天狗と苺
少年は、現れた存在から目をそらさなかった。風が止み。木の葉一枚一枚が地面に落ちた時、そこに立っていたのは、背の高い優男だった。
薄墨色の髪は長いためか、紙紐でポニーテールにしている。どことなく妖しげな笑みも相俟って、軽薄な印象を受けるのとは裏腹に、その出で立ちは、頭襟を被り、結袈裟に鈴懸を身に纏い。手には錫杖。腰には法螺貝。足に履いた一本歯の高下駄だけを除けば、絵に描いたかのような修験者の装束だった。
だが、それ以上に少年の目を引き寄せたのは、その男の背中に広げられた、烏を思わせる一対の翼と。美麗な横顔に着けられた、赤ら顔の鼻高な仮面。そして……。手に持つ見覚えがあるショルダーバッグだった。
「その仮面や翼に服……。お兄さんは、天狗さん?」
少年の問いに、天狗は涼やかな笑みで頷いた。
「見かけだけで判断するのは減点だぞ少年。妖怪には自らの姿形を変えられるものがいる。化かされたくなけりゃ己の目だけにたよりなさるな」
まぁ、俺が天狗だというのは否定しないが。そう言って肩を竦めつつ、天狗は少年を爪先から頭の天辺まで、品定めするように眺める。無遠慮な視線に少年が少しだけ顔をしかめていると、不意に後ろから、白い手が伸びてきて、少年を包み込むように抱きすくめた。
「る、瑠雨?」
驚く少年が見たのは、今迄にないほど厳しい表情をした瑠雨の横顔だった。キッと天狗を睨みながら、瑠雨はまるで我が子を守るかのように少年をますますきつく抱き締める。
「タっくん、気をつけて。こいつが天狗なら尚更よ」
「……でも」
「デモもストもないの! 天狗だよ!? 神隠しの主犯率が妖怪界でもダントツ一位の! しかもタっくんが陰陽師ってバレてるし!」
陰陽師って連呼してたのは瑠雨なんだけどなぁ。と言わないのが、少年の心遣いだった。
だが、瑠雨の言葉もあながち間違いではない。山など人の気配が薄い場所に出掛けたきり、痕跡を残さぬまま忽然と消息を断つことをいわゆる神隠しと呼ぶ。その中でも瑠雨の言うとおり主犯として上げられる最たるものが、今も目の前にいる天狗なのである。
天狗に何らかの要因から気に入られたもの。あるいは魅入られたもの。果てには才気があるもの。が拐われる原因とされているが、その真意までは少年には分からない。少なくとも自分は才気がある訳ではないし、魅入られてもいない。だから大丈夫だとは思っていたのだが、瑠雨にはそうは映らぬらしかった。
「お前は……蛙か。随分とよく吠えるな。繁殖期か?」
「……なっ! ななな何いってるの! ボクが……そ、そんな……!」
天狗の言葉に、瑠雨がワナワナと震えだす。
「因みに山に入ってくる、見慣れない気配を感じてな。お前らのやり取りはずっと見ていたが……何だって? お膝に……」
「い、言ってない! 言ってない! 別にちょっと可愛いとか思った訳じゃ……あ」
「フン、ボロを出し始めたな。そう言えばガマガエルは、発情した時やまぐわう時に相手をきつく抱き締めるとか。妖怪になってからもそうなのか?」
「し、知らない! そんなのボク知らないもん!」
冷笑を浮かべる天狗に対して、瑠雨はブンブンと首を横に振る。因みに少年は、話から完全に置き去りになっており、そんな最中、妖怪二匹の舌戦は続く。もっとも、それは、一方的な蹂躙に等しいのだが。
優勢なのは、やはり天狗だった。妖怪として格が違う。彼の態度からは、暗にそういったプライドめいたものが読み取れた。
「ああ、それはオスの話だったかな? かつて雄共に群がるように抱かれ、まぐわった記憶でも思い出したか?」
「妖怪になる前なんて……覚えてないもん……」
俯いたまま、消え入りそうな声でそう言う瑠雨を、天狗は嘲るような目で見下ろした。さながら氷の刃の如く、彼の切り口は更に鋭くなる。
「ハッ、何だ? まさかその子の前で女ぶりたいのか? 面白いことを言う。なぁ少年よ。気を付けろ。そこにいるのは腐っても大蝦蟇だ。油断したお前を水辺に引き込み、パクリ……位は考えているかもしれん」
抱き締める力が、徐々に強くなる。見上げると、瑠雨は顔をトマトみたいに真っ赤に染めていて、目にははっきりと、涙が浮かんでいた。
「フン、人を誘拐常習犯みたいに言いながら、そのザマか。このショタコン妖怪め。いや、ショタコン予備軍妖怪か?」
「う、うぅ~……違う、……ボクは、ボクはただ……タっくんに、お礼を……」
「フン。蛙の恩返しか。何だそれは。はしたない。所詮は両生類だな。下品で下等なガマ風情はすっこんでろ。俺が用があるのは、そこの少年陰陽じ……っと!」
天狗の視線が少年に戻るその瞬間。白い閃光が迸った。
「……正直、何を言ってるのか分からない言葉がいっぱいあったけど、それは別にいいや」
片手を前にかざした少年の手に、管狐が絡み付く。その口にはいつの間にか、天狗が持っていたショルダーバッグがくわえられていた。
「……む。取引に使うつもりだったんだがな。まぁいい。少年。語ろうか。目下の目的は……」
残念そうに呟く天狗へ少年は人差し指を向ける。無礼な振舞い。だが、それを少年はわかった上で実行し、天狗を鋭く見据えた。
「どんな理由であれ、女の子を泣かせた男の子は、天誅を受けるべし。……僕の幼馴染みの言葉だよ」
もっとも、その幼馴染みが泣いた姿など、一度も見たことはないのだけれども、今は置いておこう。
「……少年。地を這うお前が空を飛ぶ俺に天誅など妙な言い回しだとは思わないか?」
「ご託はいいよ。瑠雨に……謝れ。あと、あの猿について知ってる事を話せ」
バッグを開き、中身を改めると、カネオのばぁばから貰った小包だけが、ご丁寧に引き抜かれている。あの猿が初めから小包を狙っていたのか。あの猿が好むものが小包だったのかはわからないが、どのみちこれでバッグを取り返したからと言って帰れる訳ではなくなった。
「……気が変わった。陰陽師ならばと調査を依頼したく。だが年若いが故にその知識を問おうと思っていたが……。やはり分かりやすく。力を計った方が良さそうだ」
クルリと手にした錫杖を回しながら、天狗が好戦的に笑う。それを合図と受け取った少年は、瑠雨の腕の中からスルリと抜け出すと、改めて、ショルダーバッグを身体に掛ける。肩の管狐が、威嚇するように身を震わせ、唸り声をあげた。
背後で瑠雨が「タっくん……」と泣きそうな震え声を漏らしたのを感じ、少年は安心させるように背中越しに向けて親指を立て。そのまま、また一歩踏み出し天狗と睨み合う。
「天狗さん。まほ……陰陽師は力だけじゃない。単純な力だけなら、僕らは妖怪に勝てないからね。陰陽師は……知識を伴った力なんだ。その辺を勘違いしないでもらおうか」
放たれる少年の闘気に当てられたか。天狗は心底楽しげに、薄墨色の髪を掻き上げた。
「年端もいかぬ小童というのに溢れんばかりなその才気……気に入ったぞ! お前は事が終わったら拐かし……俺好みの童女にしてやろう!」
何をどうやったら自分が童女になるのかはさっぱりわからないが、背後で「やっぱり天狗は変態だぁ……」と言うのを聞く限り、心底気味が悪い事を言われているのだけはわかる。
「溢れんばかりの才気……ね」
少年は思わず苦笑いを浮かべた。常軌を逸した天狗の言動もそうだが、その前に言っていることが、てんで的外れだったからだ。
考えてみれば、天狗は知らないのだ。少年が陰陽師に至る上で。いや、もしかしたらなる前から気づきつつあったもの。即ち……。
「天狗の癖に、目玉が腐ってるらしい。本当の天才を知らないから、あんたは僕程度ですら、そんな呑気な判断が下せるんだ。本物は……本物の天才は……」
こんなものじゃない。
どことなく陰鬱な光を瞳に宿しながら、少年は臨戦態勢に入った。
※
「クチュン!」と、不意に漏れた可愛らしいくしゃみを抑えながら、芦屋いちごはゆっくりと上体を起こした。
縁側で休むことでどうにか車酔いは回復した。ただ、ポロシャツにホットパンツ姿で日が射さぬ場所にて寝転んでいたからか、いくら蒸し暑い今日でも、元が低血圧なのも手伝い、少女の身体はそれなりに冷えてしまったらしい。
「……みゅ」
グイッと腕を上げ、身体を伸ばす。微睡みから覚めた心地よさが指先まで広がるのを感じながら、いちごは辺りを見回した。
幼馴染みの男の子は、まだ帰って来ていないらしかった。変なのに巻き込まれてなければいいけど。と、何気なく思う。昔から少年は何かとトラブルメーカーで……。
「……ん?」
淡い記憶を手繰り寄せ、どうしようもない表情になりかけていた時。いちごはふと、微かな声が聞こえた。どうやらそれは、少し離れた場所……。少年の祖母が家主たる屋敷の居間から聞こえてくる。
「……っ」
少しの好奇心から、あとは何となくという動物的感覚で、いちごは抜き足差し足で居間に向かう。気分は忍者。さながら敵陣で情報を集めるくノ一のように……。
「ああ、手筈通りかい。タクは、あの山に? なら今ごろは、あ奴に襲われているか。野良妖怪にちょっかいを出されているだろうね」
無邪気な遊びはそこまでだった。
明らかに穏やかじゃない話題が。それも自分の幼馴染みが渦中に放り込まれているらしい会話に、いちごは身体を一瞬で強張らせつつ、すぐさま数歩後退り。しっかりと聞き耳を立てた。
会話は、幼馴染みの祖母と……電話だろうか。それとも他の誰かか。まだ判断はつかない。
「なぁに、心配はいらん。その辺の野良妖怪には遅れをとらんように仕込んである。あやつは大切な……〝生け贄〟だからね」
いちごの脳天を、金槌で殴られたかのような衝撃が走る。淡々と語る幼馴染みの祖母の声は、孫の話をしているとは思えぬ程、あまりにも冷ややかだった。