衝撃的な光景であった。
「ぐごー……」
毛布を蹴り飛ばし、来ていた着物を盛大にはだけさせて豪快に眠るアンヘリタ。
文様の入っている豊満な胸や色々と見えそうなところがあるが、ミリヤムは女なので大して何も思わない。下品だなと思うくらいだ。
問題は、ここがエリクの部屋だということである。
どうして、この女が彼の部屋で……彼の寝具の上で豪快に寝ているのか。
そして、もう一つの問題は……。
「うっ……がはっ!? や、やはり、私の思っていた通りでしたね……」
息も絶え絶えの様子で青白い顔で微笑むのは、エリクである。
彼の身体には白い尾が何本も巻きつけられて、猛烈な力が加えられていた。
骨の何本かは、とっくに逝っている。
アンヘリタ、寝相が悪かった。
「エリクぅぅぅぅぅぅぅぅっ!?」
ミリヤムの絶叫を意に介することなく、アンヘリタは穏やかな表情で寝息を立てつづけるのであった。