第十章
朝になってもジウスの現われる気配は無かった。レオアリスの黒い瞳の中に、翳りの色が浮かぶ。
「仕方ない、行こう」
もし来た時の為にと、宿に言伝だけ置いて、二人は宿を出た。
昨夜は暗くて判らなかったが、ミストラ山脈は既に街の東を阻むように、高く目前に連なり聳えている。
山脈の尾根から湧き出したかのような厚い雲が、空を塞いでいた。
街の門へと歩き出そうとした時、抑えた声が掛けられる。
振り返ると、路地の陰に中壮の男が立ち、二人を素早く手招いた。
昨日宿にいた男達の中に見た顔だ。
レオアリスが歩み寄ろうとするのをロットバルトは一度止めたが、それを手で押さえて男に近寄る。
男は二人が自分の方へ来るのを見て、更に数歩、細い路地の奥に退った。
「何の用だ」
石の壁に手を付いてレオアリスが問うと、男は誤魔化すような笑みを浮かべる。
「あんたら、サンデュラスの商人と会えたのかと思ってな」
ロットバルトが傍目には分からない程度の、警戒の色を蒼い瞳に浮かべる。
男の眼に少しの間視線を注いでから、レオアリスは首を振った。
「――残念ながら、会えなかった」
「なるほどなぁ」
男は一人納得したように頷くと、二人に意味ありげな視線を向けた。
「何だ?」
「……今はものが少ねぇ。分かんだろ?」
「何の事だ?」
レオアリスの瞳に浮かんだ光が鋭さを増す。
男はその光に僅かにたじろいだが、浮かべた笑みを崩さないまま両手を軽く広げた。
「とぼけても無駄無駄。わざわざサンデュラスの奴と商売するなんて、目的は一つしかねぇよ。忠告しといてやるが、一般にゃ知られてなくたって聞く奴が聞きゃあすぐ判る」
「――」
「別に軍に突き出そうってんじゃ無い。ただ、せっかくエザムからはるばる来といて手ぶらで帰るんじゃ、商売上がったりだろ。
ま、おたくら商人風にも見えねぇから、単に道楽かもしれねぇがよ。……街に直接行けば、もしかしたら手に入るかもしんねぇ」
「……どこで」
「教えてやんなくもねぇが……」
そこで言葉を切り、右手の掌を上に向け、親指と人差し指の二本の指を軽く弾く。
レオアリスは小さく溜息を吐いた。
「場所と、店なら店の名前。幾らだ」
「そうだなぁ。場所で十、店の名で五。銀貨でな」
銀貨十五枚といえば、王都でも中流の住民達のひと月分の稼ぎに相当する。レオアリスはもう一度、話にならないというように大きく息を吐いた。
「アホか。確証も無い情報に誰がそんなに出すかよ。合わせて五」
「十四。その後ろのキレイなのは金持ってんじゃねぇのか? 見たとこ、十五なんてそいつの着てる外套一枚にもならねぇぜ。なぁ」
男は探るような目つきでロットバルトに顔を向けたが、レオアリスはそれを無視して短く言葉を告げる。
「六」
「……十三でどうだ」
「六。たった二言喋るだけでそれだけ入るんだ、十分美味しいだろ」
「十二!」
レオアリスがただ肩を竦めて譲る気の無い事を見せると、男は大げさに息を吐いた。
「ちっ。……先払いだ」
突き出された男の掌の上に、取り出した銀貨六枚の内、三枚だけを乗せる。
「……ガキのくせにしっかりしてやがんなぁ。――鍵屋通りのエルロイって店に行ってみな。そこなら金次第で、ま、ほぼ確実に手に入る」
受け取った硬貨を懐にしまって男が路地を出るのを見送り、レオアリスは重い息を吐いて路地に寄りかかった。
視線を上げた先には、建物に一部切り取られた灰色の空が見える。
「あんなのが多いのか。思った以上に流れてるな」
真偽はともかく、ここまで簡単に情報が手に入るのは、決していい傾向ではない。
アリヤタ族の内臓の密売が、想像以上に容易く、一般化している事をも意味する。
「一件一件上げても埒が明きません。根元を押さえればそこから張った根を伝える。まずはサンデュラスに向かいましょう」
頷いて、レオアリスは壁に預けていた身体を起こした。