第五話.脱獄と老婆と銀の危機
「ねえ、」
「ヒッ、化け物! お、起きてたのかい。近寄るなっ、近寄るんじゃないっ」
老婆は明らかな怯えを含んだ表情で、手を払い、後ずさる。
彼女のあまりの怯えように、『僕』は“きょとん”と一瞬わけがわからなくて、固まってしまった。
数瞬後、「ぶっはははははははは!」と腹を抱えて笑いが噴き出す。
「ばっかじゃないの。僕はともかく、この子が化け物だなんて、アーっハッハハハハハ! あ~……可笑し。とりあえず、食べ物を持って来てくれたことには感謝を。ありがとう」
笑い止んだ僕……藍猫は、目尻に浮かんだ涙を指先で拭って、ぺこりと丁寧に頭を下げた。
今度は、老婆が固まり、狼狽する。
「でもねえ? 箸かなんかないの? 手づかみは流石に下品でしょ。あと、僕とこの子の名前は? なに? なんで僕ら、ここに幽閉されてるわけ? 知ってたら教えてくんない?」
これを機会に出来るだけ多くの情報を得ようと話し掛ける藍猫。
彼にしてみれば、この老婆が答えてくれれば大儲け。答えてくれなければ、牢屋を出た後、自力で調べるつもりだ。
つまり、かかる手間が違うだけで、藍猫からしたらどっちでもいいのである。
冗談めかして人好きのする笑顔で笑って問いかけ、鉄格子に手を掛けながら、小首を傾げた。
“まるで近所を普通に走り回っている子どものような”バケモノ(藍猫)の姿に、老婆は何故かひどくほっとして我に返る。
口の端を釣り上げて嫌な笑いを浮かべた彼女は、小馬鹿にした様子でフンっと鼻を鳴らした。
「化け物に名前なんかあるもんかいっ。化け物は地下の座敷牢に幽閉しとけって上からの命令なんだよ化け物坊ちゃんたち! あたしだってねえっ、本家からお金がもらえなければ、誰があんたたちの食事係なんか引き受けるもんかっ!」
藍猫は老婆をじぃーっと見据える。
老婆は「うっ」と言葉に詰まった。
伸び放題の流れる藍色の長髪の間から垣間見える、なにもかもを見透かされそうな紫の眼。まるく大きな瞳は透き通った水の如くなんでも映し、宝石のように綺麗で、なにも知らない子供のように無垢だった。
情報整理をしよう。
1、僕と彼に名前はない。つまり、銀の獣だった彼は、このまま『銀』と名乗っていいわけだ。僕は彼を勉強させて、知恵をつけさせ、当初の予定通り、今生の名は彼に着けてもらおう。希望の融通が利くであろう分、下手な名前をつけられるよりはいいハズだ。
2、僕と銀は『バケモノ』ということになっている。「坊ちゃん」というからには、この体と銀はいいところの出のご子息かなにからしい。
3、だが、本家とやらから幽閉命令が出ている事。
4、本家とやらはこの婆を雇い、僕と銀の世話係にしていること。
5、この婆は碌でもない者。庶民。貧しい暮らしをしているらしい。所作や言動、服装からそれが染み出ている。
6、多分、おそらく、きっと、僕がここに居ることも含めて、やはり本家とやらは『僕』が知ってる家だろうという事。この世界が僕の知っている世界なら、“呪い”とか“願い”とかが重要な意味を持つ日ノ本だから。
7、ついでといっちゃ難だが、日本語通じる。ここ、日本。あーゆーOK?
少年は一瞬俯き、次に顔を上げた時、老婆がこれまで生きてきた中で、誰も見たコトがないような穏やかな表情を浮かべていた。彼女は驚きに目を見開く。
「…………そう。それでも、ありがとう。本当に、有り難い、ことだから」
儚く、本当に儚く紫の眼の少年は微笑う。
慈愛の色と心の底からの感謝が込められたその笑顔はとても綺麗で、綺麗すぎて。使用人の老婆は、自らの心の醜さが浮き彫りにされたようで、嫌になって顔をそむけた。
「(おかしい。前に来た時は、この“弟”の方ももっと、“兄”と同じような感じで獣じみていたのに。いつから“ヒト”のようになった?)」
老婆は訝しみ、藍色の髪と紫の眼を持つ外見は可愛らしい少年を睥睨する。
「で、箸とかスプーンとかフォークとか、ないの? マジで手づかみ?」
眉を潜めて胡乱気な表情で問うてくる少年は、ただただ生意気なだけだった。
腹が立った老婆は、くるりと踵を返して、地上に上がろうと歩を進める。
後ろから「お~い、答えてくれないの~?」という間延びした声が聞こえたが、老婆は足を止めず、歩く速度をなお速めた。
「うるさいねっ」
--キィィ……、バタン。
遠くで扉が閉まる音がした。鍵がかかる音はしなかった。
老婆が消えたことを確認して、藍猫はにやりと笑う。
身を翻すと土がかからないよう飯を少し遠くに押しやり、埋めた穴を急いで掘り返す。一度掘ってしまった土は最初の堀り始めより柔らかなくなっていて、掘り返すのは意外と簡単だった。
ついでに土を掘り返したのと同じ食器で、穴の横幅を広げる。
掘って、崩して、掘って、ほら。
「出来た。完成―!! 銀、銀、出来たよ! 抜け穴だーーっ!!」
満面の笑みで完成を祝い、達成感を抱えて、万歳三唱。
体を丸めて寝ている銀を起こそうと体を揺さぶり始める。
「銀、銀、起きて! 抜け穴で来たよ! お外、出られるよ!? ご飯もあるよ!? ねえ、ねえ、起きてよ。起きてっ、起きてったらぁっ…………このクソガキ起きやがれーーっ!!」
最初は優しく揺り起こしていたが、何度揺さぶっても起きないので、少々キレた。
「いつまで寝てんじゃねえぞこのアホンダラ! 寝汚いのもいい加減にしろよな」
キレて言葉が大荒れに荒れる。関西弁風のかなり早口が飛び出した。
ちなみに『輪廻の記憶上』において、彼の一番最初の人生は、生粋の日本人であり、関西地方にある播磨の人間だった。
年始にヤンキー風のヤクザに追いかけられて、逃げ出した先で車に轢き殺されたお茶目なオタクの女子大生である。
その娘が異世界で死に、娘の魂がこの世界の神代時代に“堕ちて”来て、国つ神や天津神らとともに国生み神話にイレギュラーの存在として参加。
なんやかんやあって、第一級の狐神に仕える神使の鬼神となり、ケガレ呪われて神堕ちして、人々に害を与える存在、妖魔となって力を封じられ、人間の器に封じ戻されて、また呪われて転生し続けるというややこしい、相当にややこしく凄まじい、波乱万丈のあれやこれやを経て、ここに居る。
つまり、藍猫の正体は、人の身に封じられた【鬼神】であり、神代時代の転生者、異界から来た【客人】と呼ばれる存在の、元播磨在住、関西人の女子大生である、ということ。
播磨とは近畿地方に存在する畿内の要所だ。
大昔から、海運や交通の要所として知られ、かの平清盛も都を播磨に遷都しようとしたことがあるほどの、歴史に縁深い場所である。
摂津、山城の国あたりが近所だ。
もっと述べるならば、土地柄、悪人や狡賢いヤツ一杯ネ。大阪と京都に挟まれた地域の県で、神戸に海があって、商業や交易が盛ん。身内には優しいし、温かいけれども、余所者にはちょっと他人行儀ネ。
原初の『私』が死んだあと、2014年に大河ドラマの軍師官兵衛やってたらしいね。転生者なるものに聞いたことあるよ。官兵衛は播磨の中の姫路の国の人。天才軍師なのよ。彼が大河に出るなんて、思わなかった。
“僕”の数代前の前世が会った官兵衛は、天才でいい人だったネ。南無。――ま、今は関係ないンだけど。
つか、本当に起きやがらないな、銀さんや。
「ほら、起きくれよいつまで寝てんだよ銀! ご飯もあって、外に出られるチャンスなのに………ううう……反応、ない」
おかしい。
いつもは「う~」やら「あ~」やら、なにかしらの反応があって、寝汚く愚図るのに今回はそんな反応もない。熟睡しているのか?
藍猫は首を傾げた。
とりあえず、抜け穴から一旦外に出てみようと体を滑らせる。
「おおっ!」
頭、手、胴体、足と地面と鉄格子の間に体を潜らせて、脱獄成功! 思わず感嘆の声が漏れた。
外から運ばれてきた食器の中身を確認する。
「………これ、ひどいな。ヒトの食べ物じゃない。犬畜生の餌だ」
汚れだらけの着物もどきの服の袂に手を入れて腕を組み、食器の中身を覗き込んで、眉根を寄せて顔を顰める。
見た目は味噌汁にイモや野菜を不揃いなざく切りで投入しただけの味気ない食事。
臭いをかげば、腐りかけであり、下処理もきちんとされておらず、いかにも不味そうだ。直感が危険信号を燈している。
米は入っていない。一皿だけの狗の餌だ。
「う~ん……あの人、料理作ったことない? それとも嫌がらせ? うん、間違いなく嫌がらせの方に100万円。否、金1両。ま、食べてみなければわからんよな。うん」
銀の方を見れば、まだ寝ている。
おかしいなぁ……。なんで起きないんだろう?
ご飯が来たのに。なんで?
藍猫は不思議に思いながら、運ばれてきた食事を手に持って、穴の前に一旦しゃがみこむ。
食事を持った手を穴に差し入れて内側に運ぶ。
自分の体を出て来た時と同じように鉄格子の下と地面の間の狭い空間を、音にすれば「にゅ~ん」といった感じで――というより、本人がふざけて擬音語を口にした――潜り、牢内に戻った。
土を払い、服で手を丹念に拭う。
銀の傍に座った藍猫は、素手で汁飯もどきを掬って一口毒味をする。
薄暗い牢屋の中に一時の沈黙が流れた。
藍色の少年は食べ物を放り込んだ手で、口を押さえたまま半開きにして、しばらくそのまま5秒ほど停止していた。
ただし、我に返ってはっと大きく息を吸い込もうとして、咳き込んだ。
口の中の飯を腹が減っていたのにも関わらず吐き捨て、呑み込んでしまった分も吐きだそうと喉に指を突っ込む。
自らの腹を拳で思いっきり殴りつけ、胃液と共に先程食べた飯を吐き出した。
口元を拭って、青白い顔で彼はこう云った。
「あ~……死ぬかと思った。本気で死ぬかと思ったよお姉ちゃん! 姉なんていないだろうケド。まさか、本気で殺そうとして来るとは――」
藍猫は、吐いたモノを土で埋めて押し隠し、味噌汁もどきの殺人食料を牢内の奥に押しやり隠す。
「弱った胃には、固形物どころか、少量の毒でも致死毒です。薬草に混じって毒草入れんなってのあのクソババア」
毒吐き、心底不審に思う。
この騒ぎの中でも銀が起きないのだ。
身じろぎひとつしないし、何の反応も示さない。
さすがにオカシイ。変だ。
藍猫は銀にタックルをかけた。
飛びつくように全体重をかけてのしかかり、反応を引き出そうとする。
しかし、起きない。
「変だ。おかしい。これ、ぜったいオカシイ……!」
僕は狼狽える。
頭が真っ白になりかけて、自分の髪の毛を乱暴に掻き毟った。
銀の胸ぐらをつかみあげ、座らせてみるも反応なし。
顔に掛かる銀色の野ざらしな髪をかき分けて、顔色を確認する。
明らかに悪い。すこぶる悪い。真っ白を通り越して血の気がない。
口元に手をかざせば、息はしている。死んではいない。
昔かじった医術を思い出して、指で瞼を開かせて眼球を確認し、口を開かせて舌を診る。
触診から、胸に耳を当てて、心肺確認。
「……………。」
ええいっ、僕さま歳経てハイスペックで有能だけど、本物の医者じゃないから断定できないじゃんっ!!
「ていうか、これ、多分ぜったい僕が食べるなっつった『イモの芽』とか、『種』とか、腐った食料モドキの劇物が原因だろ。ただの食中毒だろ? なあ? そうだと返事してくれよおいっ。起きろよ。目ェ覚ませ! しっかりしろっ!! だから食べるなっていったのにぃぃぃっ!!!」
両手で襟首を掴んで思いっきり前後左右上下に揺らす。
反応が欲しくて、このバカに頭突きを食らわして、吐きだせと叫ぶ代わりに腹に拳をお見舞いした。
すると銀は息を詰めて、咳き込んだ。
「……ッ!? げほっ! ごほっ、げはっ」
「やった! 反応あったよ!」
この時の僕は涙を流して歓喜した。
彼を喪えば、この時の僕はこの世に未練など――生きる理由も、生きる楽しみも、なにもかも、ひとつも無くなってしまうような気がしたからだ。
しかしながら、内実は違っていた。
一歩間違えれば、僕こそがこの時、銀を殺していたかもしれなかった。
後になって思う。この時の僕はだいぶ錯乱していたのだと。
自分の本気の頭突きと拳のデフォ仕様が子供には強烈過ぎることを忘れていた。
体が幼くても大の男の成人男性一人くらい、伸して気絶、もしくは死に至らしめ、逃げ切れるほど威力を持つチート仕様だったことを、すっぽりがっつり忘れていたのだから。
どきり、と心臓の鼓動が大きくなった。
銀が、倒れたまま、動かない……。
「そんな……うそ、嘘でしょ? 嘘だと云ってよ。ねえっ! 起きてっ、起きてよ銀! うわ~んっ」
思わず涙を流して泣き叫びそうになったが、半泣きになったところで気持ちを切り替える。
まてよ? 外に出られるんだから、外に出て、医者を呼んで来ればいいんだ!
名案、名案。
ついでにあの婆にも仕返しして、もっと情報吐かせて、使えないならば追い出してしまおう!
うんっ、これで銀が助かったら自由だぞ!
銀が死んだらお墓建てて、僕も死ぬかな。餓死と中毒死と首吊り、頸動脈自傷自殺、どれがいいかな? 万が一の時は考えるか。
さて、そうと決まれば、急がなくちゃっ!
もう一度、掘った穴から牢の外にえっちらおっちら這い出して、世話役のクソ婆が出て行った方に足を向ける。途中、牢の中で腹を押さえるように蹲る銀を振り返り、心に誓った。
「(まっててね、銀。すぐに僕が君を助けてあげるから)」
鍵のかかっていない扉を思いっきり押し上げて、僕は外に出た。
この世で本当に恐ろしいものの一つは、子供のような純粋無垢な無邪気さ、かもしれない。
脱獄、脱獄しました! 銀髪美少年、銀さん、一大事でございますっ!!
主人公はうっかりさんの阿呆の子!(だったりもする。)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。