プロローグ 世界の希望
【魔獣と滅びゆく世界の戦記】
序章 不毛な世界でただ一人、光輝なる墓標を打ち立てる
プロローグ 世界の希望
「あんた。足手まといだから、ここで帰ってくれる?」
言った少女は空色の長髪を風に流されるがままにさせ、紫紺の瞳でじっと少年を見つめた。少女の纏う青銀の軽装甲は無数の傷や泥にまみれており、トレードマークである芥子色をした袖無しの外套も所々が破れて解れていた。見つめられた方、黒髪をした長身の少年は、こちらも満身創痍といった体であったが、剣を握る手に力を込め、黒装束に包まれた全身から気合十分の星力を発して抗議の意を示した。
「何を言ってる?神獣はあと三匹だ。おれの力不足は理解しているが、お前たちの弾除けくらいには働いてみせる。決して迷惑は掛けないし、死んでも気にしないでくれていい」
「それが迷惑だってのよ。残るは<黄昏宮>、<絶望宮>、<強宮>の不沈三獣なの。あんた程度じゃ盾すら務まるわけがないし、むざむざ死なれたらどうやっても気になるに決まってる。言っとくけど、これはみんなの総意だから」
空色の髪の少女はそう言って不意に腰の剣を抜くと、少年を拒絶する意思を表すかのように真っ直ぐ剣先を突きつけた。その威嚇に対してというより、少女が見せた厳しい表情にこそ少年は胸を打たれた。
「でも・・・・・・」
「ここだけは引かないから。帰れ」
少女の有無を言わさぬ圧力に抗することができず、少年は助けを求めるようにして周囲の仲間たちを見回した。伝説の剣豪に無敵を謳われた星術士。暗殺者上がりの傭兵に不死の神官。仮面の竜騎士。エルフ族の姫。ドワーフ族の王。妖精族の始祖女王。歴戦の闘士である皆が言葉無く少年の視線を跳ね返したことで、少女の言う総意というものが少年にも理解できた。
足下はごつごつとした岩場で、左手には切り出した崖が聳えている。谷間であっても川の水は全て涸れ果てていて、植物はおろか小動物や虫の類も見当たらない。霧でも出ているのか空には靄がかかり、まさに見渡す限り一面が灰色へと染め上げられていた。
<不毛の谷>の名に相応しい大地。そこに少年と仲間たちは足を踏み入れていた。
少年は自分がこの場に集う面子の中で最弱であると自覚していたし、それどころか道中で果てた偉人賢人たちにすら及ばないことを常々悔しく思っていた。皆におんぶにだっこでここまで到達できただけのことであり、だからこそ少年は最後の戦いでその借りを返すことを至上の命題と置いていた。それこそ、自分の命などいつでも投げ出す覚悟はできていた。
そういった全ての決意を、空色の髪の少女は面前で否定したのである。
「自分で回れ右をするつもりがないのなら、この剣で打って気絶させてあげる。どちらか好きな方を選びなさい」
眉根を寄せて凄む少女の顔はそれでも美しく、少年は場違いとわかっていながら、澄み切った大きな瞳や長い睫毛、整った鼻梁や桜色の柔らかそうな唇を食い入るように眺めた。都合十年観察してきた少女の姿を、今一度黒瞳の奥に焼き付けた。自分がたいそう悲壮な顔をしているのだと承知していても、表情をうまく操ることはできそうになかった。
少年と少女の間で張り詰めていた空気を嫌ってか、仮面の竜騎士がくぐもった声で「安心しろ。間違いなく平和は持ち帰る」とだけ口にした。普段無口な男にそう言われ、逆に不安を掻き立てられるものもあったが、少年はこの段に至って抗弁する愚を悟っていた。空色の少女はこの討伐部隊のリーダーであり、世界最強の闘士でもある。彼女が主張して自分以外の皆が受け入れたのだから、それが部隊の決定であることは明白で、意気消沈した少年はすごすごと星力を収めた。
「みんな・・・・・・せめて無事で、帰って来てくれ」
少年は心の底から絞り出すような声でそれだけを言った。それに対して、仲間たちは各々が好き勝手に応答した。剣豪は「お前の取り柄は戦場料理だけなんだから、煮込み鍋でも作って待っていろ」と手を上げて、無精髭だらけの口の端を歪めて見せた。「路傍の石ころ如きに心配されるいわれはありませんが、誠意は受け取っておきましょう」というのは妖精族の始祖女王の弁で、挨拶代わりか背より生えし透明な羽がぱたぱたと揺れ動いた。暗殺者上がりの傭兵は左目を瞑って返し、無敵の星術士は「また」という短い一言を残して少年に背を向けた。
空色の髪の少女は袖無しの外套を脱ぐと、ずいと少年に突き出した。受け取れという仕草に見えたので、少年はそれを手に取った。ぼろぼろではあったが、それは彼女が闘士として旅立つ頃から身に付けていた証左であり、少年の記憶する限りでは買い換えられた形跡はなかった。
「約束。それ、洗って綺麗にしておいて。あとで取りに行くから」
「・・・・・・わかった。陛下のお側で待ってるよ」
「くんかくんかとかしたら、殺すから」
「・・・・・・外套に、それはない。流石にない。というより、そんなのわかるわけないだろ」
「あたしにできないことはないのよ。努々疑わないことね」
そう言葉を交わして、少女と少年は一時の別れを迎えた。少年は、少女と仲間たちの遠ざかる背が視界から消え失せるまで、その場に止まり続けた。灰色の世界は命在るものを常に消耗させる瘴気に満ちており、元より限界間近であった少年は、地面に片膝をついてどうにか体を支えた。そして、一人静かに嗚咽を漏らした。
後日、少年は自身の決断を死ぬほど後悔する羽目になる。世界の命運を背負った神獣討伐部隊は敗北し、少女は帰らぬ人となった。
やがて神獣の報復が世界を席巻した。
国家が四つ、亡んだ。