第百三十四話 肝の力
威勢よく好戦的に微笑んでいたエリクであったが、彼はなすすべなく身体を傷つけられ続けていた。
もともと、勝機があるからではなくズタズタにされそうだから微笑んでいたということもあるが……。
ラドレに斬りかかれば、受け止められている時に石を投げつけられてダメージを負い。
距離をとろうとすれば壁の近くまで突き飛ばされ背後を斬られてダメージを負い。
全身は傷だらけ、血だらけとなり、もはや勝負はあったようなものだ。
ラドレたちも余裕の態度だ。フラフラとしながらも、まだ立ち続けるエリクを見て盛大に嘲笑う。
「あははははははははっ!! いい気味だ! もっと苦しめ! もっと悲鳴を上げろ!!」
そして、それを見ているニルスも大喜びである。
流石に治療もせずに血を流し続けたせいで顔は真っ青になっているが、興奮しているせいか意識を保ち続け、憎いエリクがボロボロになる様を存分に楽しむ。
円の中で踊るようにフラフラとし、ラドレからの攻撃や壁からの攻撃で血を撒き散らしているその様は、本当に心の底から愉快になれた。
エリクも内心で大喜びしていたりする。
「……くくっ。あの人のように強いわけでもないのに、あんなに血みどろになってもまだ倒れんか。お主にとって、儂はいったいどれほどの存在なのやら」
そして、アンヘリタもまた薄く微笑んでいた。
自分のために血みどろになる男を見て悲痛な顔はしない。むしろ、喜んですらいる。
悲しむような女は、ミリヤムのような心根が優しい女なのだろう。
だが、アンへリタのような女は、男が自分のために傷だらけになりながらも戦っている姿に喜びを覚えてしまうのだ。
そう何度も守られた経験がないような強い女は、そうなってしまう。
「アンヘリタぁ。次にああなるのは君だよ。本当、愚かなことだよね。僕に逆らいさえしなければ、君はあんな目に合うことはなかったのに」
そんなアンヘリタに優越感に満ち満ちた笑みを向けるのはニルスである。
嗜虐的に笑い、彼女に不安を抱かせようと言葉を続ける。
「おっと。今更謝ったって遅いよ。僕は怒っているんだ。この僕を怒らせたこと、散々に後悔するといいよ!」
「そうか」
「…………ちっ」
ニルスの脅しを受けても、アンヘリタは表情を恐怖に歪めることはなかった。
それどころか、何も感じていないような無表情のままである。
自身はニルスもよく原理を理解していない鎖で身体を拘束され、彼女を助けに来た勇者も傭兵たちに囲まれていたぶられ。
まさに、絶体絶命と言えるだろう。
だが、アンヘリタはニルスの方を一瞥すらすることなく、じっとエリクの姿を目に焼き付けるように見ていたのであった。
「……よし」
アンヘリタが一つ頷くのを見て、ニルスは怪訝そうに眉を寄せる。
「……何がいいんだい? 今の状況、君には理解できない? もしかして、あいつを見捨てて逃げる気かい? それならいいんじゃないかな。もちろん、絶対に逃がすつもりはないけどね」
だが、そっちの方が面白そうだ。
いつも余裕の笑みを崩さないアンヘリタが、必死に許しを請いながら尻尾を巻いて逃げ出す姿を想像するだけで笑みがこぼれる。
「先に一対一という約束を破ったのはそっちの方じゃからな」
「は? 何を――――――」
意味の分からないことを呟くアンヘリタに問いただそうとしたニルスの口は、すぐに閉じられることになった。
いや、ポカンと開いているのだが、言葉が出ないのだ。
動けないはずの彼女の白い尾が、一本高速で動いた。
そして、それは壁となっていた傭兵の一人の身体を容易に貫き、そのままエリクの身体をも貫いたのである。
「がはっ……!?」
「なっ!? なっ、なっ……!?」
血反吐を吐きつつ良い笑顔を見せるエリクと、愕然とするニルス。
何故動ける? 一切の魔族の行動を封じる鎖だったはずなのに。
そして、何故自分のために戦ってくれていたはずの男をも貫いた?
事故か? それだったら、これほど愉快なことはないのだが……。
しかし、アンヘリタの澄ました無表情を見れば、わざとであることは明白であった。
「確かに、完全に自由になるのは丸一日かかるが……これくらいの動きであれば、今までの時間があればできるようになる」
アンヘリタはニルスの疑問に答えてやる。
そうしながら、白い尾をエリクと傭兵の身体から抜き取る。
エリクは良い笑顔を、傭兵は苦痛に満ち満ちた顔をしながら地面に倒れた。対照的である。
その尾の先には、肝が巻きつけられてあった。
もちろん、傭兵のそれではなく、エリクのものであった。
「それと、な。肝には、生き物の力がみっちりと籠められておるものなのじゃ。儂と相性の良い肝勇者のものであれば、なおさらじゃな」
「そ、それが何だよ……!?」
ニルスの切羽詰った表情を見て、ニヤッと冷たくほくそ笑むアンヘリタ。
彼女は彼の問いかけに答えず、シュルシュルと尾を戻して行く。
「あーん」
そして、口を目いっぱい大きく開けてエリクの赤々とした肝を一口に飲み込んだ。
ぐちぐちと味わうように噛みしめ、喉を鳴らして胃に送る。
「うっ……!」
ニルスやラドレたちはうっと喉を詰まらせる。
人の臓器を食べるなんて、人間からすれば考えられないことだからだ。
「うん、うん……」
エリクの甘美な肝の味を楽しみ、ふーっと息を吐くアンヘリタ。
味に満足したので、ようやくニルスの方を見て話しはじめる。
「まあ、何が言いたいかと言うとじゃな……」
アンヘリタはそう言って、ぶわっと一気に尾を膨らませた。
その肥大に鎖は耐えきることができず、パキン……と儚い音を立てて粉々に破壊され、地面に落ちてしまうのであった。
「あ……えっ……?」
何が起きたのか理解できず、ポカンと口を開けるニルス。
男がくれた最強の武器。これさえあれば、あの強力なアンヘリタもどうにかしてしまえる。
実際、先ほどまでは完全に封じることに成功していたのだ。
だが、そんなニルスの心の支えは、一日どころか数時間も彼女を封じることができずに破壊されるのであった。
「肝勇者の肝を喰って力を増した儂は、この鎖にずっと縛られることはないということじゃ」
そう言って、アンヘリタは汚れ一つない真っ白な尾をぐわっと動かした。
次の瞬間、ラドレとエリクを囲んでいた傭兵たちの首から上は、見事に消し飛ばされたのであった。
頭部を失った男たちは血を噴水のようにぴゅーっと噴き上げながら、地面に倒れ伏すのであった。
緑あふれる草木が、真っ赤な池へと変貌してしまう。
「お、お前ら……? な、何が……え……っ?」
ラドレは多くいた部下たちが全て一瞬のうちに命を落としたのを目前で見て、何が起きたのか理解できなかった。
エリクは倒れ伏していたから、攻撃されなかったのかもしれない。
だが、自分は部下たちと同じく立っていたし、首から上を吹き飛ばすのであれば自分の首も飛んでいても不思議ではないはずなのだ。
それなのに、何故……?
生きていられたことを喜ぶべきなのだろうが、どうしても嫌な予感がぬぐいきれなかった。
「まあ、お主の考えている通りじゃな」
血の池をピチャピチャと音を立てながら歩き、アンヘリタは冷酷に告げる。
「そやつをいたぶっておったのに、そう簡単に死ねると思うな」
彼女の無表情は、いつも以上に冷たく見えた。
ラドレはひっと悲鳴を上げ、背を向けて逃げ出そうとするが、白狐から逃げるにはあまりにも遅速であった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!?」
ラドレの悲鳴が響き渡る。
彼の両手両足、四肢全てが尾によって引きちぎられてしまったのだ。
身体を動かす脚を失ったことで、ラドレの胴体はドシャリと地面に落ちてしまう。
力任せに肉体の一部を引きちぎられたその苦痛は、いかほどのものだろうか?
屈強で経験も豊富な傭兵であるラドレが、恥も外聞も関係なく泣き叫んでいることから想像できるだろう。
エリクは地面に突っ伏しながら羨ましそうに彼を見ていた。
「痛い!! いてぇよ! 痛い!! あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!? ひっ、ひぃぃ……っ!!」
「まあ、四肢を全てもがれたらこんなものじゃろうな。似たような怪我をして正気を保っておった肝勇者がおかしいのじゃ」
うぞうぞと血の池の上でもだえ苦しむラドレを見て、アンヘリタは嘆息する。
「あぁぁぁぁぁ……っ! こ、殺してくれぇぇ……っ!!」
「む? いいのか? 今すぐに治療すれば、もしかしたら助かるやもしれんぞ?」
ただし、生き残ることができたとしても、この先四肢を全て失った状態で生きることになる。
ラドレに、その覚悟があるだろうか?
ミリヤムは四肢をくっつけることができるが、それは彼女が卓越した回復魔法を使えるからであって、彼女以外の者が回復魔法を使ったとしても四肢を元に戻すことはできないだろう。
ここで死ぬか、この先一生苦しんで生きるか。
アンヘリタからすれば、どちらでもよかった。
どちらも、想像するだけで非常に苦しそうだったからである。
「あぁぁぁぁ……! い、痛い! 痛いんだ!! こ、殺してくれぇぇ……っ!!」
ラドレにこの苦痛を耐える気概はなかった。
嬉々として受け続けることができるのは、エリクくらいだろう。
「そうか。なら死ぬといい」
アンヘリタは大した感慨を抱くことなく、彼の頭部を尾で消し飛ばした。
先に死んだ部下たちと同じように、ぴゅーっと噴水のように血を吐きながら倒れるラドレ。
激戦を潜り抜けたと誇示していた傭兵は、白狐の前にあっけなく命を散らすのであった。