第百二十二話 自己満足
「どういうこと、ですか……?」
ミリヤムは震える口で問いかける。
まるで、自身を人質にとるような言葉に、恐れを抱かないはずもなかった。
しかし、それでも言葉を発することができたのは、自分よりも震えているエリクが隣にいたからだ。
自分のことで、自分よりも怒ってくれている。
そのことに、嬉しさと頼もしさを覚えるのであった。
「(何故ミリヤムなのですか!? そういう人質的な役割は、私こそ適任でしょう!)」
なお、ドMは見当違いな怒りを抱いていた模様。
アンヘリタはそんな二人を興味深そうに見ながら、口を開く。
「いやな? ニルスの奴がお主を欲しがっておっての」
「――――――ッ!!」
ニルスが自分を欲しがる?
よく理解できないが、分かったこともある。
「カッレラ領で頻発していた神隠しっていうのは……」
「ああ。それも儂がニルスに請われてしたことじゃ」
何でもないように言うアンヘリタを見て、ミリヤムは歯の奥を強く食いしばる。
ニルスが『救国の手』と関係を持っているかどうかは分からない。
だが、お世辞にも民のことを思いやるような貴族ではないことは明らかであった。
「その女性たちは……」
「ああ、殺してはおらんようじゃな。世の中には女の身体を弄んで捨てたり壊したりするような輩もおるようじゃが……ニルスの奴に、そこまでの度胸はないわ」
じゃが……とアンヘリタは言葉を続ける。
「無論、無事というわけではないがの」
薬によって自我を奪われ、その身体を自由に弄ばれる。
確かに死ぬことはない。だが、それは人によっては死よりも辛いことなのである。
「どうして、そんなことを……!!」
「ふむ、そうじゃな。誤解なきよう言っておくが、別に儂がニルスに尽くしたいからしているわけでもないし、脅されてしているわけでもない。ただ、あの人の血が奴には入っているからの。理由はそれだけじゃ」
「あの人……?」
どこか遠い目をするアンヘリタを訝しげに見るミリヤム。
彼女が言っていることはさっぱりわからない。その『あの人』というのが、誰を指しているのかも知らない。
だが、そんなことで人を家族や親しい人から引き離して良い理由になるはずもない。
「……そして、今度は私ですか」
「おお、そうじゃ。何だか知らぬが、お主は随分気に入られたようじゃの。女として男にそれだけ求められるのは嬉しかろ?」
「いえ、まったく」
即答するミリヤム。
そりゃあ、エリクに求められたら頬を染めて嬉しがるかもしれないが、ニルスなんかに気に入られても寒気がするだけである。
片や自身を犠牲にしても他者を助けようとする心優しい男、片や自分の歩く邪魔になったからと子供を大人げなく蹴り飛ばそうとする男。
さて、女性に限らず人はどちらに引き付けられるものだろうか?
もしかしたら後者という者もいるかもしれないが、残念ながらミリヤムは前者であった。
「お主は嫌そうじゃが……しかしのぉ。儂はお主を奴の元に連れて行かねばならん。これには、お主の意思は尊重できんのじゃ」
「うっ……」
アンヘリタの臀部から生えている尾が、ゆらゆらと揺れる。
その圧力に、一歩後ずさりをしてしまうミリヤムであったが、彼女の眼前に現れた背中を見て表情を緩める。
「エリク……!」
「ほぉ……邪魔をするか、肝よ」
「ええ。ミリヤムを失うわけにはいきませんから」
ミリヤムの視線とアンヘリタの視線を受けるエリクは、どうして自分を神隠ししてくれないんだという怒りを抱きつつも剣を抜こうとして……。
「遅いわ」
アンヘリタの目にもとまらぬ速さの尾によって、身体を貫かれたのであった。
「がはっ!!」
口から大量の血を吐き出すエリク。
どことなく表情が満足そうである。
しかし、背後にいたミリヤムにそんな表情を悟れるはずもない。
エリクの身体を貫いた尾が、ミリヤムのすぐ横にある。
貫かれた場所から飛び散った血が、彼女の頬にも付着してしまった。
「エリク……!!」
尾を引き抜かれて地面に倒れ伏すエリクの元に駆けよるミリヤム。
すぐに回復魔法をかけ始める。
それを見ながら、アンヘリタは追撃をかけるようなことはしなかった。
これは、強者特有の余裕。油断とも言えるかもしれない。だが、少なくとも今この瞬間、エリクがアンヘリタを倒す手段は持ち合わせていなかった。
アンヘリタは抜き取ったエリクの肝を、一口で飲み込む。
「うむ、美味い」
唇に付いた血をペロリと舐め、無感情な目で二人を見下ろす。
「儂と戦って勝とうなどと無謀なことは企むなよ? そもそも、年季が違うのじゃ。白狐は歳をとればとるほど力を増していく。せいぜい二十年程度しか生きていないお主らに、負ける道理はないんじゃよ」
エリクはもしかしたら見えていたかもしれないが、少なくとも非戦闘員であるミリヤムはまったく尾が見えなかった。
仮に彼が見えていたのだとしても、反応できないほどの速度である。勝ち目はない。
「ほれ、回復。お主はこっちに来い。儂と一緒にニルスの元に向かおうぞ。そうすれば、肝のことは見逃してやる」
アンヘリタの誘いに、ミリヤムは回復魔法を行使しつつも悩む。
エリクに勝ち目はない。しかし、自分のためにそれでも戦ってくれるだろう。
文字通り、その身体がボロボロになるまで。
「なるほど、肝は確かに死なんのかもしれん。じゃが、苦痛は感じる。つまり、精神――――魂は消耗し続けるのじゃ。そんなことを繰り返していれば、肉体の寿命よりも魂の寿命が先に尽きてしまうぞ。お主は肝にそのようなことをさせるのか?」
そんなこと、嫌に決まっている!
ミリヤムは喉まで出かかった怒声を、何とか飲み込んだ。
自分のために、心身ともに擦り減っていく想い人を見たいと、誰が思うだろうか?
確かに、アンヘリタの言う通り、この場は自身が彼女について行けばエリクは傷つかずに済むかもしれない。
だが……。
「(エリクは絶対に助けに来てしまう……)」
ここでアンヘリタと共にニルスの元に行ったとして、エリクはすごすごと諦めてカッレラ領を離れるだろうか?
彼のパートナーとして長く一緒にいたミリヤムは、そんなことは決してないと分かっている。
エリクは優しい男だ。自身がボロボロになっても他者を助けようとする。
そんな彼が、ミリヤムが連れ去らわれて大人しく引き下がるなんてことはありえない。
「そう、です。ダメですよ、ミリヤム……」
「エリク!」
エリクはゆっくりと立ち上がった。
すでに、ミリヤムの回復魔法のおかげで、傷口と抜き取られた臓器は回復している。
その回復過程での苦痛のため、彼の顔は青白くなりつつツヤツヤしていた。
「自身が傷ついて他人を助けるなんて自己満足です」
「あなたが言うの、それ」
ジトーとした目をエリクに向けるミリヤム。
彼はふっと笑みを見せた。
「たとえ、どこにあなたが行っても必ず助けに行きます。私は、そういう男ですよ」
「は、恥ずかしくなること言わないで……」
頬を染めてそっぽを向くミリヤム。
嬉しく思っていることが丸わかりである。
そんな可愛らしい反応に、エリクもほんわかとしていたが……。
「ふーん……」
つまらなさそうにしていたのがアンヘリタである。
彼女は彼らのやり取りを見ていても、一切表情を変えることはなかった。
「男らしいことを言うの、肝。女のために、絶対に勝てないであろう敵に立ち向かう、か。ふむふむ、いいぞ。格好いいではないか」
エリクを褒め称えるようなことを言うアンヘリタ。
だが、聞いていたエリクとミリヤムは、まったく好意的な感情がこもっていないことを悟っていた。
「じゃが、そんなものは虚言じゃ」
尾が一気に膨れ上がったような気がした。
普段は一つしか動かさないのだが、今は全ての尾が蠢いているのである。
その数、実に九本。
「耐えきれなくなれば……いや、とくに理由がなくとも、自分の利益になるのであれば簡単に裏切る。人間なんて、そんなものじゃろ?」
ぞわぞわと威圧感が増していくアンヘリタを見て、エリクは剣を抜きミリヤムから離れる。
彼女の近くにいれば、アンヘリタの攻撃範囲に彼女が入ってしまうかもしれない。
そんな気遣いも、アンヘリタからすれば不快だった。
「その他者を思いやる気持ち、どこまで続くか試してやろう」
アンヘリタの尾が、一斉にエリクに襲い掛かったのであった。