第九章
木々の間を足音が走る。
深い闇を幾つもの松明の灯りが過ぎる。
彼は遠くへ逃げるつもりだった。妻と子等が隠れている場所とは逆へ。
なるべく遠くへ。
彼等だけは、何としても、どうあっても生き延びさせなければいけない。
右手の木の影から男が二人飛び出す。慌てて方向を変えた。
白い毛に包まれた長い尾が跳ねる。
「いったぞ、捕まえろ!」
視界の先に別の影が躍り出る。
彼は地面を蹴り、斜面に突き出した岩を駆け渡り男達の頭上を越す。
土に降り立ち再び駆け出そうとした彼の目の前に、どさりと白い固まりが落ちた。瞳が驚愕に見開かれる。
『! ラー!』
高く叫んで白い毛並みに包まれた、小さな身体に駆け寄る。
べっとりと赤い血に濡れ、すでに事切れた身体を、震える腕が掻き抱いた。
男達が悠然と彼の周りを取り囲み、地面に蹲った姿を見下ろした。
「テメエだけ逃げようなんて、大した根性だよなあ。ガキは恨んでるぜ」
「お前も馬鹿だな。隠したつもりでも、ガキがぴーぴー鳴くからすぐ居場所なんてわかっちまう」
喉の奥から低い唸りが漏れる。犬に似た鼻面の上に皺が刻まれ、牙が剥き出される。
だが男達の手にする武器の前に、それは余りに力なく見えた。
赤い瞳が、一人の男が手に提げた袋を捉え、大きく見開かれた。
袋は大きく膨れ、布に赤い血の染みが浮き上がっている。
言葉にならない苦鳴が、アリヤタ族の男の口から押し出された。
「置いて逃げ出すのが悪いんだぜ」
にやにやと、さも可笑しそうな薄笑いを浮かべた男達を、怒りと絶望、悲痛の混ざり合った瞳が睨む。
『……自分達が何をしたか、解っているのか!? アリヤタは――滅ぶ』
アリヤタの絶望の叫びにも、男達はまるで感じるものも無いように、薄ら笑いを覗かせている。
「知ったこっちゃねえよ」
「おい、滅んじまうなら価値が跳ねるんじゃないか?」
「よーし、もっと吹っかけようぜ。買う奴はいくらでもいるんだ、言い値だよ」
笑い声が満ちる。
奪われた命と、遠くない先に奪われようとしている命。
消えていく種族の火。
笑い声が満ちる。
『貴様等……』
その声は、喉の奥で力なく震えた。
何故だ。
何が悪かった?
自分達はどこで間違った?
苦しみから逃れようとせず、木の皮を喰んで生きれば良かったのか?
笑っている。
何故だ。
彼らが今、手にしているものは。
あれは、アリヤタの未来だった――
混然とした思いを全て叩きつけるように、アリヤタの男は吠え、白い身を翻して飛び掛かった。