第十五章(三)
その指示を背後に聞きながら、ロットバルトは再びレオアリスに身体を向けた。
だが、踏み出そうとした足は、何かに圧されでもするかのように、前に進まない。
「お前、も、行け」
「しかし」
「いいから、早、……っ、あ」
レオアリスの瞳が大きく見開かれた。
地面に衝いていた腕が、がくんと折れ、額が地面の上に落ちた。
身体を包む青白い光が、急激に強くなる。
「あ、あああっ」
肺から吐き出されるような悲鳴。レオアリスの足元から、放射状の亀裂が走った。
立ち尽くしていたロットバルトの腕をヴィルトールが掴み、強引に飛竜の上に引きずり上げ、一息に上空へと駆け上がる。
一瞬後、突風が起こり、レオアリスを中心に巻き上がった。
周囲の木々が巨大な斧で断ち切られたかのように、次々と倒れていく。
山肌に亀裂が走り、次の瞬間、轟音とともに斜面が陥没した。
崩れ落ちる土砂がレオアリスの身体ごと、燃え残った村を飲み込んでいく。
「上将!」
上空を旋回する飛竜の背中から身を乗り出し、ロットバルトは崩れ落ちる土砂を覗き込む。飛び降りようとした肩をヴィルトールが抑えた。
「これは一体、何が」
「……分からない。今まで、見た事がない。ただ、力が暴走してるとしか」
もうもうと立ち上った土煙が、青白い光に切り裂かれる。
光は急激に膨れ上がり、爆発した。
崩れ落ちた土砂が、爆発の衝撃に、上空へと吹き飛ばされる。
降り注ぐ土砂の幕の向こうに、未だに蹲ったままのレオアリスの姿を捉え、ロットバルトは僅かに息を吐いた。
山はその斜面の半分が、抉られたように崩れ落ちている。
これほどの力の噴出を無理に身の裡に抑え込もうとすれば、レオアリス自身も無事で済むとは思えなかった。
苦痛を表すように明滅する光。
(どういう事なんだ?)
レオアリスの姿を捉えたまま、ロットバルトは素早く思考を巡らせた。
これまでに積み重ねられた幾つかの要因。危うさを感じる時は確かに数度あった。
しかし直接の切っ掛けは、おそらくあのアリヤタの女の死だろう。
それがレオアリスにどんな影響を与えた?
だが今は原因を考えている時ではない。
レオアリスの意識が保たれている間に抑えなくては、あの状態ではいずれ苦痛は意識を飲み込む。
「……何とかして抑えなくては」
何とかして、とは随分無策だとロットバルトは我ながら呆れた。何の為の参謀官か。
けれどこの状況では、確実な手段などそうそう思いつきもしない。
苛立つ思考を抑え、ロットバルトはヴィルトールを振り返った。
一つ。だがその方法は。
「……術士は?」
「いるが、」
剣士を抑えられる術士など、そうはいない。ましてレオアリスほどの剣士だ。
その暴走を抑え込めるとしたら、四大公か……。
続く言葉を飲み込み、ヴィルトールはすぐ横を飛んでいる飛竜を手招いた。程なく、隊の術士三騎がヴィルトールの傍に乗騎を寄せる。
「これだけか。……一時的にでもいい。抑えられるか?」
術士達は不安を隠せないままお互いに顔を見合わせたが、それでもヴィルトールに頷く。
「全員でやれば、おそらく……」
「では、すぐに取り掛かれ」
青白い光は球状になり、不規則に拡縮を繰り返している。
光が広がろうとする度に、斜面が崩れ落ちていく。
術士達は光を囲むように飛竜を散開させると、その場で詠唱を始めた。
詠唱と共に、それぞれの術士の足元から光の筋が中央に向かって走り、上空に白く光る法陣が結ばれていく。
身体の中で力の塊が外に出ようともがく。
抑え込もうとする度に、全身の骨が軋むような激痛に、意識が混濁する。
鬱蒼とした森を照らす炎と、
焼け爛れ、崩れ落ちる家。その崩壊の音。
自分に覆い被さるように倒れ掛かる、
紅く染まった身体。
頭の中で何かが弾ける。
激しい音と共に、近衛師団兵の詠唱が断ち切られ、形を結びかけていた陣が消滅した。
「だめです! 弾かれてしまう」
「まだだ、もう一度……」
『これを』
ふいに声がかかり、ヴィルトールは声の主に視線を向けた。
傍らの飛竜に乗せられていたアリヤタ族の老人が、抱えていた袋から黒い塊を取り出し、差し伸べる。
彼らの内臓から造られた、触媒。
『術を強化できる。使いなさい』
ロットバルトが息を吐く。それが唯一、今できる確実な方法だ。
ヴィルトールは戸惑ったように、その塊を見つめた。
「……気持ちは有り難いが、それを使う事を、上将はお許しにならないだろう」
『我々の意思でお渡しするのだ。気にする事はない』
目の前に出された触媒を使えば、今の状態を抑えられるのだろう。だが。
「――躊躇している暇はありません。ここで抑えなければ、結果は目に見えている」
光の中心に目を据えたままロットバルトに、ヴィルトールはまだ迷った目を向けた。ロットバルトが肩越しに視線を寄越す。
「最善の策は、それしかない。言い訳は後で考えましょう」
レオアリスがどれほど厭おうと、今ここで失う訳にはいかず、ましてやこの暴走をただ見ている訳にもいかない。
ヴィルトールは蒼い瞳を覗き込み、軽く溜息を付いた。
「……仕方ない」
ヴィルトールの考えもまた、ロットバルトのそれと違いはない。アリヤタの手からその黒い塊を受け取ると、ヴィルトールは背後を振り返った。
「他の者達は街の手前まで退け。残るのは術士だけでいい。……それと、あなた方の内どなたか一人、残っていただきたい」
触媒を差し出した老人が頷く。
ロットバルトはヴィルトールの手から、アリヤタの触媒を受け取った。乾いて軽いはずのそれは、ひどく手に重く感じられる。
詠唱が流れ出し、レオアリスがいる谷の上空に、再び光の法陣が結ばれていく。
今度は全ての像が完全に結ばれ、陣は光を増した。
「どうやる?」
ヴィルトールがアリヤタを振り返る。
『陣の中心に、投げ入れるだけでいい。それで術は強化される』
陣の下では、青白い光球がじりじりと膨らみ続けている。ロットバルトは手にしていた触媒を投げ入れようと、腕を上げた。
繰り返し、激しく明滅するように現れ、消える映像。
その度に、身の裡の脈動が強さを増す。
(――こんなものは、知らない)
炎に包まれ、崩壊する家々。
繰り返し。
目の前に転がる、血に塗れた身体。
繰り返し。
(やめろ、知らない!)
上空に異様な気配を感じ、レオアリスは瞳を上げた。
青白い光を通して、そこに何かがある。
アリヤタの……。
「よせ!」
身体を起こそうとした瞬間、全身の骨が砕けそうな程に軋んだ。
意識が霞む。
急速に広がった闇が、足掻く意識を呑み込んだ。
――よせ。
たった一度だけ、レオアリスの声が聞こえた。
すぐに光の中に埋もれる。それと共に、光が急激に膨らんだ。
ロットバルトは僅かに躊躇した腕を、再び持ち上げる。
「聞けませんね。貴方が罪を感じる必要はないと、申し上げたはずだ」
法陣の中央に向かって投げ入れようとした瞬間、法陣が激しく明滅した。
「! 何だ……」
水に浮いた糸のように、ぐにゃりと歪む。
「上将?」
「違う……」
ヴィルトールが灰がかった鋼色の瞳を見開き、上空へ向ける。ロットバルトはその視線を追った。
歪んだ法陣の上空に、大気が渦を作っている。
雷鳴のような響きと激しい圧力の塊がその中心から叩きつけ、山肌に生える木々が嵐に煽られるように大きくうねった。
渦の中心が、地上に向かって膨らむ。
大気の固まりから巨大な手が生まれていく。
山を一つ掴めそうなほどのその手は、僅かに金色の光を纏った。
「……王……!」
畏怖の響きを露わに、ヴィルトールは飛竜の背の上に跪いた。打たれたように、ロットバルトも膝を折る。
中空に出現した手は、地上に向かって伸びると、その指を広げ、膨張を続けていた光を掴んだ。