天狗退治と進むべき道
天狗と退治した少年は、決着は早々につくだろうと予想していた。考えている策が有効ならば、こちらは瞬時に相手を無力化出来る。逆に意味がなければ、もはや打つ手はなし。極端なようだが、元より人間より数段格上の妖怪に挑むのだ。五分五分でも充分と言えよう。
「ミサンガ。頼んだよ」
少年の言葉に、白い獣は鋭く鳴くことで答える。赤い眼が天狗を捉え、次の瞬間。管狐は唸りながら天狗の方へと矢のように飛んでいき。
「……フン」
「キャン!」
二秒で決着はついた。まるで羽虫でも払うかのように天狗の錫杖が振るわれ。管狐は短い悲鳴を漏らしながら地面に墜落した。
「おい、何だこのショボい攻撃は。まさか、この狐の〝式神〟がお前のいう陰陽師の知恵……っと!」
少しの不快そうな天狗の顔は、再びめげずに襲い掛かってきた管狐によって、ますます剣呑なものになる。格下が食らいついてくるのが我慢ならない。そういう表情だった。
「あの蛙女しかり、狐といい。あの猿といい……。弱い奴ほど頑張る……な!」
再びの錫杖による一振り。が、何度叩きのめされても管狐は怯まない。
二度。三度。四度。
せめて一矢報いんとばかりに管狐は突進し、その度に手酷く弾き飛ばされる。
とうとう十度目になろうかという所で瑠雨が思わず顔を逸らし、天狗は致命的にはなりえない。だがあまりにも鬱陶しい攻勢に、苛立ったように少年の方を見る。
「おい少年。まさかこの紐が俺に敵うとでも思うのか? こんな雑魚はさっさと引っ込めて……お前、何だそれは?」
途端に天狗の目が見開かれる。少年はしてやったりというかのように、シニカルな笑みで答える。その手には禍々しい紫色の光を放つ御札が二枚と、ショルダーバッグから取り出された、銀色の円筒が持たれていた。
「ミサンガが真っ正面から行っても、天狗さんには勝てない。だから目を逸らすために頑張って貰ったんだ。貴方には少し位嫌な思いをして欲しいから。これ見たら逃げ出すかも知れないし」
カシュ。という音を立てて、円筒が開けられる。それは所謂缶詰というもの。それが開けられた瞬間。天狗の顔から、余裕が完全に消失し、みるみる青ざめていく。
「まさか……それは……っ! し、少年、俺は帰らせてもら……」
「逃がすか!」
少年の手が稲妻のように翻り、二対の御札が手裏剣のように投擲される。紫色の御札は天狗の両羽に貼り付き、天狗はあっさりと地に落とされた。手が後ろ手で縛られたような格好になった天狗は、忌々しげに貼られた札を睨む。
「くっ、束縛……。だが、そこまで強くないな。これならばほんの三十秒で……」
「三十秒で?」
落ちた天狗の前に、少年が仁王立ちになる。三十秒もあれば充分だ。少年はそう暗には口にせず、そっと天狗に向けてそれを構える。
「……あ、いや。あのな、少年。俺はただ……ちょっと困っていて、君が陰陽師なら力を借りたく……」
「うん。わかった。後で聞くよ。だからこれは……この『鯖缶』は、相談へのお土産だよ。遠慮なくどーぞ」
ワナワナと唇を震わす天狗の顔面へ、少年はべちゃりと開封された鯖缶をお見舞いする。当然中身は天狗の鼻や口元に塗りつけられて。その瞬間、「ぎゃあぁああ!」という悲痛な絶叫が森に轟いた。
「陰陽師の楽しい妖怪授業だよ。天狗はね。どういうわけか、鯖の匂いを苦手としているんだ」
「よ、よせ、少年、じ、慈悲を……うっぐ……」
グリグリと天狗の顔に鯖を押し付けながら、少年は無慈悲にも御札を追加する。二枚で三十秒ということで、もう六枚ばかり。この仕打ちに天狗の顔にありありと絶望が浮かぶ。
たかが三十秒。されど三十秒。こういった手合いでのその時間は、恐ろしい程に長く感じられた。
「鯖が山にはないからなのか。何かのこじつけなのかは分からない。鬼が炒り豆が苦手なのと同じなのかもね」
「おぅ……んぐっ! ま、待ってくれ少年……は、吐き気と目眩が……!」
「あと、神隠しにあいそうになったら、鯖食った! と叫ぶ事で、難を逃れられるんだ。……あ、天狗さんそういえば、僕を拐うとか言ってたよね?」
というわけで。と言いながら、少年は天狗の耳元へ顔を寄せ、無駄に大きく元気よく。学校の先生に挨拶するが如く、その言葉を叫ぶ。
「僕は鯖食った!」
「ひぃいいいぃ!」
日本には言霊。というものがある。呪いやおまじないなど、自分の願望や望みを口に出すことにより、事を成す力を得る。言葉に魂が宿るというお伽噺から作られたものが由来だが、少年が実行したものはまさにそれだった。
実際に鯖を食べたかはどうでもいい。言葉にして出すことにより、妖怪のような曖昧ながら力を持つものにすら届きうる刃になる。
天狗に鬼。河童等、有名な存在ほど必ず弱点はある。単に強い妖怪でも絶対はないことを示すのが、陰陽師の力。少年はそれを分かりやすく提示したのだ。
「あ、丁度いいや。ミサンガ。この鯖食べて。お昼御飯だよ。これを食べれば君は天狗にとって嫌なやつ間違いなしだ」
「お、おい……そこまで……く、管狐貴様ァ! そしてお前は食べるのかぁ!? やめろ! 寄るな! 臭い。獣臭に魚臭さが……」
ガクリと頭を垂れ、青ざめた顔のまま天狗は少年を見る。その手には追加の札が握られていた。鯖を飲み込んだ管狐もまた、これ見よがしに身体を天狗に擦り付けていた。
「苦手なものは克服しようよ天狗さん。僕も頑張ってピーマン食べれるようになったから。頑張ろう!」
「鬼か! 鬼か少年! わかった! 謝る! あの蛙女に謝るから……鯖と首に巻き付いた管狐を……」
「ミサンガにも謝って。彼は雑魚なんかじゃない」
「わかった。わかったからぁ! どかしてくれこれ! 臭い! 鯖臭い! オエッ」
「……って言ってるけど、瑠雨。どうする?」
その言葉を聞いた少年は、すぐさま後ろに控え。唖然と成り行きを見守っていた瑠雨に問いかける。
天狗の意外すぎる弱点を目の当たりにし、戸惑っていたのもあったのか、ビクリと肩を震わせつつ、少年と天狗を見比べて……。やがて、決心したようにうん。と頷いた。
「……タっくん。その天狗、立たせられる?」
「立て」
「ほんっと容赦ないな少年!」
もはや半泣きで立ち上がる天狗を、瑠雨はじっと見つめる。頭一つか二つ分は天狗の方が高いので、必然的に瑠雨が見上げる形になる。暫しの沈黙。やがて、天狗が動いた。
「す、すまなかった。す、少し悪のりが過ぎた……頼む。少年を止めてくれ」
懇願する天狗。すると瑠雨は何故かにっこりと。花が咲くような笑みを浮かべた。
「……セクハラ」
短く。妖怪にはわからないが、男には死刑宣告に等しい言葉を呟いてから、瑠雨は大きく手を振りかぶる。
「ボクも鯖食った!」
乾いた音と天狗の悲鳴が、森に響き渡った。
※
「ごめんね。タっくん」
天狗退治が済んだ後。スカートの裾を握り締めながら謝罪する瑠雨に、少年は首を傾げた。どうしてそんな事を? そう考えていると、瑠雨は俯いたまま唇を噛む。
「お姉さんぶって。ボクが守るって言ったのに。結局アイツ相手に頑張ったのはタっくんで……」
絞り出すようにそう言う瑠雨に、少年は困ったように首を掻く。気にしなくてもいいのに。は、あまり意味はないだろう。
「苦手……なんだ。アイツが言ってたような話題。ボクは、雨にはしゃいで。湿った土の香りでのんびりして。気が向いたらぴょんぴょん跳ねてれば……それだけで幸せなのに」
言っていた話題の意味がわからず、少年は少しだけ眉をひそめるも、原因は天狗の言っていたものだとは思ったので、黙って耳を傾けて。その上で、自分の気持ちに従った。
「別に、守るとか守られるとかじゃなくて……。瑠雨が泣いてて。よく分からないけど何だか嫌だったから、アイツに向かっただけだよ」
偽らざる本心を話せば、瑠雨は何故か涙目になる。これまた抱き締められかねんと、危機感を覚えた少年は身構えるが、その前に割り込んでくる声があった。
木に逆さ釣りにされた天狗だった。
「いちゃつく手前で悪いが、そろそろ俺の話も聞いてくれないか? あと下ろしてくれ」
「……そういえば、困っているって言ってたよね? 下ろすのはダメです。そのまま話して下さい」
少年の返答に、天狗はやれやれと苦笑いしながら、不意に真面目な顔になる。
「……俺が依頼したいのは、どうにもこの山で起きているらしい異変の調査だ。少年が荷物を奪われたという白い猿共だが……蛙女。君はこの近くに住んでいるんだろう? 見覚えはあるかな?」
話を振られた瑠雨は一瞬だけ嫌そうな顔を見せつつ、暫しの思案の後にゆっくりと首を横に振った。
「……ない、ね。うん。初めて見たよ。セクハラ天狗」
「セク……まぁいい。そうなのだ。ついでに近辺の妖怪にも尋ねたが、奴等を見たことがあるという妖怪は皆無なのだ。つまり、流れ者か、新種な妖怪の可能性がある」
「……けろけろ。ボクら妖怪が言うのもアレだけど、この現代に新種の妖怪なんて……」
「あり得なくはない。そうだろう? 少年」
信じがたいといった顔になる瑠雨に対して、少年は遠慮がちに小さく頷く。天狗が言うことも、無いことはない。
近年は流石にそういったものが生まれた事はないが、一昔前ならば口裂け女や人面犬やらがニュースを賑わせた事があると、少年は学んでいた。それらは現代生まれの比較的新しい妖怪と言えるだろう。
「そいつらが、何か悪い事をしているの?」
「悪いことかどうかはわからん。だが、あの猿達が見かけられるようになってから、この辺り一帯がおかしくなったのは確かだ。……どうだろう少年。荷物を取り返す手助けは俺もする。天狗から何かお礼の品を贈呈してもいい。調査を引き受けて……よしんばこの山々に起きている異変を解決してはくれまいか?」
一陰陽師として。そう締めくくる天狗を少年はじっと見つめる。何かを企んでいる……ようには見えない。そもそも良からぬ事を謀っていたならば、話しかけなどせず、強引に少年を連れ出せばよかったのだ。ともすれば、案外少年の知恵を試すと言っていた事も本当かもしれない。
いつのまにか後ろから瑠雨に包まれているのは……少しだけ恥ずかしいが気にせずに。少年はため息混じりに頷いた。
「わかりました。じゃあ、歩きながら異変について教えて下さい」
御使いが妙なことになってきたな……とは思っても口には出さないことにした。




