第十五章(二)
飛竜が地面に降り立つのももどかしくその背から飛び降りると、レオアリスは燻る村の中央に立つ右軍中将ヴィルトールの姿を認めて駆け寄った。
兵達が一斉に跪いて迎える。
「アリヤタ族は」
木を組んで作られた家々からは燻った煙が上がり、あちこちに警備隊士らしき者達の倒れ、或いは近衛師団兵によって取り押さえられている姿が見える。
ロットバルトも傍へ寄り、ヴィルトールと視線を交わしてから、その指差す先に視線を向けた。
少し離れた場所に、周囲を近衛師団兵に囲まれるようにして、保護されている半獣達が見えた。
犬に似た身体を持ち、全身を純白の毛並みに覆われた美しい姿をしていたが、今はそれも土と血に汚れ、誰もが疲れ果てたように座り込み、俯いている。
その数は十体にも満たない――。
レオアリスは焦燥の入り混じった瞳で、彼等を見渡した。
「……この中に、街から逃れてきた者達はいるか。幼い子供と、その親だ」
レオアリスの言葉にヴィルトールは一旦彼等を見渡してから、首を振った。
「ここにいるのは成獣ばかりです。今のところ、子供は見当たりません」
レオアリスは強張った顔のまま黙り込んだ。その手が強く握り締められる。
「――早急に探させろ。まだ山中にいるかもしれない」
ヴィルトールが頷き、数名の兵を呼び寄せる。
レオアリスはアリヤタ族に歩み寄り、胸に左腕を当て一礼した。
「近衛師団第一大隊大将、レオアリスと申します」
身を寄せるように座り込んでいたアリヤタ族の内、年を経た一体が、疲れ果てた眼をあげた。
「王の名の下に、あなた方を保護する。――また、かつて術士として呪術の売買に携わっていた者として、できる限りの事はしよう。別の地を用意してもいい」
敢えて告げただろう術士という言葉にも、その眼に憎しみの感情を浮かべる事すらない。
アリヤタの老人はゆっくりとその顔を横に振った。
『……必要ない。我々はこの地で生まれ、この地で生きてきた。何も持たず何も無かったが。そしてこの地で死んでいく。――今更、この地を離れる気はない』
長い年月の末に疲れ果て、しわがれた声。
レオアリスは身体を起こし、その落ち窪んだ眼を見返した。
「そんな事に甘んじるのか? すでに滅びかけているんだ、このままここにいても、何にもならない」
『他の地に移っても、もはや変わりようがないだろう』
「しばらくの間軍の警護も付けよう。警備隊は新たに組織する。安全な地で暮らして行ける」
だが、アリヤタ族の顔の上に浮かんだのは、望みを持たない諦めの色だ。
誰もが、再び俯いて動かない。
アリヤタの老人は、白い毛に覆われた顔の裡で少し笑ったようだった。
『貴方は、何故我々の内臓が術具として利用されるようになったのか、ご存知かな』
レオアリスは戸惑ったように、ただ首を振る。
続く言葉は、その場の全ての者の言葉を奪うのに、十分なものだった。
『――我等は、自ら売ったのだよ。……自分達の、内臓を』
僅かばかりの食料に、代える為に。
燻る熱の篭った筈のその場が、やけに寒々しく感じられる。
誰からとも無く、詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
どこまで行けば、底辺に辿り着くのだろう。
辿り着いたところで救いの無いそれを見たいとは思わないが、それでも、そう思わずにはいられないものがある。
『……我々が、術具として捕獲されるようになったのは、我々自身の愚かさ故でもあるのだ。
かつて貧しさを嘆き、我々は話し合った上で、村に伝えられていたそれを、外界に売った。それは我々の飢えをしのいでくれた。
初めの内我等は、まるで穀物でも取引するかのように、半ば得意げに、それを売買したものだ』
それは彼等が思った以上に容易く、高額で取引された。
村は一時潤い、これでもう飢えなくて済むと、誰もが喜んだ。
だが。
『無論、それが何から創られたか、一切を伏せたが――いずれ探り当てられた。亡くなった一族の身体から、我々はそれを作っていた』
とつとつと、疲れと諦めだけを滲ませた声が続ける。
『出すべきではなかった。我々は、別の道を探すべきだったのだ。だが、今更それを言ってももう遅い。結果はご覧のとおり』
老人は首をめぐらせ、燻り続ける打ち壊された村を示した。もはやこの場所に住む事は難しいだろう。
けれども、本当に失った物は、それではない。
「だからこそ、これからは……」
だが、その先の答えは判っていた。アリヤタの男が、ジウスに告げたではないか?
老人の声が低く低く、熱の燻るその場を這う。
『無理なのだ。……術具には、女の方が価値が高かった。――この村にはもう、女はいない。最後の一人は、もう何日も前に連れて行かれた』
その場にいた全員が、押し殺したように息を呑み、ただ黙ったまま白い半獣達を見つめた。
『彼女は、アリヤタ族の最後の女だ』
アリヤタの男は、ジウスにそう言ったのだ。
彼女を失えば――アリヤタ族は、滅ぶ。
アリヤタ族が、この先子を成し、再びその数を増やしていく事は、もはや有り得ない。
燃え残っていた柱が音を立て、燻った煙と灰の中に崩れる。
レオアリスは尚も抵抗するように言葉を継いだ。
「彼等は逃がされたと聞いている。今、軍が山中を押さえている。まだ分からない」
『我々が滅びるのなら、その理由は、この身の裡にある』
「やめてくれ! そんな事を納得するのか!?」
『……我々はここで滅びて行く。子孫を増やそうにも、子を産むものがいないのだ。
我々の身体から作られた呪物でさえ、失われたそれらを再生させる事は出来ない。……もはや止める手立ては無いのだよ』
どんな秘術も、失われた命を戻す事はできない。
失うのは驚くほど容易く、取り戻す事は至難だ。
そして多くは、失われて初めて、その事に気付く。
失うのは何故、そんなにも容易い?
何故、考え直し、やり直す猶予を与えてくれないのか。
正しい選択は、どこにあった?
レオアリスは、自分の中で何かが、微かに脈打つのを感じた。
鼓動と合わさるように、一定の脈動を刻む。
老人の、穏やかとさえ言える声。
『戻す術も知らないままに、我々はそれに手をつけた。もう、終わりにしたい。
――我々はこの地で、ゆっくりと最後の時を待とう』
打ちのめされたような静寂の中、レオアリスは自分の中で鳴る鼓動を数えた。
鼓動と重なり合っていた脈拍が、次第に鼓動を超えて大きくなる。
飛竜の羽音が響き、一頭が村の外れに降りた。視線が向けられる中、二人の近衛師団兵に押しやられるように、数人の男達が降ろされる。
続いてまだ小さなアリヤタの子供が走り出ると、戸惑ったように辺りを見回し、仲間の許に駆け寄った。
一人が腕を広げ、その身体を抱きとめる。まだ母親から乳を与えられる程の年だ。
地面に下ろされた麻袋から、乾いた血がこびり付いた白い毛が覗いている。
ロットバルトが歩み寄り、その前に膝を付くと袋の口を開けた。腹部を切り裂かれた白い身体が、レオアリスの眼にもちらりと映る。
アリヤタ族が悲痛の声を洩らした。
「これは?」
傍らの兵にロットバルトが顔を向ける。
「母親です。幸い、その子供だけは無事でしたが……」
立ち尽くしたままその光景を見ていたレオアリスの視界を、一瞬何かの映像が過ぎった。
家を舐める炎。血。
誰かが、倒れて……
どん。
身体の中で、激しく叩きつける音に、レオアリスは視線を鳩尾に落とした。
「……上将?」
ロットバルトが様子に気付いて顔を上げ、訝しそうに眼を細めた。
レオアリスの身体の周りを、かすかな青白い光が取り巻いている。
剣光――。レオアリスの剣が纏う光だ。
胸元の青い石の付いた飾りを、震える右手が握り込んでいる。まるでそこで手を支えているかのようだ。
その手が、引き寄せられるように下がり、鳩尾に当てられた。
黒い瞳が、苦しげに歪められたかと思うと、レオアリスは崩れるようにその場に膝を付いた。
鳩尾を掴んだ手は、込められた力の為に血の気が失せ、白い。
「上将!」
手を当てているのは、レオアリスの剣――彼の十三対目の肋骨がある辺りだ。
最初は、剣を出すつもりなのかと思った。
だが、違う。
抑えようとしているのだと、そう気が付いて、ロットバルトは立ち上がる。
「……寄、るなっ」
噛み締められた歯の間から押し出される声。
一歩踏み込んだ途端、鞭のように叩きつける風が、ロットバルトの頬を弾いた。
刄が掠めたかのように、皮膚が裂ける。
「な」
「退け……っ」
自分の中で荒れ狂う何かを抑えるように身体を屈めたまま、レオアリスは上空を指差した。
一瞬の躊躇の後、ロットバルトは背後を振り返った。
「ヴィルトール中将! 退去を! 飛龍で上空へ」
不審そうに振り向いたヴィルトールの眼が、蹲ったレオアリスの姿を捉える。
「上将? ロットバルト、何が……」
「分かりません。ただ、退けと」
何かが砕ける音に振り返る。
レオアリスの足元がひび割れ、陥没している。
ヴィルトールは踵を返し、本隊へと走った。
「アリヤタを飛竜に乗せろ! 全騎上空へ上がって待機! 急げ!」