第百十七話 退屈
アンへリタ・ルシアが街に降りてきたのは、ほんのちょっとした気まぐれだった。
普段、彼女は人間の街にいることはほとんどない。
アンへリタは人間ではなく、また獣耳や尻尾という外見的にわかりやすい異質な存在であるので、面倒を避けるために普段は人の寄りつかない森の奥深くに住んでいる。
では、何故今日に限って街に降りてきたのか。
「……退屈じゃのぉ」
アンへリタの独り言に、その理由が込められていた。
そう、退屈で仕方ないのだ。
近頃はカッレラ家にもあの人と同じような存在もおらず、無駄に長い生を無為に過ごす日々。
人を殺すのは退屈だと言われることもあるらしいが、まさにアンへリタはその通りだと納得していた。
ニルスに力を貸しているのも、あの人の子孫ということももちろんあるが、やはり退屈しのぎの方が大きくなっているかもしれない。
彼があの人と同じように自分を惹きつけてやまないような存在だったのであれば……こんな退屈を感じることもなく、まるで思春期の少女のように恋して楽しい日々を送れていたかもしれない。
「じゃが、あいつも俗物じゃし……」
ああいう男に、恋することはまったくもってありえない。そもそも、人としての魅力がなかった。
本当にあの人の子孫なのかと疑ってしまうほどである。
「まあ、時は随分経ているし、血も薄くなっておるからの」
ふぅっとため息を吐くアンへリタ。
顔は無表情のままだが、雰囲気はどんよりと沈んでいた。
やはり、あの人が逝くときに自分も生を終わらせていた方がよかっただろうか?
そうしていれば、今もあの世であの人と幸せに過ごすことができていただろうか?
「……ま、無理じゃろな。儂、拒絶されたし」
あの人の困ったような笑顔を思い出す。
自分が心から想った相手に、そのような顔をさせたいなんて思うはずもない。
だから、この世に残ってあの人の子孫を見守っていこうとしたことは間違っていない……はずなのだが……。
「結果的に退屈になったがなぁ……」
はぁっとため息を吐くアンへリタ。
わざわざ獣の耳と尻尾を力で人に見えないようにして街を歩くというのは、なかなかに面倒だ。
昔の自分なら、そんなことはしなかっただろうし、もし街に出なければならないことがあったとしても耳や尻尾を隠すことはなかっただろう。
それで騒ぎになって二度と街に入れなくなったとしても、それはそれで面白い。
だが、ここはカッレラ領の街だ。出禁になるのは、カッレラ家を支えなければならない自分に不都合だ。
今は、この家を支えることだけが退屈しのぎになるのだ。
この生きがいも奪われてしまえば、本当に退屈で死んでしまうかもしれない。
それではいけないと、アンへリタは退屈しのぎになるものを探しに街にやってきたのだが……。
「おー、美人な姉ちゃんがいるじゃねえか」
「むっ?」
アンへリタの前に立ちふさがる男たち。
皆ガラが悪く、いかにもな風体であった。
「俺たちが居づらいクソ領主が死んで動きやすくなったけど、美人もどんどん消えていくしな」
「神隠しだっけか? 本当、迷惑な話だぜ。良い女ばかり狙いやがってよ」
「その点、あんたみてえな美人が残っていてくれて助かるぜ」
自身を囲むようにしながら話す男たち。
女性なら恐怖を覚えるような光景だが、アンへリタはもちろん微塵も恐れたりしていない。
「(神隠しにしているの、儂と現領主って知ればどんな反応を見せてくれるかの?)」
少し面白そうだが……しかし、やはり退屈しのぎにはならないだろう。あまりにも刹那的すぎる。
「俺たちと遊ぼうぜ、姉ちゃん。退屈はさせねえからよ」
退屈。その言葉を聞いて、彼らには見えない獣耳をピクリと反応させるアンへリタ。
彼らの顔を、一人一人ジロジロと見ていく。
不快に思うかもしれない行為であったが、アンへリタが美女であることから男たちも悪い気はしなかった。
白髪に肌も雪のように白い。
そして、それに反比例するかのように真っ黒な着物。
幻想的というか儚げというか……何とも男をそそる何かがあった。
こんな女を好き勝手することができれば、どれほどの快楽だろうか?
男たちは楽しみで仕方なかった。
しかし……。
「はぁ……」
アンへリタの口から吐かれたのは、またしても大きなため息であった。
「つまらんな。お主らみたいな男など、儂が相手するものか」
あまりにも辛辣な言葉に、一瞬男たちは何を言われたかわからなかった。
しかし、すぐに理解するとみるみるうちに顔を赤く染めて怒りを露わにした。
「な、何だと!? テメエ、誰にものを言ってやがる!!」
「あー、喧しいのぉ。そういうところも、つまらんと言うておる。弱者は声だけは一丁前に大きいからな。まったく……煩わしい」
彼らには見えていない獣耳を両手で塞いで、小さく眉を寄せるアンへリタ。
それでも、ほとんど表情は変わらなかったが。
しかし、こんな男たちにモーションをかけられても胸はまったく高鳴らなかった。
あの人という理想が高すぎるせいかもしれないが、女を複数で囲んで言うことを聞かそうとするつまらない男たちに、アンへリタはどうしてもなびくことはできなかった。
いくら退屈だといっても、その暇つぶしにこんな男たちを相手にするのは嫌だった。
「ちっ! こっちに来い! 身の程をわからせてやるよ!!」
「おぉっ」
アンへリタは男に腕を掴まれて無理やり路地裏に引っ張りこまれることに抵抗しなかった。
そろそろ煩わしく思っていたところだ。処分をしなければならないが、流石に人の目がある所でするのはいけないことだということは分かっていた。
このような人間たちの常識は、ちゃんと昔にあの人に教えてもらっていたことだから。
「へへっ。神隠しが始まってから、こんな上玉とできるなんて初めてだぜ」
「楽しませてもらうぜ、姉ちゃん。俺たちに生意気な口をきいたこと、後悔しろよ」
「早く順番回せよ!!」
狭い路地裏に連れ込んだ男たちは、すでに何かを想像しているのか、だらしない笑みを浮かべて勝利を確信していた。
下卑た欲望をアンへリタの肢体に叩き付けようというのだろう。
なるほど、確かにこれだけの厳つい男たちがいれば、大抵の女はどうすることもできないだろう。
助けを呼ぼうにも、ニルスの代になってから悪化した治安のせいで、警邏たちは助けてくれないかもしれない。
そもそも、目撃者であるはずの一般市民たちも、見て見ぬふりをするだろう。
アンへリタが連れ込まれていた場面を多くの領民たちが見ていたはずだが、誰も助けに来る様子はなかった。
「(ま、それもそうじゃろうな。関わらなければ、自身が傷つくことはない。悪いことではない。賢い選択じゃろう)」
だが、つまらない。
こういう時に助けに来てくれるものがいたら……あの人みたいに自身に手を差し伸べてくれるような存在がいれば、こんな退屈を少しは紛らわせることができるかもしれないのに。
まあ、大して期待もしていなかったし、落胆することはなかったが。
「じゃが、もうここにいる必要はなくなったの。さっさと片して、森に戻るか」
「あーん? おうちに帰りたいー? ダメダメ! ちゃんと俺たちの相手をしてくれないとさー!!」
男はゲラゲラと嘲笑しながらアンへリタに顔を近づける。
そんな彼を見て、仲間たちも大笑いする。
とくに自分たちを鍛えるようなこともしてこなかった彼らは、アンへリタの無表情がさらに冷たいものになっていたことに、まったく気づかないのであった。
「そうじゃな。さっさと相手をして、儂は帰らせてもらおう」
「おっ! 物わかりがいいじゃねえか。それじゃあ、早速……」
ニヤニヤと笑ってアンへリタに手を伸ばしていた男の言葉が止まった。
それは、彼女の背後からいくつもの白い物体が現れたからである。
「…………尻尾?」
ゆらゆらと蠢く柔らかそうな毛を生やしたそれは、獣……狐に生えているような尻尾であった。
しかし、一本ではなく何本も存在していることから、やはりおかしい。
男が呆然としていた時であった。
「うわっ!?」
ぶおっと凄まじい風圧が彼に襲い掛かったのである。
思わず顔を覆って目を閉じてしまう。
そんな彼は外の情報を視界から取り入れることができなかったのだが、代わりに聴覚からゴリゴリ、ブチブチという凄まじくえげつない音が聞こえてきた。
何が起きているのか確認したいが、どうしても風圧が凄くて目を開けることができなかった。
「な、何だったんだ……?」
ようやくそれが止んで目を開ける男。
目の前には、相変わらず幻想的な女が立っていた。
何だ、何も起きていなかったじゃないか。
そう思って男が静かになっていた仲間たちの元に振り返ると……。
「――――――ぇ?」
普段ではありえないような小さな声しか出なかった。
そこには、仲間たちの姿はなかった。
文字通り、彼らがここにいたと証明するものが何もなかった。
あるのは、壁や地面に大量に付着した血と、何かの物体としか言いようのないものが転がっていた。
白や赤という色彩で、路地裏はおぞましく染められていた。
「な、なん……なんだよ、これ……」
「儂の尻尾で薙いでやっただけよ。やはり、人間は脆弱よな。……いや、人間とひとくくりにするのは間違いじゃな。反省反省」
男はおそるおそるといった様子でアンへリタを見る。
無表情で自分を見る女。
美しい女に見られているはずなのに、喜びはまったく感じられずに恐怖だけがあった。
それもそうだろう。この女は、あの一瞬であれだけいた仲間を全て殺したというのだから。
「ほれほれ。儂みたいな化け物を倒すために戦ってみんか。男じゃろうが」
しゅるしゅると尻尾を自身の身体に抱き着かせ、また自分も腕を回して白い尻尾を抱きしめる。
美しい毛並みには、所々赤黒い血が付いていた。
そのことから、仲間を殺したのは本当に彼女なのだと理解してしまう。
アンへリタはどこか楽しそうに戦いを求めるよう、挑発的な雰囲気を醸し出している。
普段は格下と思い込んでいた女にされれば、当然激昂して襲い掛かる男。
だが……。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
男が選んだのは、逃走だった。
アンへリタから背を向けて、地面に付着していた粘り気のある血や人間の身体の一部に脚をとられながらも、必死に逃げようとする。
彼女から一歩でも遠く、一刻でも早く離れるために。
「……つまらん。男なら、強者に立ち向かう気概くらい見せぬか」
一瞬ぼーっとしていたアンへリタであったが、無表情ながら少量の怒りをにじませる。
そして、少し離れた場所を走っていた男の頭部を、尻尾で薙いで吹き飛ばした。
命拾いするために必死に脚を動かしていた男の努力は、あっけなく泡になるのであった。
「わざわざ街に来た意味もなかったの。……帰るか」
アンへリタはつまらなさそうに血と肉を見ると、クルリと振り返る。
すると、そこにはまだ男が一人残っていたではないか。
先ほどまでの男たちと違い、優男という印象がある。
そんな彼は、整った顔を驚きでいっぱいにしていた。
「何じゃ。まだ生き残りがおったのか」
煩わしそうに息を吐くアンへリタ。
今は少々気が立っている。そのため、彼が男の仲間としてここにいなかったことに気づけなかった。
「うん?……お主、美味そうな匂いがするのぉ」
さっさと殺そうと尻尾を振るおうとしたところ、男から良い匂いがしてきた。
これは、なかなかうまそうな匂いだ。
先ほどまでの男は腐ったような臭いで、とてもじゃないが喰う気にはならなかったが……この男のものは欲しい。
「よし、決めたぞ。たまには良いものを喰わんとな」
アンへリタはそう言うと、一瞬で尻尾を動かして男――――エリクの肝を抜き取るのであった。