瑠璃色の雨と少年の魔法
「んく、んくっ」と、少女の白い喉が艶かしく何度も上下する。汗が首筋を伝うのも気にせずに、顎を上げ豪快に水筒の麦茶を飲む少女を、少年はぼんやりと見つめていた。
彼があともう少し大人びていたなら、少女の無意識な色香にどぎまぎしていたのだろう。が、少年はその方面の成長はまだ中途半端だった為、このお姉さん凄く美味しそうに飲むなぁ。程度の反応だった。
「ぷはっ! 生き返ったぁ……もうダメかと思ったよ。六月に干からびて死ぬとか、末代までバカにされちゃうとこだった」
ありがとね。と、水筒を少年に返し、少女は微笑んだ。それに軽く会釈しつつ、少年は水筒を受け取り、バックにしまう。満タンに入れたお茶は、四分の一程減っているようだった。
「お姉さん、蛙なの?」
少年の質問に、少女は何故バレた!? といった顔をするが、続けて少年が指差したカエル帽と、手を握られた時に然り気無く気づいた水掻きに目を向けられ、観念したかのように肩を落とした。
「うん、そうだね。……大蝦蟇。って言えば分かる?」
首を傾げながら問う少女に、少年は頷く。
確か、日本各地伝承が残る、巨大なガマガエルの怪異だった筈だ。口から虹なり煙を吐くだとか、槍を手に襲いかかってきたり、人の精気を吸いとる。少年が知るのはそれくらいだ。
「……でも、お姉さんガマガエルっぽくないよ? 色とか。最初は普通のコスプレした人間かと思ったもん」
そう少年が言えば、少女は少しだけ泣きそうな顔になりながら、いじけるように胸の前で指を突き合わせる。人が気にしていることを……なんて呟きまで聞こえる辺り、本気で落ち込んでいるらしかった。
「そりゃあ……近年じゃ妖怪なんて見える人少ないし。仮に見えるように出てきても、デカいガマガエル扱いで珍獣ハンターが押し寄せてきて縄張り荒らされたりするし。しょうがないから人の姿とってひっそり生きても、蛙のアイデンティティーは失いたくないし……」
「……せちがらいね」
「難しい言葉知ってるねキミ」
蛙の〝あいでんてぃんてぃん〟ってどういう意味? と聞かないのが、少年の優しさだった。
すると少女は涙目を振り切るように腕を動かし、ポンポンと、少年の頭を軽く撫でる。その顔には、今度は好奇心がありありと現れていた。曇ったり晴れたり、お天気みたい。と、少年はふとそんな感想を懐いた。
「キミこそ何者? 魔法使い? ボク、それなりに長くこの辺で妖怪やってるけど、そんな存在現れた事も聞いたこともないよ?」
近年じゃあ特に。そう付け足す少女を肯定するように、少年も頷く。
現代において、魔法に妖怪。幽霊が存在すると言い張った所で、鼻で笑われて一蹴されることだろう。
科学や文明が発展し野山は切り開かれ。人間は住居を広げている。結果的に色んな謎が解明されていき、不可解なものとして存在していた妖怪や怪異の畏怖は急速に薄まった。そんな世界で魔法使いを名乗る少年は……。
「何者って……魔法使いだってば」
ブレる事はなかった。返事を聞いた少女はひきつった顔で頬を掻く。
「押し通してきたよこの子。いや、今平成よ? 昔はほら。巫女さんやら徳の高い坊主さんに、妖刀携えた侍とか、呪術師とか……そういうのいっぱいいたけどさぁ!」
「……今もたくさんではないけど、ひっそりといるよね? ばぁちゃん言ってた」
「キミのおばあちゃん何者なのさ!? ……いや、そうだけどぉ。ボク、キミのみたいな小さな子がそういう類いになってるのは……にわかには信じがたいなぁ」
少女の言葉に、少年は少しだけムッとする。本当なのに。と言う言葉を飲み込み、項垂れれば、少女はしまった。といった顔になり、少年の肩をポンポン叩く。
「あー……うん、嫌だよね。自分を否定されるの。ボク達妖怪が、それを一番よく知ってる筈なのに」
顔を上げると、少年のすぐ前に少女の顔がある。何処と無く憂いを帯びた表情で。だがそれでも照れたように笑いながら「ごめんね」と小首を傾げる姿を見た時。少年は不意に何となくではあるが「あっ、なんかいいな」と感じた。
その不思議なくすぐったいものの正体がわからぬまま、少年は気にしてないと伝えるように再び頷けば、少女は「よし!」と、元気よく飛び退くと、その場から距離を取る。
突然の行動の意図がつかめず、少年が目を白黒させていると、少女は両手を広げ、さぁ来いと言わんばかりに手招きした。
「魔法使いなんでしょ? なら、ボクに魔法をかけてごらんよ!」
そう告げる少女に対して驚いたのは少年の方だった。
「……っ、ダメだよ! お姉さんが怪我しちゃうよ!」
そう言って首を横に振る少年だが、少女は大丈夫大丈夫。と、あっけらかんとして親指を立てた。
「妖怪舐めたらいかんぜよ。大丈夫。ボク、これでも丈夫だから!」
「ガマガエルで妖怪なのに熱さで倒れてたお姉さんが?」
「キミ、地味に痛いとこ抉るねホント」
こめかみを押さえながら二、三深呼吸し、少女は再び大丈夫。と答えた。
「ガマガエル……つまりヒキガエルってね。他の蛙より乾燥に強いんだよ。そりゃあさっきは限界越えてああなったけど、あれだけお茶貰えたならもう平気なの」
プニプニと、瑞々しい己の頬を指でつつきながら少女は片目を閉じて。弾けるようなウインクをする。
「だから、ね? 遠慮しないで思いっきり来て。お姉さんなボクが、キミを全部受け止めて上げるからさ」
好奇心と、あるいは罪滅ぼしに近いものもあったのだろう。譲らぬ少女に、少年は困ったように口元に指を当て。やがて、決意したように頷いた。
「……お姉さんの名前、教えて」
「やだこの子、凄い不吉な事を……」
ふざけたように「いやんいやん」と身体を揺すりながら、少女は少年を横目で伺う。が、少年は大真面目で少女を見つめ続けた。すると、あまり反応が帰ってこないことに苦笑いしながら、少女もまた真剣な眼差しになる。
「瑠雨。瑠璃色の瑠に、雨で……瑠雨。それがボクの名前だよ」
瑠雨。るう。と、その名を少年は記憶に刻む。と、少年は改めて、少女――。瑠雨に向き直った。
「わかった。じゃあ、瑠雨。行くよ?」
「うん。あ、一応優しくね?」
瑠雨の申し出に、少年は黙って頷くと、ポケットに手を伸ばし……。
そこではじめて、己の近くに何かが近づいているのに気がついた。
「……ん?」
「ウキャ?」
振り向いた視線の先には、獣がいた。見た目は白くて大きめの日本猿。この炎天下の影響か、体温が高めなのか。その周りには微かに陽炎が立ち上っていた。だが、もっとも驚くべきはその身体の形だった。足が一本腕が一本。奇形というより自然界では有り得ない姿は、それもまた、瑠雨と同じ妖怪であることを示していた。
「キキキャー!」
目と目が合ったその瞬間。白猿が稲妻のような速さで動きだした。
奇声を上げながら少年のバックを引ったくると、ピョンピョンと跳躍を繰り返し、あっという間に山の方へと駆けていく。後に残されたのは、少年と、それに対峙する瑠雨のみだった。
「……あっ!」
お土産と御使いの届け物! ワンテンポ遅れて少年が反応した時には、白猿はすでに小さくなっていた。
「……くっ、待てっ!」
普通の子どもの脚では到底追い付けないだろう。だが、少年は自称した通り、普通ではなかった。
ポケットに入れていた手を引っ張り出す。そこには……。
「空き、缶?」
様子を見ていた瑠雨が、思わず目を丸くする。魔法と空き缶が繋がらないんだろうな。そう少年は内心で思いながら、〝コレ〟を瑠雨に向けずにすんだことに感謝した。荷物の引ったくりは腹が立つが、こうして対象として現れてくれたのだけはありがたいと言えるだろう。
空き缶の口を、走る白猿に向ける。この距離で、あの足の速さなら、きっと間に合う筈。
「カラリンチョウ。カラリンソワカ――以下略。〝管狐〟! 急急如律令!」
次の瞬間。空き缶が小さく震えたかと思えば、そこからヒュン。と、鞭が風を切るような音を立てて、白くて長い紐状の獣が、唸り声を上げながら飛び出した。
管狐と呼ばれる存在の使役こそ、少年が言う魔法。その一つであった。
「ごめん、瑠雨。またね!」
「え? あっ、ちょっとキミ! そっちは……」
風のように飛ぶ管狐に追従するように、少年もまた走り出す。背後から瑠雨が制止する声が聞こえたが、今はそれに耳を貸している時間はなく。少年はひたすら猿へ追い縋る。
思い出すのは、御使いから帰る直前に、カネオのばぁばが言っていた言葉だった。
『この小包はね。とっても大切なものなのよ。だから必ず、お祖母ちゃんに渡しておくれ。……頼んだよ』
少年の脳裏を、ありとあらゆる思いがめぐまるしく駆け巡る。
悔しさ。焦燥。劣等感。使命感。プラスとマイナスの感情を燻らせ、グッと唇を噛み締めながら、少年は前を見た。数メートル先では、猿と管狐が縺れては離れを繰り返しながら、徐々に山の奥へ入っていく。両者の力は拮抗しているらしかった。
「……っ、逃がすもんか!」
再び叫びながら、少年は乱闘に加勢すべくスピードを上げる。辺りが徐々に薄暗くなっていることに、気づかぬままに。
『ああそうだ、タクちゃん。いい子だから聞いておくれ。この村を歩くときの鉄則だよ。……決して道を外れては行けないよ。特に来る途中にあった山。彼処には近寄るんじゃない。……例えタクちゃんがそう、魔法使いだったとしても。……お前さんは、まだ見習いだからね』
少年が、カネオのばぁばに授けられたもう一つの忠告を思い出すまでは、まだ少しだけ時間がかかりそうだった。