回想と遭遇
少年が魔法や妖怪と呼ばれるものを認識したのは、小学校に上がる直前である。
それまでの少年は、どこにでもいる普通の子どもだった。
テレビの戦隊ものに目を輝かせ。友達や幼馴染みの少女と近所の公園で走り回る。それが日常。塗り替えられたのは、偶然だった。
その日はそう。晴れているのに雨が降っていた、学校帰りの夕方の事。子どもながらにその奇っ怪な現状に胸を踊らせた少年は、田舎から数週間遊びに来ていた祖母に、この不思議な雨について聞こうと、急ぎ足で帰宅した。
祖母がいるのは大抵は家族がいる居間か。庭に通じる小さな窓際だ。少年はまず、家の門をくぐるなり、庭に直行した。そこにいなければ、家に入ればいいからである。結果、祖母は見つかった。だが、同時に……。
「……おやおやキンや。主の孫、妾が見えているぞえ?」
生まれて初めて見る、幻想もそこにいた。
姿からして、それは狐だった。だが、ただの狐ではない。目映いばかりの金色の毛。鋭く清廉な顔と、金色の眼。しなやかながら、力強さも感じられる四肢。そして……絡むかのようにフワフワと空を切る九本の尻尾。その全てに少年は魅了されたのだ。
白面金毛九尾の狐、タマ。そう彼女は名乗った。今まで知らなかった領域に少年は目を輝かせ、矢継ぎ早に傍らにいた祖母に質問の嵐を浴びせる。それを見た祖母は嬉しそうに。だがどこか複雑そうに少年の疑問に答えてくれた。
どうして庭に祖母と彼女がいたのか。そもそも今までも祖母は度々遊びに来ていたのに、どうしてその日になって見えるようになったのか。それは未だにわからない。ただ、確かなのは、その日から、少年の魔法使い……真実を知った今では陰陽師の修行は始まったのだ。
※
山は熱気に包まれていた。日が射さないところですら地面からもうもうと湯気が沸く錯覚に陥りそうになりながら、話を続ける。語るは自分の魔法使い。否、陰陽師としてのルーツだった。
「とまぁ、切っ掛けはこんな感じ。後は、二月に一度くらいのペースで度々泊まりに来るばぁちゃんとタマちゃんに、修行をつけて貰ってたんだ。だから、今回こっちに来るの実は初めてで、ちょっと楽しみで……。あれ、瑠雨? どうしたの?」
管狐の鼻先と、目線が指す方向へ気を配りながら、少年はキョトンとした顔になる。当の瑠雨はというと、隣を歩きながら目を白黒させていた。
「き、九尾の狐って……何でそんな大物が? 狐……てか、タっくん。もしかしてだけど、キミのお祖母ちゃんの家って、里外れの稲荷神社だったりする?」
「え? 凄いね。何でわかったの?」
少年の返答に、瑠雨の顔色が瞬時に青ざめる。心なしか、何だか泣きそうな顔で小刻みに震えているようにも見えた。
少年は知るよしもないのだが、この辺りの妖怪達の間では暗黙の了解もとい、注意事項がある。近寄るべからずと言われる禁忌の場所が、この里山にはいくつか存在するのだ。その中でも最たる二ヶ所が、少年の語る稲荷神社。そしてもう一つは、何の変鉄もない狸屋敷と呼ばれる民家だ。この二件には、恐ろしく腕の立つ女陰陽師が住んでいて、特に彼女らが若い時。まだ妖怪の威光が残っていた時代に、荒くれものな妖怪達の間で大立ち回りを演じたという。
ついたアダ名が『赤い狐と緑の狸』妖怪達の間で今も語り継がれる、行ける伝説なのである。
「……どうしよう、ボク、キミに何かあったら殺されちゃうよ」
「え? 何で?」
「いや、だって……うぅ~。ホント、危なくなったら戻るからね!」
「瑠雨は心配性だよ。……でもまぁ、バッグ取られたのは、御使い以外にも厄介なんだよなぁ……」
百面相する瑠雨を横目に、少年はため息をつく。
「……どーして?」
「いや、あれにね。妖怪対策グッズが結構入ってたから」
少年があっけらかんとして答えたのを、瑠雨はあんぐりと口を開けたまま、今度こそその場に固まった。
「だ、だめじゃん! どうするの!? 管狐だけじゃあの猿に勝てなかったのに!」
「一応お札の類いはお財布に入れてるから、大丈夫だけど……っ!」
捲し立てる瑠雨から目をそらし、少年は斜め前を見る。誰かの視線を感じたのだ。
釣られるようにして瑠雨も少年の眼光が射ぬく先を見た。
「……人?」
瑠雨の呟きに少年は答えぬまま、「行こ」と、瑠雨の手を引く。一歩。二歩。三歩。徐々にそこにいた影へと二人は近づいていく。
そこにいたのは、女性だった。
樹皮を編み込んだかのような焦げ茶色のはだけた着物を着込み、肩には草葉で編んだ簑という、時代錯誤したかのような服装だ。髪の色は黒。腰どころか、地面にまで届かんばかりの長く艶やかなそれは、風に靡き、甘い香りを放つよう。白粉を施したかのような白い肌は、灼きつくような陽光の下だからか、ほんのりと赤みを帯びていて、だが、それすらも女は魅力に取り入れているようだった。それほどまでに、そこにいた女は美しかったのだ。。
「……タっくん。気をつけて」
瑠雨も内心で少し警戒しているのか、少年の手を少しだけ強く握り返してきた。水掻きが少しだけくすぐったいが、それはさておき、少年は歩きながら思考を巡らせる。まず間違いなく、人間ではない。そんな確信が少年にはあった。だが、妖怪というには、気配が希薄すぎる気もする。ただの幽霊だろうか。
そう思いながら、少年が女を改めて見た時だ。不意に女が、妖しく――笑った。
それを目の当たりにした瞬間。少年に電流が走った。それはまさに、男を蕩けさせる視線と微笑だった。
女など知るよしもない少年ですら、本能に訴えかけてくるようなそれは、まさに魔性の貌。それに釣られるままに、少年は女に
微笑み返し……。
「……っ!」
は、しなかった。見た目と、その意味深な笑みから、少年は修行時に脳内へ必死で叩き込んだ妖怪のデータベースから、見事に女の正体と、対策法を弾き出した。
いたいけな小学生が普段では決してしないような藪にらみ。もはやメンチを切っていると言っても過言ではない形相で、少年は女の笑みに答え、その場を通りすぎた。
「袖にされちゃったんね。……暑うて。ホンマに暑うて、人通りが無さすぎていけないわぁ」
お腹すいたぁ。という物騒な言葉を最後に、背後で木々が擦れる音がする。次に少年と瑠雨が振り向くと、そこには何もいなかった。
「……やりすごしたの?」
「うん、何も対策グッズがないからって、どうという事はないんだ。頭を使えって、よくばぁちゃんやタマちゃんが言ってた。只滅するだけじゃない。魔法使い……じゃなくて陰陽師は、万に通じるべしってね」
今にして思えば、二人とも魔法使いという単語にだけ、わずかな揺らぎがあったように見える。隠すのに必死だったのだろう。理由は分からないけども。
教えられた魔法使いもとい陰陽師の技や仕事は、〝式神〟の使役から、祈祷に祈願。他にも何らかの事件や異変を調査する場合もあるらしい。故に少年は、あらゆる妖怪に関する知識を頭に入れていたのだ。
「さっきいた女性。草葉の簑に、長い髪の色白な美人さん。……山女だよ」
そう語りながら少年は自分の頬をつねる。
「基本的に山にいて、ああやって笑いかけてくるんだ。で、笑い返すなり、適当な反応をすれば最後。全身の血を吸い付くされて殺されちゃう」
「……じゃあ、君が睨んでたのは対策?」
「そう。山女にあったら睨み返せ。ナメクジを持て。先に大笑いしろ……そんなのが対策になるんだ」
人間すげぇ。そう感心する瑠雨に、少年は照れたように笑う。知識が役立ち、純粋に嬉かったというのもあるが、単純に陰陽師らしい事が披露できて誇らしいのもあった。どうにも瑠雨は心配性の気があるので、少年な何故だかそれを払拭したかったのだ。
「妖怪は思いもよらないものがダメージになったりするんだ。……知っててよかったよ」
「まぁ、襲い掛かってきたらボクが追い払ってたけどさ」
「来たら来たで、僕が戦うんだよ? 魔法使……陰陽師だし」
「ついさっき自覚したんでしょうに。こいつめ。こいつめ」
ツンツンと、おちょくるように瑠雨が頬をついてくるので、少年はムッとしながら振り払う。どうやら山女を追い払っただけでは、まだまだらしい。もっとも、それもそうかと納得してもいる訳だが。よくも悪くも、少年はストイックだった。
そんな少年を、瑠雨は微笑まし気に見ながら、そっと頭を撫でる。水掻きをサラサラと掻くようなこの感覚に、瑠雨が癖になりつつあるなど少年は想像もつく筈なく。だが心地よいのは事実なので、結局、少し膨れながらも、されるがままになる。それがますます瑠雨を堪らない気持ちにさせているのだが、それもまた知る術はない。
「可愛いなぁ……。お膝乗せたくなるよ」
「……? 何か言った?」
「……あっ、い、いや! 別に!」
つい漏れた本音を取り繕う瑠雨。実は聞こえていたが、気づかないフリをしたまま、少年は瑠雨をジトリとした目で睨む。若干頬が赤いのだが、それには本当に気づかなかった。
「あ、うん! とにかく! キミがちゃんと陰陽師出来るのはわかったよ! 流石は……」
「流石は『赤い狐』の御孫さん……かな?」
まさに言おうとしていた言葉が、第三者に代弁される。
へ? と、固まる瑠雨とは対照的に、少年は真っ直ぐに、声がした方へ目を向けた。
「……何となく。追いかけられている気はしてました。ミサンガがそわそわしてたから」
肩に絡み付き、鼻先と目線で少年に警告を下していた相棒を指で撫でながら、少年はそう宣う。すると、その返答に気をよくしたのか、それは「カッカッカ……」と愉快げに笑う。
「いやはや見事。ならば次は、俺と語り合おうではないか。小さな陰陽師殿。あの白猿を、君も追っているのだろう?」
一陣の風が吹き、木の葉が舞い踊り渦を巻く。
その中心に、音もなく。大柄な影が降り立った。