異変云々・苺と金の玉
茹だるような暑さは、山の深みへと進むにつれて、ますます深刻なものになりつつあった。
吹き出る汗を拭うのすらとうとう億劫になり、少年は前だけを見る。木陰で休みたい誘惑に駆られるが、この炎天下で果たしてどれ程の涼が取れるかは、甚だ疑問だった。
「……つまり簡単に言えば、この暑いの全部が、あの猿達の仕業って事でOKです?」
「まぁ、概ねそうだ」
「雑すぎ。根拠は?」
ふらつきながら歩く少年、瑠雨、天狗。道中長々と異変について語られたが、結局話を纏めるとそんな形に落ち着いた。落ち着いたのだが、その流れが少年はともかく、瑠雨にはどうも疑わしいらしかった。
「蛙女。まず聞くが、ここいらの気候……この時期はどんなだと記憶している?」
「……冬は寒い。夏も暑いけど、ここまでじゃない。朝は年中寒い」
瑠雨の言葉に、天狗は然りと頷いた。
「そう。その通り。ここまで暑いのが、この辺では異常なのだ。」
「でも……ニュースで言ってたよ。今年は特に暑く、ダムの水がカラカラになりかけてるって。それだけ暑いなら、田舎とはいえここだって」
「陰陽師。君が言うのは恐らく、都……。君が住んでいる都心での話だろう。切り開かれた都市と山は違う。天気は確かに変わりやすいが、よほどのことがない限り異常な気候は到来しないのだ」
つまり、妖怪が干からびるようなこの暑さになっている今こそが異変の証である。そう言いたいのだろうか。
少年は考え込み、そのまま周りを見渡す。確かに空気は乾ききり、地面にも潤いはない。道中で小さなせせらぎがあったらしい場所にも、水の一滴も流れてはいなかった。
「干からびた山。いや、村……か」
少年の独白は、山の風に流されていく。肩に巻き付いた管狐が時折鼻をひくつかせる意外は何も変化はない。猿は山の山頂付近にいるという。この分だと、たどり着くのはあとどれくらいか。
「……っ、水? 僅かだけど、水の匂いがする!」
「なにぃ!?」
そんな時、驚き叫ぶ天狗をはね飛ばし、瑠雨が喜びに満ちた声を上げる。さっきまでの重い足取りはどこへやったのか、ピョンピョンと跳ねながら、彼女は少年の腕を取った。
「涼める! 涼めるよタッくん! 一緒に川遊びしようよ!」
「い、いや瑠雨? 今そんな場合じゃ……」
「いくぞ少年。水はどこもかしこも干からびたと思っていたが、あるならば貴重だ! ちょっと涼むくらいバチは当たらん」
「それでいいの!?」
異変の解決を……と、言おうとするも、少年もまた、少しだけ心が惹かれていた。
水筒のお茶はとうの昔に飲み干している。さすがに何処かで休憩を取らねば、途中でへこたれてしまいそうだ。特に〝これから相手取る怪異を思えば〟尚更だ。濡らしたタオルくらいは作っておきたいものだ。後は……。
「ねぇ、天狗さん。後から瑠雨にも。ちょっと聞きたいのがいくつかあるんだけど」
「む、何かな?」
「やめろセクハラ天狗。……あ、ごめんタッくん。なぁに?」
然り気無く少年の手を取ろうとした天狗の手を謀らずも瑠雨と同時にピシャリと弾き、少年は天狗を見上げる。値踏みするような目と少年の視線が重なる。その横で、何故か瑠雨は危機感を覚えたような顔で天狗を見ながら、尚更少年の手を握り締める。
「天狗さんは、この山に住んでるの? ここから……この里から出た事は?」
「……無いな」
心配性だなぁなんて思いつつ、瑠雨の手を軽く握り返す。
もっとも、少年は瑠雨とは違う意味で、この天狗を見てはいたのだが。
「次の質問。天狗さん。この山に〝神様〟はどれくらいいる? 認識されているもの。されていないものも含めて」
少年のその質問に、天狗は目をスッと細めた。
「認識されていない神なんているのか?」
「いるよ。日本には八百万の神様がいる。強いの弱い。悪いの良いのがいっぱいね」
立場や強さは、常々変化するけど。そう付け加えながら、少年は天狗に答えを促す。天狗は暫く考えた後、慎重に言葉を選ぶように語りはじめた。
「人によっては、天狗を山の神と捉える者もいるが、それは微妙に間違いだ。俺達は、山の神の威を借る神様に近い妖怪に過ぎん。エリート警察のようなものだ」
「凄い俗っぽい喩えだね」
エリート警察? と、首を傾げる瑠雨に天狗は曖昧な苦笑いをしながら、天狗は話を続ける。
「神様は、確かにいる。山の神が、ここには一柱な。強大な神だ。認識されていない小さな神は……俺は知らん」
「厠神はいたりしないよね?」
「……厠? いや、いないな。そもそも山だぞ少年。いるなら里側だろう」
「だろうね。ありがとう」
お礼を述べた少年は、次に瑠雨の方を見る。
「瑠雨は? どんな些細な事でもいい。この辺の神様について」
「あー、ごめんね。……ボク、普段は山より、里側に寄ってるから……この山についてはあまりね。でも、里には稲荷神とか、田の神に水神とか。いっぱいいるよ?」
「厠神は?」
「えっと、ごめん。わかんないや。妖怪って、基本的に自分の領域を守るから……浅くは知っても、深くまではわからないの」
申し訳なさそうにしゅんとなる瑠雨に、少年は気にしないで。と、頷いて、再び思案に入る。
「天狗さん、山にトイレは?」
「……少年、山だぞ? 催したならその辺でしたまえ。それともついていこうか?」
「タッくん、この変態はボクが鯖で抑えるから、安心して」
天狗の言動に厳しい顔になる瑠雨。だが、天狗も流石に変態呼ばわりには慣れたのか、鼻を鳴らしながら己の顎を撫でる。
「大蛇辺りつれてこようか? 蛙女」
「……天狗さん。鯖缶まだありますけど」
「すいませんでした」
大蛇という単語にビクリとなった瑠雨を庇うように少年が天狗を睨めば、天狗はすごすごと退散する。分かりやすい手のひら返しだった。瑠雨を見上げれば、少しだけ顔を赤らめて「また助けられちゃったね」と舌を出した。
「話を戻します。その神様は、山で起きている異変について動いてないの?」
「あれはまた、結構大雑把な女でな。この程度では動かんだろう。最後に動いたのは確か……十年ほど前だ」
「……十年」
何か引っかかるものを少年が感じていると、瑠雨がハッとしたように指を鳴らした。
「ああ、知ってる! 山の神が、神隠しを起こしたって。赤い狐と緑の狸も何十年ぶりかに動いて、当時山が物理的に揺れたって」
「……そう、だな。ああ、まさにそれだ。余波で色々災害が起きたんだ。よく……覚えている」
懐かしむように空を仰ぐ天狗の横顔は、何故か寂しげだった。
それについて聞くべきか否か。少年が迷っていると、不意に天狗はこちらを見る。表情を隠すように笑う様は、聞くな。と、明確に語っていた。
「ところで、少年。厠に行きたいなら今のうちだ。猿共を見つけたらそうはいかんぞ?」
「え? ああ、いいえ。トイレに行きたい訳じゃないんです。猿達を何とかするのに、あるならば便利かなって」
「……は?」
意味がわからない。そんな顔をする天狗。その反応が自然だよね。と少年が思っていると、すぐ横で瑠雨が息を飲む気配がした。
「もしかして……タッくん?」
「うん。多分だけど、異変の原因は想像ついた」
財布を取りだし、少年はそこから御札を引っ張り出す。多種多様の御札は、祖母が「上手に使いなさい」と、授けてくれたものだった。
「あの猿の正体は……」
※
芦屋いちごは、思案を繰り返していた。幼馴染みの祖母が話した内容。彼に頼まれた御使い。これらを繋ぎ合わせ、瞬時に判断を下す。敵は誰か。味方はいるか。こういう時、いちごは必ず、己の直感を信じることにしている。その結果……。いちごはその場から数歩飛び退く事を選んだ。
「……ビンゴね。こんちくしょう」
悪態をつきながら、いちごは己の判断が間違っていない事を悟った。ついさっき自分がいた場所に、黄金色のフサフサしたものが突き刺さっていたのだ。
「おうおう。娘っ子。しばらく会わんうちに、また腕を上げたの」
のそのそと、突き当たりから獣が顔を出す。天井に届かんばかりの大きさのそれは、狐の姿をしていた。
勿論それは、ただの野狐ではない。
白面金毛九尾の狐。紛れもない妖怪であり、そのなかでも知名度。単純な力や格全てが上位に食い込む怪物である。
「……どうも。タマさん。ご無沙汰してます」
目を細めながらいちごが軽く会釈すれば、タマは裂けた口を歪ませながらカッカと笑みを浮かべる。長い舌で口吻をなぞる姿は、獲物を見つけた肉食獣のそれだった。
「半年ぶりかの。妾とキンが来ると、主は決まって姿を眩ますからの」
「……本気で言ってます? それ」
「勿論冗談じゃ。知っとるぞ。知っとるぞ? タクの奴を妾らが鍛えてる時、主は必ず物陰から見ておった」
青春青春と、嘲るタマを、いちごは汚い野良犬でも見るかのように睨み付けた。
「娘っ子。主には才能がある。だから妾らも鍛えんとしたのにの。あっさり断りおって」
「たーくんには悪いけど、全うには見えませんでしたから。貴女も……キンさんも」
「あらあらいちごちゃん。タマは分かるけど、あたしまで変なの扱いは酷いねぇ」
ギシリと床板を鳴らし、タマの下に人影が現れる。幼馴染みの祖母、キンだった。
上品な草色の着物を身に纏い、柔和な笑みを浮かべている。が、その眼は全くもって笑っていなかった。
「……たーくんは今、何をやらされているんですか?」
「いちごちゃん。気にしないの。これはウチの問題よ?」
「たーくんは私の……トモ、ダチです。だから生け贄とか言われて黙ってられる訳ありません」
胸に秘めた淡い想いを押し留めながら、いちごは凛とした面持ちでキンとタマを交互に見る。その上で、もう一度問うた。
「答えてください。たーくんに何をさせるつもりなんですか? もしかして、おじさんやおばさんもグルですか?」
背後に感じる視線。そこへも向けた問いに、答えるものはいなかった。ただ、恐怖と。あるいは他にもあらゆるものがない混ぜになったかのような息を飲む気配だけ、いちごは背中越しに感じていた。
そして……。
「二度は言わないよ。これはうちの悲願なんだよ。せっかくタクは〝タクマ〟と同じに視えて。タクマ程の才はないにせよ、力の使い方もそこそこなんだ。あの子の存在意義を考えれば、ここに連れてきたのは遅すぎた位さね。いわば運命。だからいちごちゃん。ついてきただけのアンタには関係がない話だよ」
キンの返答を聞いたその瞬間。いちごは己の中のスイッチを切り換えた。礼儀正しい仮面を脱ぎ捨て、軽蔑すら浮かべた表情で、いちごは拳を握り。開く。
「……悲願? そんなものの為に、孫を犠牲にするかもしれない事をするの? ついてきただけ? 違う。私はたーくんを守るために来た。胡散臭いのよ。今までわざわざ地方から遥々教えにきておいて、急に呼ぶなんて。私には関係ない? ――同じ事二度も言わせんなクソババァ」
ホットパンツの後ろポケットに、いちごはゆっくりと手を伸ばす。取り出されたのは、達筆で文言が書き込まれている、人形に切り抜いた紙だった。
鳶色の瞳に怒りの炎を宿したまま、いちごはそれをキンとタマに突き付け。次の瞬間それを手放した。
「カラリン以下略――、御霊・源頼光」
フワリと宙を漂った人形の紙が、生暖かい風と共に形を成す。そこにいたのは、武骨ながら見事な甲冑を身に纏い、般若の面をした大男。立派な長弓を背負い。美しい拵えの太刀を腰に下げ。それはいちごを護るようにして、キンとタマの前に立ち塞がった。
「……妖怪退治の英雄か。それを齢十二に御霊として従えるとは。末恐ろしい娘っ子だ」
「当然と言えば当然かね。あたしら田舎者の陰陽師と違って、いちごちゃんとこは名門さ。かの大陰陽師と肩を並べた男の、遠い遠い末裔さね。うちらの苦労なんざ見えんのさ。眩しくて妬ましいったらありゃしない」
毛を逆立たせ、九つの尾をくねらせるタマの首を、キンは宥めるように撫でると、着物の懐へ手を伸ばす。皺だらけの手には、五枚の札が扇状に広げられていた。
「いいよ、いちごちゃん。安倍晴明と芦屋道満の如く、術比べといこうじゃないか……! 梅澤家名物・稲荷三昧! 喰えるもんなら喰うてみぃ!」
鬼のような形相で、唾を飛ばしながら構えるキンを、いちごはどこか寂しげに見据えていた。
才能がある。眩しくて妬ましい。それらは全て、いちごを抉る刃になる。
そんな視線や念を、いちごは身近で常々感じていたのなど、この老婆は知らないのだろう。どんな願望の為かは知らないが、贄に捧げられようとしている幼馴染みの少年が、どれだけ努力して〝陰陽師〟の力を磨いているのか。多分この老婆は見ていない。その事実が、まるで自分の事のように、いちごの胸をチクリと刺した。
だが、それも一瞬だ。感傷も情念も焦燥すら今は封じ込め、いちごは冷徹に微笑んだ。氷のようなそれは、自覚はないものの、彼女が陰陽師として何かに臨むときのスタイルだった。
「急々如律令。――頼光、遠慮はいらないわ。キンもタマも潰しちゃえ」
少女の口から出るには些か物騒な言葉だが、鎧武者はそれに対して「御意」と、短い嗄れ声で返答する。
スラリと抜かれた銀刃が、鈍い光を解き放ち――。直後。恐ろしい叫び声と、雷を落としたかのような轟音爆音が、辺鄙な田舎の空に響き渡る。
赤い狐と恐れられたキンの屋敷から黒煙が立ち上りはじめたのは、そこから半刻もしないうちだった。