第二十一章(一)
その二日後、ロットバルトは再び、旅装を整えて中庭に向かった。
夜が明けたばかりだというのに、既に中庭には先日と同じく飛竜が二頭、待機している。
先日とは違う、右側の銀翼のそれは、レオアリスの乗騎だ。
その傍らにレオアリスの姿があった。手を伸ばし、嬉しそうに顔をすり寄せる飛竜の長い首を撫ぜている。
隣で翼を震わせている黒竜は近衛師団兵の乗騎で、二頭の飛竜の背には既に幾つかの木箱が括りつけられていた。
レオアリスが自分の乗騎を用意しているということは、今回は特に立場を秘しての行動ではないようだと、ロットバルトは口元に笑みを刷いた。
「……今度はどちらに?」
「お前、前回の教訓を生かして今度は服を変えようとか、そういう事しないのか」
相変わらず、簡素ながらも一目で上質と判る旅装に、レオアリスは呆れた顔を向けた。
「生憎とこうしたものしか、似合わないもので」
「……そこまで言われると、いっそ気分がいいよなぁ」
乾いた笑いを洩らし、持っていた飛竜の手綱をロットバルトへ投げる。
「ま、いいや。ちょっと付き合え」
そう言うとさっさと飛竜の背に飛び乗り、飛翔させる。
「どこに……」
慌てて天を振り仰いだものの、既にレオアリスの乗騎は上空高くに位置している。ロットバルトは諦めて飛竜の背に跨った。
ロットバルトが上がってくるのを待ち、レオアリスは改めて口を開いた。
「王からの御下賜を届ける」
事も無げに言うが、王の使者だというのに全くの平服とは、さすがに使者が近衛師団の将校であったとしても、相手方に失礼にあたるのではないだろうか。
ロットバルトの表情を見て取り、レオアリスは軽く笑った。
「気にするな、届けるのは俺の故郷だ。まあちょっと遠いが、今からなら夕刻までには向こうに着くだろう」
そう言って驚くロットバルトを余所に、レオアリスは騎首を北に巡らせた。
ほどなく王都が眼下から消え去り、次第に家や畑も疎らになる。
それに反比例するように、足元には鬱蒼とした森が広がりだした。
果てしない森の中に、時折、街道や街や村、川の流れが覗く。
「何をお届けになるのか、伺ってもよろしいですか」
「書物だよ、最新版」
答えはないかと思ったが、レオアリスは嬉しそうに眼を輝かせ、騎上からロットバルトを振り返った。
「書物?」
「昔、王と長老達との間で、何か取り決めをしたらしくてな。毎年一回届けられた。
色んなのがあったぜ、法術書とか、歴史、地理、数学。物心付いたときからそれが結構楽しみで、特に冬に雪で村が閉ざされてる間は何度も読み返してた。そうしてりゃ、腹が減ってるのも忘れるし。爺さん達が貴重な書物に触っても怒らなかったのは、そういう理由があったんだろうな」
可笑しそうに声を上げて笑う。
王との間にそんな関わりがあった事に驚きを覚えて、ロットバルトはレオアリスの顔を眺めた。
それが、レオアリスの王に対する憧憬の理由だろうか。
「俺が王都に出てからは、こうして毎年自分で持っていってる。ちなみに扱い、休暇だから」
「私も、ですか」
「出しといた」
悪びれもせず、当然のようにそう言うと、レオアリスは手綱を引き、飛竜の速度を早める。
異議を唱えるのを諦め、ロットバルトも乗騎の速度を上げた。
王都を出たのはまだようやく太陽が上がり始めていた頃だったが、今はゆっくりと西に傾き、黄昏に近い色を放っている。
眼下に広がっていた深い森が一段と濃さを増し、辺境に近づいたことを感じられるようになった頃、レオアリスは騎首を地上に向けた。
その前方にぽつんと、眠ったように静かな村がある。
古びた小さな家が点在するその先には、幾つかの低い山と、今通り過ぎてきたよりも更に深い森が広がっている。
視界の端が霞むほどの、行く者を拒むような鬱蒼とした大森林――。
北の辺境に横たわる、黒森、ヴィジャだ。
(――ここが……)
飛竜は村の中央に位置する広場に、ゆっくりと弧を描きながら下降した。
レオアリスの故郷。
近衛師団の将校が出たというのに、そこは栄える様子も無く、ただひっそりと佇ずんでいた。
「俺が財を送っても、何にも変えようとしないんだ、ここのじじいどもは。だから無駄な事を言うのはもう止めた」
その言葉ほど、声に不満の色は無い。
貧しい佇まいながら、ミストラのあの街のような荒れ果てた空気はそこには無かった。
飛竜が降下したのを見て取ったのだろう、数人が家の中から顔を出し、二人の方へやってくる。
レオアリスは広場の脇に立つ木の幹に飛竜を繋ぐと、その背に括っていた箱を担ぎ上げた。
「お持ちしましょう」
延ばされたロットバルトの手を断る。
「気にするな。お前休暇中だろ」
に、と笑みを浮かべてロットバルトを見上げ、出迎えに来た村人達の方へ足を向ける。
「……お陰さまで」
苦笑を禁じ得ないまま、改めて近付いてきた村人達に眼を向け、ロットバルトはその姿に眼を見開いた。
鳥の頭と、黒い翼を持った姿。
その姿はレオアリスとは、似ても似つかない。
彼等は表情の見えにくいその顔の上に温かい笑みを浮かべ、代わる代わるレオアリスの身体に腕を回して抱き締め、その背を数度叩いた。
一人の老人が自分よりも僅かに背の高いレオアリスを見上げ、皺枯れた深い声に嬉しそうな響きを籠めた。
「よく戻ったな。元気そうでなによりじゃ」
「爺さんたちもな。まったく、相変わらずしけた生活してんなぁ。年寄りなんだから、もっと贅沢しろよ」
「子供が、偉そうな口を利くな。そちらの方は」
少し離れた所に立っていたロットバルトに視線を向けると、レオアリスは声に心外そうな色を滲ませた。
「方はって、こいつは俺の部下だよ」
「第一大隊参謀本部付きの、ヴェルナーと申します」
左腕を胸に充て一礼するロットバルトと目の前のレオアリスとを何度か見比べ、村人達はさも可笑しそうに笑った。
「お前よりも立派に見えるわ。ガキのくせに部下とはの」
「歳は関係ねぇだろ」
「果たして上手く一軍を治められているのやら。さあ、こんな所で立ち話もなんだ。お入りください。ご覧のとおりのあばら家で、何も持て成すものもないが」
そう言うと老人は、広場のすぐ脇にある木の柱と土壁で出来た粗末な小屋に二人を手招く。
まだ話し足りないだろう村人達に軽く手を振って、レオアリスは小屋へ向かった。