ふたたびのベンパー
少し緊張しながらマクドナルドの前の歩道に立った。いつもここを通るたび、ファストフード特有の、安っぽい油の匂いがしてきて食欲をかきたてられていた。だけど実際に入店したことはない。自分を戒めてきたのだ。かかりつけの医者には、悪玉コレステロールの値が高いから服薬を勧められたが、一度飲むとなかなかやめられないと聞いて、食生活の改善を誓った。脂っぽいものを極力省き、ウォーキングに精を出していたけれど一向に体質は改善しなかった。それほど太ってもいないのに、この前の検査では血糖値、血圧まで高いという結果が出た。もうやっていられない。食べたいものを食べずに我慢しているほうが、ストレスが溜まって寿命が縮まるんじゃないだろうか。そう思ったら、我慢しているのが馬鹿らしくなった。だから、もう、いい。私は食べる。ずっと我慢していたフレンチフライ・ポテトLサイズを必ず食べてやる。セットのほうがお得みたいだから、ハンバーガー、ドリンクのセットを頼もう。ドリンクはお茶かコーヒーにしよう。そこまで考えて、店の自動ドアが反応する範囲に足を踏み入れたときだ。ドアの端っこに設置されたメニュー看板の近くに、お下げ頭の少女がぽつんと立っているのが見えた。着ているとっくりセーターが鮮やかな赤い色で、つい目が引き寄せられる。下には黒いタイツと、起毛生地のチェック柄のスカートをはいている。古臭い恰好だと思った。だから好感を持ってしまう。私が小学生だったころに着ていたような服だったから。少女の母親は、古着が好きな人なのかもしれない。彼女の顔は可愛い部類に入るのだろう。やけに睫毛が長くて、マッチ棒が二本ぐらい載せられそうだな、と思った。
「こんなところに突っ立って、なにしているの?」
少し大きめの声で、少女に話しかけた。いつもだったら見知らぬ子どもに声なんてかけない。自分でも、らしくない行動だと思った。
少女は私の顔を見つめ首を傾げた。少し飛び出し気味の目が印象的だった。二本の三つ編みがぶらぶらと揺れる。
「お母さんは? ひとり?」
何歳ぐらいだろう? 背の低い小学生、もしくは、体格の良い幼稚園児――そんな印象だった。少女は小さく頷いてから、口を開いた。
「これ、美味しそうだなって思って」
少女が指を差した先は、メニュー看板に載った写真だった。渦を巻いている白いソフトクリーム。たしかにおいしそうだが、今は冬だ。食べることを想像しただけで寒気がする。
「お母さんと、今度一緒に来れば? ここにずっと突っ立っていたら風邪をひくわよ」
少女はこの寒空の下、防寒着を身に着けていなかった。
「家に帰りたいんだけど――迷子になっちゃった」
とつぜんぐしゃっと、少女の顔が歪んだ。私は彼女に声をかけたことを後悔した。面倒には巻き込まれたくないし、早くポテトフライを食べたいのだ。私は後ろ髪を引かれる思いで、店の中に入った。とたん、むわっと温かい空気が全身に巻き付いてきて、寒さで凝り固まった体が弛緩していくのを感じた。レジには数人の客が並んでいる。最後尾に並んで後ろを振り返ると、少女はまだ物欲しげな顔をして、看板メニューを見つめている。この店のソフトクリームはたしか百円だった。それぐらいなら、奢ってあげてもいいかもしれない。私は店の外に戻り、少女に手を振って声をかけた。
「おばちゃんがご馳走してあげようか?」
自分のことを「おばあちゃん」というには、少し早い気がした。このまえ還暦を迎えたばかりなのだし。
少女の顔がぱっと明るくなる。
可愛い子――こちらまで笑ってしまう。同時にどこかで見たような顔だとも思った。近所の子なのだろうか。以前どこかで見かけたことがあるのかもしれない。
レジで会計を済ませ、私たちは二階の、二人掛けのテーブル席に座った。少女は美味しそうにソフトクリームを舐めている。私は念願のポテトフライを一本口の中に放り込んで噛んで飲み込んだが、思っていたより美味しいと思えなかった。見掛け倒し、ではなく匂い倒し、だ。これでは。勿体ないから全部食べるけど。私は向かい側に座っている少女に話しかけた。
「あなた、お名前は?」
「――知らない人に名前を教えちゃいけないって、お母さんが」
ソフトクリームから目を離さずに、彼女が答えた。
「そう。しっかりしているわね」
私は素直に感心した。物騒な世の中なのだ。ここですんなりと名乗られたら、警戒心のない子だなと思ったかもしれない。
「じゃあ、年は? それぐらい教えてくれてもいいでしょう?」
「七歳。小学一年生」
「そう。迷子になっちゃったの? ひとりでちゃんと帰れる?」
少女がやっと私の方に顔を向ける。目が合うと、急に恥ずかしくなったように彼女があさっての方向を見る。
「いつも遊んでる南野公園に行こうと思ったんだけど、道が分からなくなっちゃった。家を出たら、ぜんぜんいつもと外が違って。知ってる場所を探してたら、駅に来ちゃった」
「ふーん。そうなの」
南野公園。初めて聞く公園の名称だった。私には子供がいないし、どこにどんな公園があるのかなんて、把握してもいない。
「このお店も初めて見たの。これ、美味しいね。なんて名前なの?」
「ソフトクリームよ。本当に知らなかったの?」
「うん――」
少女が急に、苦しそうに眉を寄せた。ソフトクリームのコーンを握りしめ、唇を噛みしめている。
「どうしたの? どこか痛いの?」
私はあわてて、彼女の顔を覗き込んだ。もし、この子がアレルギーかなにかで、ソフトクリームがダメな体質だったら――冷や汗が出る。
「おならを我慢したの」
少女の言葉に、肩から力が抜けた。私は思わず笑ってしまった。
「笑わないで。おならが出るの、嫌なんだから」
「よくおならが出るの?」
「うん。学校でもおならばっかりしてたから――ベンパーって言われちゃって」
「ベンパーってなに? かっこいい響きだけど」
「便秘のせいでおならが出るから、ベンパー」
「あらまあ、それは嫌ね。でもオナラーって言われるよりはマシかもね」
ここは同情すべき場面のはずなのに、私は笑いを堪えるのに必死だった。
「できるだけ我慢してるんだけど、毎日」
「あ、おならはね、我慢しないほうがいいわよ。我慢するとよけいひどくなるのよ」
最近ネットで仕入れた情報だ。おならを我慢すると、毒素が体内に滞ったままになり、体に悪影響を及ぼすとかなんとか。便秘も余計ひどくなるとのことだった。
「じゃあ、我慢しないでいい? 今してもいい?」
内心は嫌だったけど、選択しは「頷く」しかなかった。ハンバーガーを頬張ると同時に、腐った卵を、牛乳を拭いたぞうきんで包んだような――猛烈な腐臭が漂ってきた。私はハンバーガーから口を離した。
このレベルの臭さは、たしかに迷惑だ。クラスメイトに綽名を付けられるのも仕方がないかもしれない。
「くさい?」
おずおずと、少女が聞いてくる。
「くさいけど、我慢することはないわ。我慢するとよけいひどくなるから」
私はもう一度、同じことを言った。念を押したかったのだ。
「ベンパーってカッコいい綽名じゃない。ベン・ハーみたいで」
「べん、はあ?」
「映画よ。名作映画」
そういえば、ベン・ハーを、当時仲の良かった道子ちゃんと観に行った。――道子ちゃん。中学校のとき同じクラスになって、始業式の日にすぐに仲良くなったのだ。初めて話をしたとき、彼女はこう言った。初めて会った気がしない、どこかで会ったことがあるんじゃないか、と。私は、まるで口説き文句みたいだよ、と照れながら言葉を返した。彼女の大きな目に吸い込まれそうになったからだ――そこまで思い出してしまい、ふと、目の前の少女に視線を向けた。緩い渦巻きは消えていた。私は息をのんだ。コーンをパリパリと美味しそうに食べている少女の、飛び出たような目が、道子ちゃんにそっくりだったのだ。もしかしたら、この子は――いや、そんなことはあり得ない。だって、道子ちゃんは、結婚や出産を経験する前に亡くなったのだから。
「おばさん、ごちそうさまでした」
コーンを食べ終えた少女は、満足そうに笑った。その顔も、道子ちゃんにそっくりで、彼女から目を離せなくなった。
「そろそろ帰らないと」
少女がさっさと席を立ってしまう。ここに来て、やっと私は悟った。彼女の目的はソフトクリームだけだったのだと。私との会話なんて、まったく望んでいなかったのだ。考えてみれば、当たり前のことだった。こんなお年寄りとお喋りしたって楽しくなんかないのだろう。それでも私は、少女を引き留める言葉を探していた。
「ちょっと待って――」
歩き出そうとしていた少女が、こちらを振り返る。また、不思議そうな顔をして、首を傾げる。大人には似合わない仕草だ。子供だけに与えられた特権のような無邪気な仕草、表情――。懐かしさが込み上げてくる。初めて会ったとは思えなかった。だけど、次に言う言葉が浮かんでこない。あなたのことを見ていると懐かしい気持ちになります。私にとって生涯たった一人の恋人にそっくりなのだと――そんなことを言ったら、不審がられるだけだ。
「おならが酷いようだったら、一度病院に行ったほうがいいわ。お母さんに言ってないんだったら、ちゃんと打ち明けなさい」
「わかった。ありがとう! 親切なおばさん!」
少女はにこっと笑顔になって、私に手を振ってくる。私も振り返した。彼女の背中が遠ざかっていく。
――親切なおばさん。この言葉を、どこかで聞いた気がした。ずいぶん遠い昔に、どこかで。思い出せそうで思い出せない。さっきまで少女が座っていた席を見つめる。テーブルの上に、コーンに巻かれていた紙が目に映った。まだ体温が残っていそうで、つい手に取った。てのひらに載せた白い紙は縦に三つ折りされていて、短い子供用の箸みたいだった。その形に見覚えがあった。彼女もそうだった。ソフトクリームを食べたあと、こうやって折り紙みたいなことをしていた。そうだ、親切なおばさんの話をしてくれたのも――
「みちこちゃん」
――親切なおばさんに、小さいころ助けてもらったことがあるんだ。
彼女はたしかにそう言っていた。道子ちゃんと私は、オープンしたばかりのマクドナルドで、ソフトクリームを食べながら、話をしたことがある。このソフトクリーム、昔食べたことがあるんだ、と道子ちゃんが言った。私は嘘つかないで、と笑った。だって、マクドナルドは私たちが子供のころにはなかった。私の指摘に、道子ちゃんは首を傾げた。でも、食べたことがあるんだよ、この味だった気がする、と。親切なおばさんにご馳走してもらったのだ、と。
――お母さんに便秘で悩んでるってことを伝えて、病院に連れて行ってもらったの。そうしたら、突然入院させられたの。腸に問題があったみたいで。
病院に行くのが遅れていたら、死んでいたかもしれない。彼女の言葉を聞いて、私は良かった、と思った。生きていてくれて、良かったと。
私は、ハンバーガーとポテトフライを残し、コートとバッグも置いたまま席を立った。急いで階段まで走り、転げるように一階に下りた。まだ少女は、近くにいるかもしれない。自動ドアが完全に開く前に、私は外に飛び出した。肌に痛みを覚えるほどの冷気が襲ってくる。その瞬間、心臓がドクンと大きな音を立てた。ああ、これは――私は一瞬で悟った。これはマズい兆候だ。周りを見渡すような余裕はない。心臓を無理やり掴まれ、捻り出されるような痛みと苦しみに見舞われる。全身から汗が噴き出る。私は転倒した。このまま苦しい思いをするのなら、助からなくても良い。ただ、もう一度だけ――
「みちこちゃん」
自分の声が途切れ、遠のいていく。目の前が霞む。痛みは薄らいでいる。心臓の音も、もう聞こえない。
「なんで私の名前、知ってるの?」
最期に目に映ったには、心配そうに顔を歪めてこちらを見る、少女の姿だった。了