第百三十話 頼れる部下
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
窓ガラスを割って宙に身体を浮かせるニルスは、涙と鼻水を撒き散らしながら絶叫していた。
彼の自室は二階にあったので、それほどの高さではない。
鍛えられた人ならこの高さから落ちてもすぐに行動できるだろうし、一般人でも体勢さえ良ければ重傷を負うこともないかもしれない。
だが、そんな高さでもニルスは絶叫していた。
今まで生きてきて命の危険なんて感じたこともないほど温かく育てられたのだ。
こんな高さから落ちるだけでも、落命の危機を感じるほどのビビりようだった。
腹を尾で殴られたので、背中から地面に落ち始めるニルス。
それほど高くはないが、背中から落ちれば大して身体も鍛えていない彼はそれなりに危険だっただろう。
「ぐぇっ!?」
だが、幸いにも彼の落ちた下には植木が植えられていた。
ニルスはこんな植物を見るよりも厭らしい姿をした女を見る方が好きだったので、前領主の時に比べて伸び放題になっていたそれは、功を奏してかなりダメージを抑えてくれるのであった。
それでも、蛙が踏み潰されるような悲鳴を上げるのだが。
「げほっ! げほっ! あっ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
草木がクッションになっても、それでもなお咳き込むニルス。
そして、また絶叫を発する。
「痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い!! ど、どうして僕がこんな目に……! 僕はカッレラ家の当主だぞ!? 貴族だぞ!? 領主だぞ!? こ、こんな血を出して地面に横たわることなんて……あってはならないはずなのにぃぃぃぃぃっ!!」
ニルスはそう言って大泣きしながら地べたを這いずる。
大げさに言っているが、彼の怪我の具合はそれほど重くはない。
いや、もちろん軽いというわけでもないのだが、しかし痛みを我慢して自分で病院に行ける程度には重くなかった。
だが、蝶よ花よと大切に育てられたニルスに、痛みへの耐性なんて微塵もなかった。
「お主、騒ぎすぎじゃろ」
「ひっ……!!」
そんなニルスの目前にふわりと降り立ったのは、アンヘリタであった。
彼女の姿を見て、小さく悲鳴を上げる。
完全に怯えきった様子のニルスを見て、アンヘリタはため息を吐く。
「その程度の傷で何を泣きわめいておる」
「し、仕方ないだろ! 君が想像している以上に、僕は痛いんだぞ!!」
「多少骨にひびが入ったくらいじゃろうが。男なら……などと言うつもりはないが、もう少し頼りがいがあっても良いと思うがのぉ。肝勇者は、お主の何十倍ものダメージと苦痛を受けても、それでも儂に立ち向かってきたぞ」
どうしてもエリクとニルスを比べてしまう。
エリクは、全身が血だらけになり、頭部を抉るほどの致命傷を受けてもなおアンヘリタに向かって進み続けた。
一方、ニルスはたった一撃……しかも、アンヘリタがエリクにしていた攻撃よりも随分と手加減したもので、すでに戦意喪失して恐怖に支配されていた。
圧倒的な力の差を見せつけられれば、人間だれしもこうなってしまうものであることは、彼女も理解している。
だが、エリクという異質な存在を知ってしまった今、どうしても情けなく見えて仕方なかった。
「む、無茶を言うなよ! こ、この化け物め……!!」
「その化け物に力を貸してもらっておいて、なんじゃその言いぐさは」
憮然とした雰囲気を醸し出すアンヘリタ。
別に、そんな罵声を聞いて今更傷つくようなピュアな心は持ち合わせていないが、気分が良くなるはずもない。
確かに、自分は脆弱な人間とは違い、長い時を生きてきて力を蓄えた白狐であることは事実だし。
「さて、儂が化け物ならば、人間はどうなるか理解しておるか?」
「ひっ……!!」
ゆらりと蠢く白い尾を見て、ニルスは悲鳴を上げる。
あのもふもふしていて柔らかそうな尾は、しかし自身を簡単に吹き飛ばせてしまうほどの力を持っていた。
またあれに殴られて身体を飛ばされてしまうのは、嫌だ。
あのような痛みは、二度と味わいたくない。
「や、止めてくれ! ど、どうしてこんなことをするんだ……!?」
そんなニルスの問いかけに、アンヘリタはポカンと口を開けた。
「いや、お主が何かをしでかそうとしたんじゃろうが。やられる前にやる。これ、結構重要じゃぞ?」
アンヘリタの言葉に、ビクッと身体を震わせるニルス。
ばれていたのか……。
「ま、待ってくれ! 君には情がないのかい!? 僕が生まれてからの、ずっと長い付き合いじゃないか!!」
自分は殺そうとしておいて何だが、しかしニルスは必死に同情を誘おうとする。
「先に牙をむいたのはそっちじゃろ? 何かしようとしてこなければ、儂だってお主を害することはなかったわ。まったく似ていないとはいえ、お主だってあの人の子孫なのじゃからな。じゃが、もうこうなってはお主の命を消し飛ばすことに、何の躊躇もない」
無論、そんな同情をアンヘリタが抱くことなんてなかった。
彼女からしてみれば、ニルスだって区別のつかない有象無象の人間と大して変わらない。
あの人の血を継いでいるということで、多少区別はつくが……しかし、その程度である。
その血だって長い時を経たことで随分と薄くなっているし、ニルスと比べるならエリクの方が彼自身の人間性に興味もあるのではっきりと区別できる。
そんな存在から同情をしてくれと言われても、無理な話だ。
「さらばじゃ、ニルス。まさか、儂がカッレラの血を断絶することになるとは、思ってもいなかったがの」
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
アンヘリタの背後に現れる複数の白い尾を見て、大きな悲鳴を上げるニルス。
彼の自信の根拠であったあの武器は、吹き飛ばされた時にあっさりと手放してしまっていた。
あれがなければ、化け物のアンヘリタに立ち向かえるはずもない。
顔をくしゃくしゃに崩して、様々な液体を吐き出すニルスは、彼女の尾に全身を引きちぎられて死ぬ……ということにはならなかった。
「むっ?」
アンヘリタの身体に鎖が巻き付き、彼女の動きを拘束したのである。
それは、毒々しい色をした鎖であった。
その鎖はアンヘリタの身体を絞め殺すほど強く巻きつき、彼女の豊満な肢体を強調するように引き絞った。
「え……? こ、これは……?」
「大丈夫っすか!? 領主様ぁっ!!」
困惑の声を発していたニルスに届いたのは、荒々しい男の声だった。
目を向ければ、鎖を持っている何人もの男たちがいた。
それは、ニルスが個人的に雇っていた護衛たちであった。
「あんたが言っていたすんごい武器、使わせてもらってるぜ!!」
「お、お前ら……!」
感動したように目を輝かせるニルス。
そういえば、男からもらった武器を彼らに誇らしげに見せていた気がする。
まったくもって情報の漏えいのことなんて考えていなかった愚かな行為だが、それが今回に限っては良い方に転がってくれた。
「……なんじゃ、この鎖は?」
アンヘリタは眉をピクリと動かす。
彼女にとって、鎖での拘束など大したことはない。簡単に引きちぎってしまえるだろう。
だが、おかしなことに、この薄気味悪い鎖はビクともしないほど頑丈だった。
「……いや、儂の力が弱まっているのか」
鎖に自身の力が吸い取られていくのを実感するアンヘリタ。
それでも、彼女の表情は焦りや怒りにはまったく変わらなかったが。
「さて、領主様よ。この女、俺たちの好きにさせてもらっていいよな?」
「すんげえ美人じゃねえか。魔族ってのが気持ち悪いが……まあ、こんないい女なら別だろ」
鎖で身動きが取れないアンヘリタに近づいてくる厳つい男たち。
その下卑た目線は、黒い着物に包まれていても鎖で強調される豊満な肢体に向けられていた。
「も、もちろんだ! 僕に刃向ったことを、後悔させてやれ!!」
一気に形勢逆転したニルスは、そう言ってアンヘリタをせせら笑う。
余裕の表情を見せていても、彼女の危機は変わらなかった。