第五章
彼は助けて欲しいと、そう言って男を見た。
男は薄暗い部屋の中で眼を見開いた。
湿った黴臭い臭いが部屋を満たしているが、既に慣れてしまった。
強ばった身体を動かすとあちこちが悲鳴を上げる。
家族はどうなっただろう。妻と幼い子供は。
それを考えると恐ろしく、いても立ってもいられなくなる。
彼等は男のやってきた事を知らない。
知ったら、どう思うだろうか。
視線を転じた床の上に、夜目にも白いものが幾筋も散らばっているのに気付き、男は痛む腕を伸ばした。
毛足の長い純白のそれを一本摘み、目の前に持ち上げる。
『助けて欲しい』
男は小さく笑った。それは自嘲の響きを孕んで暗い室内に散る。
『どうか』
自分達は。
――自分は、一体何をやってきたのだろう。
そんな事に至るまで、本当に何も考えて来なかったと言うのだろうか。
恐怖に似た感情が身を震わせ、男は身体を抱え込むように蹲った。
『彼女は』
「やめてくれ、聞かせないでくれ」
泣き声に近い響きで振り払うように呟く。
間に合うだろうか。
間に合わなければどうなるのだろう。
もう既に、一歩違えてしまっている。
「違う」
既に、大きく違えているのだ。
男はもう一度、自らを嘲るように笑った。
笑うしか成す術がない自分を嘲り、低く笑い続けた。