決着と忘れ物
式神――! その事実に、朔夜は身構えた。神通力を奪ったのは、こういう理由か。大蝦蟇が朔夜に食らいつくが為に。その間にタクヤは開いた出口から逃げればいい。悪くはない手だ。少年の手腕を素直に賞賛しながらも、朔夜はそれでも余裕を崩さなかった。たとえ神通力はなくとも、遅れをとる気は更々なかったのだ。まずは下から来るであろう大蝦蟇を捩じ伏せて……。
そこまで考えた所で、朔夜は違和感に気づいた。形代が、変化しない。相も変わらず少年の手に収まったまま。大蝦蟇の姿など、影も形もなかった。
「失敗……?」
「いいや、成功!」
そう思った瞬間、天井からそんな声がすると共に、ガツンと衝撃が走る。踏みつけられた。朔夜がそう理解すると同時に、弛緩した腕からタクヤがするりと脱出する。
「チッ――!」
忌々しげに唾を吐きながら、朔夜は直ぐ様行動に移る。式神はフェイク。虚を作り、背後から強襲する大蝦蟇の瑠雨によって、タクヤが逃れる為のもの。次に二人がとる行動は――。守るべき出口の前に立ちふさがる。出口に走りかけていた二人は、急停止。暫しの間、三人に緊張が走り……。
「惜しかったわね。悪くないフェイントだったわ。でも、貴方達はここまで。ここを通る……こ、と……は?」
その次の瞬間、朔夜の視界がぐにゃりと歪んだ。舌が。四肢が、ありえないほど痙攣し、電流を受けたかのように痺れ始めた。突然の出来事に、朔夜は目を白黒させる。何をされた? 神通力がないとはいえ、たかが蛙娘の踵落とし程度で……。
「なん、だ……? こりぇ……?」
気を抜けば、呂律が回らなくなりそうな酩酊に似た感覚に、朔夜は戸惑いを隠せない。気がつけば膝が地面につき、痺れに抵抗するのが精一杯だった。
「私に、何を……?」
「神様の弱点を。日本に限らず、世界中の神話で神様や怪物を破滅させる要因で、一番メジャーかつ数が多いものを知っているかい? 答えは……毒だ」
ど……く? その単語に、朔夜は息を飲む。それはありえない。自分の領域に毒を有したものは存在しない。では、毒を少年が持ち歩いていた? バカな。陰陽師とはいえ、タクヤは子どもで、現代に生きる人間だ。そんなものを平然と持ち歩けるわけがない。狐限定で聞く毒なんて聞いたこともない。いや、そもそも毒ならば匂いで……。匂い?
それを思い出した時、朔夜の脳裏に稲妻が走る。
タクヤに染み付いていた女の香り。今一度手中に納めた時には、前とは比べ物にならないほど、それは濃いものになっていて……。
まさか。そんな表情になった朔夜を見たタクヤは、静かに頷いた。
「そう。一つ目の天ぷらには、安価な菜種油。二つ目に高価な胡麻油。そうして三つ目には、世にも珍しい一品……蝦蟇の油を使わせてもらった」
その告白に、朔夜はワナワナと震えだした。毒の効果だけではない。鳶に油揚げを取られた。もとい、蛙に少年を取られた挙げ句。その蛙にこうして這いつくばらされた。これ以上にない屈辱
は、朔夜の精神を容赦なく削っていく。神とはいえ、元は妖怪狐。精神的なダメージは肉体に受けるものより深刻である。
「お前……お前ぇ! 蝦蟇の油って、要するにその女のエキスで料理して……よりにもよって、それを私に食わせたのかぁ!?」
「エキスとか言うの止めて」
「やかましい蛙ぅ! スカした顔してんじゃねぇぞぉ! どうやった!? どうやって油取りやがった!?」
身体は動かぬ分、言葉は雄弁に出てくる。というよりも、毒を帳消しにしかねん勢いで朔夜は憤怒する。その目の前で……タクヤと瑠雨は、少しだけ顔を赤らめながらお互いに目を逸らした。
「……聞かないでくれ」
「……恥ずかしいもん」
「その反応はなんだぁ!? 蛙てめぇ! 人を変態呼ばわりしといてそれか! 油か! 油搾りプレイか!? 何さらっといたいけな少年に上級者プレイ仕込んでんだコラァ!」
「ま、まだ手は出してないもん! それに光源氏とかやろうとしてた奴に言われたくない!」
「黙れぇ!」
ぷれい? と、首を傾げる少年の横で、朔夜と瑠雨はかしましく言い合いをし続ける。見るからに滑稽な光景。それでいて気の緩んだ状況。それをタクヤは見逃さなかった。
「――っ、今だ! 瑠雨!」
「ふぇ?」
好機とばかりにタクヤは瑠雨の手を引き、銀色の靄に飛び込んでいく。一瞬の出来事故に、朔夜は反応できず。痺れ、動けない彼女の目の前から、タクヤ達の姿が薄れていく。
「待て……くそっ、まて……」
「ゴメン朔夜。でも、僕はやっぱり、ここで終わりたくないんだ。光源氏とやらは、別のを探して欲しい」
「……ぐぅ」
歯軋りしながら朔夜はタクヤを睨み付ける。その目の前に、タクヤは一つ、包み紙を置く。中身は、鼠の天ぷらだった。
「三個は、嘘なんだ。実はもう一個。ごく普通ので申し訳ないけど。今はこれで我慢して。蝦蟇の油の毒は、一時的なもので命までは奪わないから、抜けたら口直しに」
「アフターケアなんてしてんじゃないわよ。狐なら、最後まで騙して貶めていきなさい。……甘すぎるわ」
何処と無く諦めたようなため息をつきながら、朔夜は鼻を鳴らす。もう手が届かない。そう察したのだろう。憂いと。苛立ちと。だが、何処と無く清々しさすら交えた不思議な表情になっている事を朔夜は自分でも気づいていなかった。
タクヤたちの消えていく姿を、朔夜は黙って眺め。ほんの僅かに笑みを浮かべた。
負けることに慣れている。タクヤがそう言っていた事を、朔夜は何となく思い出す。この少年は才はない。だが、恐らくは幾度となく才があるものに打ちのめされ続け、それでも愚直に技と知識を伸ばし続けたのだろう。武骨ながら美しい。確かに朔夜はそう感じていた。だからこそ……。
「ご忠告ありがとう。教訓として覚えとく。約束通り、僕がもっと大きくなったら、天ぷらを供えに来るよ。その時は……友達として会おうね」
ぺこりとお辞儀してから、タクヤと瑠雨の姿が急速に消えていく。神の領域から現実世界へと再び移動していく。それを見送りながら、朔夜は静かに息を吐いた。瞳には、妖しい光が灯っている。見るものに悪寒を走らせるかのような、恐ろしい炎だった。
「教訓とは、痛みを伴うもの。……私にも、意地はあるのよ。神様にだって、時には人間は勝てる。けどねタクヤ。弁えていたかしら? 神様に手を出すと……バチが当たるのがお決まりよ?」
痺れ、力の入らぬ身体を無理矢理動かす為に舌を噛む。強烈な痛みは麻痺した感覚を一時的ながら呼び覚ました。今やほぼ完全に消えているタクヤ達は、当然その様子はおろか、発した言葉には気づいていない。この場での運は、朔夜に味方した。
震える手が振り上げられ、その上に、確かな重量が宿る。それを握り締めた朔夜は、獰猛に舌舐めずりし……。
※
フワリと無音無臭の空間が突如開けて、熱い風と蝉のさざめき。夏の香りが胸を満たした。
帰って来た。
その時タクヤは、確かに安堵で胸を撫で下ろし、気を抜いてしまう。故に、背後からの鼬ならぬ狐の最後っぺを察することが出来なかった。それは傍らにいた瑠雨も同じだった。
「忘れ物よぉ……蛙女ァ!」
ねっとりした女の声。それと同時に、何もないところから槍が飛んできた。大蝦蟇の槍。それは、瑠雨が朔夜に突き刺したまま、あちらに置いてきたもの。あの狐が捨てずに持っていた事にも驚きだが、それをまるで意趣返しの如く利用してくるなど、誰が予想できようか。
二又に裂けた槍の切っ先は、強かに瑠雨の背中を捉えた。
「あ……ぐ……!」
「――っ」
まさに、一瞬の出来事だった。タクヤが目を見開き、手を伸ばした所で、既に後の祭りだった。空中から帰還して、今や自由落下に身を任せていた二人にそれを防ぐ術はない。
狐の執念や怨念すら込めた凶槍は唸りをあげ。直後、湿った何かが破裂するような生々しい音がした。
「そん、な……。そんな!」
悲痛な悲鳴をあげるタクヤの目の前で、瑠雨の身体は槍に貫かれる。
「神通力なんか必要ない。お前のような木っ端妖怪なんて、砂粒と同じよ。……あら、着地点は池なのね。ならば丁度いいわ。絶望に溺れて死になさい。お前には、それがお似合いよ蛙女」
空間の裂け目が閉じ、今度こそ完全に、朔夜の気配が消失する。
「瑠雨! 瑠雨!」
叫び、妖怪の少女にタクヤはすがり付く。槍は既に引かぬかれ、貫通した瑠雨の腹からは、血が一定のリズムで吹き出していく。
「タッく……ごめ……」
それが最後の言葉だった。ザブンという爆音と共に、タクヤの視界は冷たい水で埋め尽くされた。




