神の領域と誘惑
朔夜を名乗る空狐の言葉を聞くと同時に、タクヤは周囲の状況を瞬時に確認する。
間取りは狭い、畳張りの和風部屋。障子襖の開け放たれた軒下からは、空が見える。建物の、少なくとも二階以上上。そうタクヤは直感した。
チリン。と、風鈴の音が耳を擽ると同時に、爽やかな甘い芳香が漂ってくる。清潔な寺院を思わせるような、心をほぐすそれ。白檀のようだ。
「……僕は、神隠しにあったの?」
何となくそうだと感じながらも尋ねると、朔夜は小さく頷いた。
黄金色に輝く髪は結わえられ、桃の花をあしらった簪が刺されている。桃色のはだけるように着崩した和服からは、抜けるように白い肌が覗いていた。絵に描いたかのような花魁姿。美しくも妖しいその姿に、タクヤは思わず呼吸を忘れて魅入られかけ、軽く頭を振る。
いけない。ダメだ。
そう自分の中で唱え続ける。確かに聞いたのだ。朔夜は自分を空狐だと。だとしたら、目の前にいるものはとんでもない規格外だ。
数ある妖怪狐の中で、もっとも長く生きた存在。狐の最上位たる天狐が更に長生きし、隠居した存在が空狐。つまるところ、狐の中でも最も神様に近い存在が彼女なのである。
「君が、タクヤ。姿を見たのはこれが初めてよ。噂は予々聞いていたけど」
「生け贄……として?」
「ええ。見たでしょう? 私が見せた、貴方が生まれてきた意味を」
朔夜は金色の目を細め、頭の狐耳をピンと立てながら肯定した。それを聞いたタクヤは、項垂れるより他はなかった。
夢のように見せられたあれは紛れもなく現実で。自分は初めからこうなるように生まれてきた。重くのし掛かるような運命に、タクヤは歯を食い縛る。
それを朔夜は、困ったような顔で見つめていた。
「そんな顔しないで? タクヤは確かにあの人達には必要とされなかったかもしれない。けど、私には必要よ?」
いつのまにか近くに寄られ、白い手がそっとタクヤの頬を撫でる。
「君は、私がリクエストした一級品なの。私達神様は基本的に暇をもて余している。だから、よりよき娯楽を求めて才能ある者を拐い囲う」
もっと傍にいらっしゃい。と誘う朔夜を、タクヤは首を横に振りながら拒絶する。
朔夜は妖艶に笑っていた。
「貴方のお兄さんはつまらなかったわ。才があると聞いたから拐ったのに。あれはただの井の中の蛙だった。自分より強いのが、今まで傍にいなかったのでしょうね。もとの場所に戻せと私に挑んで……二、三日私に挑んで叶わないと知るや、早々に心が折れて諦めてしまった。何年も食らいついてきた彼の祖母や従者の方が、まだ面白味はあったのに」
ため息混じりにそう語る朔夜。タクヤはそこに少しの光明を見た。
「あの、才能が欲しいなら、僕はもっと期待はずれになりますよ? 僕は恥ずかしながら……」
弱いから。そう言って、拳を握る。思い返すのは兄の活躍だ。あれですら朔夜のお眼鏡に叶わなかったのならば、自分など蛙以下。おたまじゃくしにすら劣るだろう。そう語るタクヤを、朔夜はじっと見つめながら、やがてクチャリと口を歪めて笑い始めた。
「……ああ、違う。違うよタクヤ。別に私は強さを求めてる訳じゃあない。ただ楽しみを。快楽を求めているの。貴方のお兄さん……名前忘れたけど、あれをここまで長く囲ったのだってちゃんと理由がある」
「……理由?」
いまいち話の流れがつかめなくてタクヤが首を傾げていると、朔夜は益々邪悪で残忍な表情を浮かべながら「こん、こん」と両手で招き猫のようなポーズをとり、タクヤをおちょくるように身体を揺する。
「私が才能があると思われる子を拐ったのは、一度や二度じゃない。全部同じならつまらないじゃない。だから、毎回色々なテイストを加えて、飽きるまで遊ぶの」
パチンと指を鳴らす。すると、再びタクヤの視界がスパークし、一瞬のうちに様々な映像が流れていく。
師弟として。
家族として。
友人として。
恋人として。
宿敵として。
奴隷として。
ご主人様として。
玩具として。
見せられたそこには、ありとあらゆる少年少女と朔夜の関係が走馬灯のように流れていく。服や髪型が違うのは、時代の流ゆえだろうか。そこには一つとして、同じものは存在しなかった。始まりや日々。そしてその結末さえも。
修行を終え、世界から飛び出した者。
穏やかに老衰した者。
人ではないものに外れた者。
病に倒れ。それでも尚幸せそうに逝った者。
ズタボロに引き裂かれて死んだもの。
ボロ雑巾のように打ち捨てられた者。
首を括って果てた者。
気が狂った者。
そして……。
「見えた? 君の兄はそう。どちらかといえば、人質としての役割がここにはあった」
少年が最後に見たのは、何もかもを諦めて、絶望したように引きこもる兄の姿だった。
「天才と持て囃され、けどそれが虚構だと知った蛙は殻に綴じ込もった。本来ならさっさとポイして次のを探すんだけど……ほら、あの通り、みーんな必死だったでしょう? あんなのを助けるためにさ」
愉快でたまらないと言うかのように、朔夜は己の腕で身体を抱く。熱い吐息をもらし、艶かしく舌なめずりする姿に、少年はどうしようもない程の恐怖を覚えた。
「何年もそのままだった。現代的にいうなら、にーとを養う家族みたいにね。あれもまた新しい体験だったわ。で……。ついにアイツの従者。生意気な狐娘が死んだ所で、私はアイツに見せた」
「見せたって……まさか……」
震える声を絞り出すタクヤに、朔夜はてへっ。と、舌を出しながら頭に軽い拳骨をして。
「そ。お婆ちゃんと式神達の頑張り物語。貴方が腐ってる間にこんなことがあったんですよ~。助けに来ないから、見捨てられたと思った? 残念皆頑張ってましたぁ! 可愛い狐ちゃんは自殺したよ? 可愛そうに。私とあんなのがニャンニャンする訳ないのにね?」
あ~可笑しい。と言いながら、朔夜は再びタクヤに手を伸ばす。氷のような指に触れられた時、今度こそタクヤの身体は分かりやすく震え上がった。
「その日の彼は素敵だったわ。何年ぶりかに、涙と鼻水まみれで私に向かってきた。今度は……四日位もったかしら? 力じゃ敵わないよってて何度も言ってるのにね。叩きのめした時の絶望的な顔はたまらなかったわ!」
「じゃあ、ばぁちゃんの交渉に乗ったのは……」
「うん、そろそろ限界も見えたからね。聞けば、身代わりにする予定だったっていう弟がいると。そこでピーンときたの。牙が抜けて腑抜けになったあれは返品すればどうなるか。皆の顔が目に浮かぶわ。歳を経て、アイツは変わってしまったとでも思えば最高よ」
指がスワープし、今度はタクヤの唇に。フニフニと押されているだけなのに、タクヤはそれが酷く嫌だった。
「もちろん、君には君で役割はあるよ? 私って後ろは場合によってしか振り返らないの。捨てたおもちゃに興味ないわ。今までの話はこれでオシマイ。未来に目を向けましょう? タクヤ。貴方は……帰りたい? ここにいたい?」
ここまで話して、それを聞くのか。タクヤはそう思ったが、瞬時にそれは無駄なことだと気づく。
この狐は知っている。まともにぶつかれば、自分が確実に勝つと。だからこうして形だけ選択を迫るのだ。
「迷う必要、ある? 君は向こうに居場所はないよ。仮に戻っても、今まで通りの生活が送れると思う?」
「……それは」
「思わないでしょ? 仮面家族って奴になるのがオチよ。なら、ここで私の傍にいない? 私の言うことを聞いてくれるなら、自由だってあげる。学校も行かなくていい。ご飯もある。ずうっとここにいていいのよ」
少なくとも、私は貴方を見捨てない。そう締め括る朔夜の顔を、タクヤはじっと見つめた。
「……一応、僕は何をするか聞いてもいい?」
「タクヤがここにいる。と誓うが先。ね? ね? 誓お。誓って?」
キラリキラリと光る目が、タクヤを見る。神様なんだから意志をねじ曲げられるのでは? そう思っていたが、それは違うらしい。神様も万能でないのだろう。でなければ彼女本人が言っていたように暇をもて余すなどあるものか。最後にもれたドスの効いた声を受け流しながら、タクヤは小さく首を横に振る。その瞬間。朔夜の顔から妖艶な笑みが消えた。
「誓いなよ」
「……嫌だ」
「……誓って?」
「断る」
「誓いなさい。いえ、誓うのよ」
「くどい」
「どうして? だって向こうには……」
「居場所がある。ない。じゃない。僕は……負けるのは慣れている」
タクヤは里山をきっかけに、自分の力の本質と、広い世界を知った。きっと似たような場所は、日本中にあるのだろう。もしかしたら気づかぬだけで、自分の故郷にも。でなければ、いちごちゃんのような陰陽師の家がある事の説明がつかない。
そこでふと、脳裏を幼馴染みの背中がかすめる。狭い世界の中にいて尚、彼女は強く、美しかった。これから成長する彼女は、更に高みへ行くのだろう。敵わないのは知っている。それでもタクヤは、その背中をまだ追いかけたかった。
「ありがとう朔夜。僕も、ばぁちゃん達も踊らされていたと知れて、気づけたよ」
むしろ、それを話さず、最初から寄り添われたら……タクヤは陥落していたかもしれない。はからずも見せられ、語られた真実が、タクヤを冷静にした。誰もが自分の運命に抗うものと気づいたのである。
同時に初めてまともに交流した妖怪蛙を思い出す。彼女は言った。タクヤは今、大海を知ったのだと。井の中の蛙を恥じることはないと。実際には色々的外れだった言葉だが、それは確かにタクヤを勇気づけていく。
「ここで燻るのは簡単だ。けど、それだと僕は一生、大海に挑むことすらできない。生け贄だからどうした。人形だからって関係ない。僕は……僕だ! 僕の成長する時間を、お前が奪うな!」
毅然とした態度で吠えるタクヤを、朔夜はじっと見つめ。やがて、小さくため息をついた。
「眩しいこと。……まぁこんな日もあるわよね」
もう少し大人だったらねぇ。と、開いた胸元をパタパタさせる朔夜。タクヤからすれば、何だか着方がだらしないなぁ。位にしか思わなかった。
「しょうがないから、教えてあげる。君は才がない。そう自覚してるよね。では何故私は交換に応じたでしょー?」
「……兄さんに飽きた。もあるだろうけど、それだけじゃ弱い。ばぁちゃんに、ある程度の力はつけさせて、でも式神と契約させるな。天然の妖怪とは関わらせるな。そう言ってた。だから、僕がまだ半人前であることが重要?」
「おー、才はなくても、しっかり考える力はあるのね」
兄よりずうっといいわ。と呟く朔夜を無視し、タクヤは考える。さっき見た関係性。あの中になかったものは……。
「式神。もしかして、式神になってみるとか?」
少年がそう答えを出せば、朔夜は指でバッテンマークを作りながら、「外れー」と、カラカラ笑った。
「うん、でも関係を作る。今までにないものって着眼点はよし。では答え合わせね。時にタクヤ。……源氏物語って知ってる?」
そう問うた朔夜に、タクヤは首を傾げる。源氏物語を簡単に説明するならば、平安時代中期に成立した長編小説である。陰陽師的に色々な書物を読む最中、押さえるべきか迷い、結局タクヤは調べなかったものだ。いちごちゃんは確か読んでいた。
六条御息所が生き霊になると聞いたときは呪術的な意味で興味がそそられかけたが、結局タクヤには所謂恋愛小説というのが、何だか気恥ずかしかったのだ。
「ふふ、よくは知らないと……それは素敵。いや私はね。光源氏の逆バージョンをやってみたくなってさ。つまり、小さなうちから。かつ、それなりに妖怪やらに理解がある少年を、私好みの男の子に調きょ……コホン。仕立てあげる的な?」
少しずつ。朔夜がずりずりとこちらへ迫ってくる。パチンと指が再び鳴らされて。気がつくと、部屋の隅にバカに派手派手な布団が一組敷かれていた。
「な、何を……!」
「え~? 何って。ナニ?」
意味は分からないが、何かよくないことだと、タクヤの動物的な勘が働いた。
朔夜はハァハァ……と、鼻息荒く迫ってくる。タクヤはとっさにショルダーバックを掴もうとして……。
「な、ない!?」
それが手元から離れている事に気づく。少年の身を守るための救急セットは、いずこかへ消えていた。まさか、連れていかれているときに落としてしまったのだろうか?
「ああ、君以外に尻尾に引っ掛かってたやつなら、下に捨ててきたよ。何があるか分かったものじゃないし。対策なんかあった? ごめんね? 戦うのは前のオモチャで飽きちゃったの。だから、没収ね」
ウインクする朔夜は、一気にタクヤの脇下に手を入れて持ち上げる。流れるように布団に放り投げられたタクヤが次に見たのは、木造の天井と、覆い被さるように迫ってくる朔夜の顔だった。
「大丈夫。お姉さまにまかせて。初物よね? 唇もまだ、誰とも結んでいないでしょう? タクヤの初めては、全部ぜえんぶ私のも……の……?」
朔夜の言葉が不意に切れる。形のいい鼻をひくつかせ。途端に端正な顔立ちが訝しげに。そのまま憤怒へと切り替わる。
「……どういうこと? どういうこと!? 話が違うじゃない! 穢れないって。そういう約束で……なのに……何で貴方こんなに女の香りがプンプンしてるのよぉ!」
髪を振り乱し、タクヤの胸ぐらをつかんだままガックンガックンと揺さぶる朔夜に、タクヤは目を白黒させるより他はない。半ば「あ、ダメだ。今は逃げられない」と思っていた矢先だったので、何故こうなったのかなどタクヤにはわからなかった。
タクヤが混乱していると、目の前に激怒した朔夜の顔が大写しになる。綺麗な人が怒るとこんなに怖いんだなぁ。と、子どもながらにタクヤは思った。
「貴方、経験は!?」
「けいけ……なんの?」
「キス! 誰かとしたことは?」
「な、ない。ないよ!」
「セックスは!」
「せっ……何?」
「交尾!」
「そ、それは動物が……」
「人間も動物じゃろがぁ!」
「し、知らない! 知らないよ! 人間も!?」
少年タクヤ。少しだけ世の神秘に触れた瞬間だった。
「……まさか、誰かが寝てる間に?」
「あの、だから、何を言って……」
「誰よ! 誰なのよこの匂いはぁ! 明らかに最近! 女に色々吸われたような匂いがするのよぉ!」
きぃいいっ! と、地団駄を踏む朔夜に最早威厳などなく。注意力もなかった。それ故に。すぐ近くから誰かが走ってくる気配にも、反応することは出来なかった。
「タッくんを……離せこの変態ぃ!」
パコォン! と、テニスのサーブのような小気味がいい音が響くと共に、タクヤは解放された。吹き飛ばされた朔夜は、襖をぶち破り、奥の部屋へ。また更にそこの襖を破るというコントのような芸当を見せた末、「うぐぅ……」とうめき声を上げながら倒れ伏した。
「タッくん、無事? 変なことされてない?」
ふわりと、柔らかなクッションみたいな感触がタクヤを包み込み。白檀に支配された空間に、雨に濡れた花の香りが混じる。優しくも懐かしいような香り。ショウブの花だ。
「……ったく、天狗といいこの神様といい。何で強い妖怪ってみんな変態なの? 信じらんない!」
まぁ、ボクも今回ばかりは人のこと言えないか。そう呟きながら、その妖怪……。瑠雨は、きゅっと腕の力を強めた。
包まれていることにくすぐったさを感じてタクヤが身を捩ると、瑠雨はますます強くタクヤを抱き締めた。
「瑠雨? どうしてここに?」
首を回すと、瑠雨は片手に二メートルほどの刺叉を思わせる槍を携えていた。大蝦蟇は槍を持ってるんだっけ。と、記憶の隅から知識を引っ張りだしていると、奥の部屋からギリギリと、凄まじい歯軋りが聞こえてきた。
「ふーん。そういうこと。そーゆうことかぁ」
ユラリと起き上がる朔夜は、肩を震わせていた。大袈裟な位に鼻をフンフンと鳴らし、怒り一色になった顔をゆっくりと上げた。
「ただの蛙だし。いらねって捨ててきたけど、ここに辿り着けたか。加えてその匂い……。お前か。私からタクヤを横取りしたのは……お・ま・えかぁああ!」
怒髪、天を衝く勢いで捲し立てる朔夜に、タクヤが思わず身体を強ばらせると、瑠雨は安心して。というようにタクヤの頭に顎を乗せる。それを見た朔夜の表情は、般若を通り越して閻魔もかくやの酷い形相だった。怖い。と、素直に首を振りながら、やっぱりあなたの所には行きませんとアピールしていると、頭上で瑠雨は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「タッくんが嫌だって言ってるから仕方ないよね? というか、横取りとは人聞き悪いな。だって……」
だが、そこでタクヤは気づいた。瑠雨の身体は小刻みに震え。水掻き付きの手に至ってはひんやりしっとりと汗ばんでいる。今更言うまでもなく、空狐と大蝦蟇では、話にならないほどに格が違うのだ。その事実は他の誰よりも、瑠雨が知っている筈だった。
それでも。それでも瑠雨は、一人の少年の為に神へ啖呵を切った。
「タッくんは……タッくんは〝文字通り〟ボクが最初に唾つけたんだもん! もう神様でも覆せるもんか! ざまーみろ!」
槍を突き付け、勇ましく叫ぶ瑠雨の顔は、何故か耳まで真っ赤だった。それを見たタクヤは暫し頭を整理して……。
「……あ」
唐突に、出会い頭の勘違いを思い出した。