作家、紫白(シハク)
――〈帝都・東京〉――
カミホの街の片隅に、その古書堂はあった。
店を囲むように伸びる柊の垣根。その表中央に門が存在する。近頃流行りの西洋風を真似した石造りの門構えに鉄格子のシャープな洒落た扉は、店主の意向で常に開かれている。
それを潜ると『金色の月の輪の中で、開かれた書物の上に佇む藍色の猫』のエンブレムが印象的な貸本屋、〈藍猫古書堂〉のお出ましだ。
ガラスの入った木造の観音扉を開くと鳴る鈴の音。来客を告げる涼やかな、風鈴の音にも似た昔懐かしい郷愁を誘う音。その調べは作業に没頭しすぎる店主の気を客に向けさせる為の苦肉の策。
入ってすぐに感じた香りの洗礼。
古いのも新しいのもある紙独特の匂い。
それに混じり、一年を通して庭に咲く、万年ハナミズキの控えめながら清らかな香りが薄らと漂っている。ちなみに通常のハナミズキの花の見頃は五月頃。外は深々と冷え込む2月の冬だというのに、この真っ白い花はこの古書道の庭で、季節感を無視して咲いていた。
其はこの古書道が異質である証拠。
この古書堂が“なか”と“外”が違う界層構造をしており、時間軸のズレ、世界のズレ、空間のズレのなかで、ある種の異世界が構築された中にあることを示していた。
艶やかな黒い一対の羽を腰に生やした人外の娘、天狗の皇咲魔。
彼女は玄関扉に垂れ下がった鈴の束に、冷めたルビーの瞳をちょっと向ける。
魔除けの呪法が鈴の音に組み込まれていた。
柊の垣根にも同じく魔除けの意味合いが込められていたが、ここの店主は本当に、何者なのだろうか?
(天の走狗と異名をとる天狗。“聖なるもの”に分類される種族出身の咲でも、気を抜くとちょっと息苦しいぞ……です。あのボケナス道楽店主は、玩具会社の社長と忍者家業の副業のほかに、凄腕の陰陽師でもあったのか?……です。四方に結界を意味する木々を植えてやがるな……です。咲は気配でわかるぞ……です)
咲魔は腕に抱え持った緑のポーチを、勇気を振り絞るようにぎゅっと抱きしめる。
見渡す限りの本、本、本。
書架、書架、書棚の町。そう、店内は本だらけ。本たちの町と申しても良いくらい、各種多様な本が溢れている。
だが、これはほんの一部に過ぎないことを咲魔は知っている。
なぜなら、この古書堂は地下を含めて5階建て。一見、2階建ての広やかな日本家屋に見えるが、その内実は忍者屋敷の如き構造をしている。隠し地下があるのだ。それもかなり広大な書庫が三階分。故に、この古書堂はその道の界隈では『帝都一の蔵書数を誇る古書堂』として有名だった。
大きく息を吸い、気合を入れなおす。
店内。
あたりは昏く薄暗い。
天井に設置された大正ロマン風の洒落た照明はついていない。居間の座敷の障子の隙間から差し込む暖かな光だけがこの古書堂の現在の光源だった。
うず高く積まれた書籍群。
差し込む薄暗い書庫。いや、古書堂。
その奥にこの古書堂の本の貸し出し、返却業務を一手に引き受けるカウンターがあった。
『〈雑誌、他、一冊10円から〉〈小説一冊100円から〉〈図鑑一冊1000円から也〉』と書かれた三枚の張り紙の横には、週刊雑誌がいつもの如く格安で売られている。右から順に少年飛翔。月刊リボンヌ。華と雪。少年マガジンZ。文芸社本。青い鳥。紀伊国屋本舗など。まあ、それは今はどうでもいい。
重要なのは、そのカウンターの奥に座る和服美人の方。
咲魔はそちらに用がある。
彼は咲魔が来店したことにも気づいていない振りをして、一心不乱に書き物をしていた。
散乱する書物と原稿用紙。
生真面目な顔をして、万年筆を動かす藍色の髪の長い男。
咲魔はカウンターに隣接した座敷の上に、朱塗りの下駄を脱いで上がる。
時間がかかりそうなので、少し待ってから声をかけることにしたのだ。
座敷の奥に設備された厨房で、勝手に冷蔵庫から作り置きの紅茶を取り出し、ポットに中身を入れて少し温める。合間に白い陶磁器のティーカップを食器棚から出してきた。それらを持って、ぬくい電気こたつの中に入り込む。
(ふぅ……。極楽、極楽……なのです)
こたつの上の蜜柑を手に取り、剥いて、ぱくりと一口食べる。
少し、景色が見える程度に開かれた縁側の障子。垣間見える日本式庭園の隅に赤い杜若が咲いていた。耳を傾ければ筆の走る音。時折、男の含み笑い。すんすん泣き声。息を詰める気配。怒り。そしてまた笑い。
(ただ小説書くだけなのに、忙しい男……です。咲魔はちょっとこたつが気持ちいいのです。一眠りしたら、原稿の取り立てを……zzz)
咲魔は暫し、己の仕事を忘れて、むにゃむにゃと気持ち良さそうに夢の世界へ飛び立った。
冬の炬燵は魔性である。食べかけの蜜柑がひとつ、畳の床に転がった。
◇◆◇
藍猫古書堂こと通称〈藍猫堂〉のカウンターに座る藍色の髪をした男。
彼は服装を変えて化粧を施せば、かなりの上玉の美女に見間違うかもしれない。儚げで退廃的な趣のある中性的な美人さんだ。
髪の長さは後ろは腰ほどまで。紅い組紐でゆるく一つ纏め。前髪は邪魔にならない程度に短い。華奢な体を藍染の着流しで包み込み、首と左腕に真新しい真っ白い包帯を巻いている。それがより一層、彼の儚さと浮世離れした雰囲気に拍車をかけ、不思議な佇まいを醸し出す。
二重のまぶたをそっと伏せて、猫背で机に向かって、サラサラとなにやら書き物を続けているようだ。
原稿用紙の上を走る血の気を感じさせない白い腕。
書き足されていく黒い文字。
今にも消え入りそうな達筆。
生き生きと心に訴えかけてくる登場人物たち。
浮世を巡る、輪廻を巡る、人の世を踊る、繰り返しの物語。
たったひとつの――特異点。
恋しいあの人は、今、どこでどうしているだろうか。
穏やかな表情に微かな微笑みを浮かべて、垂れた紫眼を優しく細めた。
「ちょっと、紫白先生! 書いているものが違うじゃないですか! お頼みした小説は児童小説『月の兎』の改訳版のハズ! なのになんですかこのどろっどろに甘ったるい十八禁ものはっ!」
落ち着いた雰囲気を持つ女の子の声が、仕事に対する不注意を指摘するように、叱責めいた批難の悲鳴を上げる。
手には作家先生から取り上げた原稿用紙30枚。
まだまだ書きかけのようだが、戦国時代を舞台にした忍者集団風魔の頭と没落豪族の娘の恋物語のようで――。ぶっちゃけ、卑猥すぎて。純情劇過ぎて。異常性垣間見える狂愛の殺伐とした歴史過ぎて。一行読んだだけでも咲魔少女は顔を耳まで真っ赤にして、悶絶しそうになった。
だけど、この人は書いていた。我慢して読み進める。
どう見ても会社からお頼み申し上げた童話『月の兎』ではないっ。優しい口づけはともかくとして! 深い口づけから唇の使い方、指先の使い方、快感のオノマトペ。腰の使い方や卑猥な表現なんて、事細かに記載しなくていいはずだ! 拷問の仕方や殺人の仕方なんて、子供の教育に悪いっ! ぜったいこれ、童話じゃない!! 悪鬼羅刹、魑魅魍魎溢れる魔窟の話なんて書いてほしいなんて頼んでないっ!!
「え? ダメだった?」
にこっと無邪気に笑った紫白先生。子供の様に悪意のない無垢な笑顔をしていらっしゃる。
だが、書いている小説は魑魅泥まみれ、殺伐として本能剥き出しの殺し愛。濡れに濡れる狂気の十八禁小説である。
こやつ、侮れん。一度その首絞めてやろうか。
腰に生やした黒い鴉羽を動かし、脇に置いた修験者風の錫杖を手に取って、この紫白先生の首に錫杖の石突を突き立てたい衝動に駆られる。
黒髪ショートカットの天狗娘、文車編集社の皇 咲魔。
この紫白先生こと、四十九院 紫楽の担当編集について一か月。
彼に対して殺意を抱かない日はなかったと、云っていいかもしれない。
「それ、いい出来でショ?」
「確かに良い出来です。良い出来ですが、お頼みしたものと違うンだよコンチクショーっ!!……です」
小首を傾げて問いかける紫白先生。咲魔はキレて叫びながら、ちゃっかり鞄にその小説を仕舞いこむ。「あ……」と小さな音が紫白から漏れた。
「それ、持って帰るの?」
「当たり前です。編集長からあなたの作品は、一応、全部見せにこいと言われてンだよクソッタレ………です」
心底、苦々しそうな表情で、咲魔は緑のポシェットポーチを抱えなおした。
「ざっと盗み読みさせてもらいましたが――リアルを追及して詳細に、情感たっぷり書き上げてあるのは見事としか言いようがない、死ね………です。だけど、咲魔が頼んだのは子供向けの童話小説、ド阿呆………です。誰も大きなお友達にバカ売れしそうな、抜ける濡れる発情する十八禁小説なんて頼んでないっ………です」
「ハハハ、酷いな。毎度のことながら……。だけど、褒めてくれてありがとう。嬉しいよ」
苛立ちを含んだ口調で、咲魔は暴言と苦言を呈す。
苦笑した紫楽。己が書いた小説を返してもらおうと思い、手を伸ばす。
年若い十四ほどに見える少女天狗が威嚇するようにくっきりした眉尻を吊り上げた。
「誰も返すなんて言っていませんっ」
「だけど、頼んだものと違うのだろう? 持っていくにしても書き直すか、書き足すから、返してくれないか?」
「これはこれでいいのっ!!………です」
「いや、でも……。男心を掴む女の子のためのしゅちゅえーしょん。動物着ぐるみパーカーにだぶだぶ白シャツ。裸エプロン。男心をくすぐる女の着物の着崩し方、女心をくすぐる男の女の誘い方。内助の功の仕方に浮気発見法とか、まだまだいろいろ書いてなくて、やっとこさ十分の一弱程度の知識が書けた程度なんだけど、………それでも?」
咲魔は少し悩んで、鞄から書きかけの十八禁小説を取り出す。
にこにこ穏和に、温良に、笑っている紫楽。
その顔を見ていると包帯を巻いた彼の首を、思いっきり絞めたくなってくるから不思議だ。
差し出された手の上に『風来遊人帖』なる題名の件の十八禁小説を渡した。
「どうも」
代わりに別の小説が咲魔の手の中に置かれる。
天狗少女は眦を思いっきり釣り上げた。ドスの利いた声で、目の前の馬鹿男を恫喝する。
「…………………おい、舐めてるのかてめぇ………ですっ」
「うん~? 気に入らない? 『高嶺の花と曼珠沙華 ~幕末期譚~』(仮)」
紫楽は、咲魔の怒りなど、可愛い子犬の鳴き声にしか聞こえない、といった調子で、ゆる~く渡した小説の題名をほざきやがった。ぱっと見、つい最近在った、歴史的事件。〈維新改革ロマン譚〉と〈新撰組〉、そしていつも通り〈日本民族話〉を取り入れた歴史小説のようだが……――なんとなく、これは売れない気がする。
咲魔は米神を押さえて、腹の底から吠えた。
「気に入る、気に入らないの問題ではなくて、これじゃねェんだよ女男のクソ釜がっ!!………です」
「え~、ひっど~い咲魔ちゃん。僕のこと嫌い? 大っ嫌い? しくしくしくしく」
狂言能の技法を使って、無駄に流麗な動作で泣き真似など、するものだから、咲魔の額に青筋が立って言葉が多少荒れる。
「聞くまでもないことを聞くなっ……です。死んでください……です。馬に蹴られて死んじまえ……です。原稿、早く、なのですよ……です。大嫌いなバカ阿保優男のあんぽんたん………です。童話『月の兎』どこやった?……です」
「“あんぽんたん”って、かわいい……♪ 今どき、そのような言葉を使うようになったの哉?」
「知りません………です。死んでください………です。手だけ無事で全身粉砕骨折しやがれ……です」
にこやかな笑みを口元に薄く佩いて、軽快に軽口を叩く紫楽。
対して、咲魔はどんどん死んだ魚の目になっていき、無表情で金色の錫杖に手をかける。小さい子供の手に血管が浮き上がり、肩が怒りで小刻みに震えている。
だけど我慢、我慢。ここで紫楽を殴ってしまうと会社をクビになる。大人としての尊厳もなにか、損なってしまう気がする。我慢、我慢。耐えろ咲魔。
ここで耐えたら後で、甘味屋の『橘と桜』の桃団子、十本買っていい。鵺印の牛乳アイスクリーム、三個買い溜めする。仙界に赴いて、天女と神獣の癒しのリラクゼーションエステにも行こう。今、この日ノ本で一番美味しい甘いものと仙界の癒しを堪能するのだ。神獣のもふもふ毛皮に埋もれて眠るのだ!……です。それを思えば、このくらい……―――。
「あ、『高嶺の花、曼珠沙華』ってのはねぇ? 僕の座右の銘『目指すは高嶺の花、泥にまみれても心は気高く曼珠沙華』からとったんだよ~。意味は『高嶺の花のように凛として、美しく。地を這うようなことをしていても、志だけは気高く、根に毒を持つ曼珠沙華のようにすっくと一輪立って、仕返しを忘れず、目的を遂げてまっすぐ立つ』みたいな。そんな心意気を込めてみたんだ~」
「へぇ。どうでもいいです」
咲魔は絶対零度の視線で紫楽を下から見下げ果てた。
こいつ、本気で殺そう。
「酷っ!?」
思わず、錫杖を振り上げて、このバカ作家な古書道店長の首を取りに行きそうになった。精一杯の理性と天狗としての矜持、貧しい生活を考えて、なんとか、わが身を食い止める。
いけない、いけない。このヒトの首を狩りに行ったところで、本気出したこの化け物隠叉の古書堂店長には敵わない。力でも知力でも自分は決してこの方には一生敵わない。もし狙いが成功したとしても、その時は自分も道連れだ。
涙目を作って、肌寒そうに腕を擦っている姿からは、バカさ加減しか伺えないが、侮ってはいけない。彼は人ではない。彼を人と思ってはいけない。
裏世界に幅を利かし、妖羅界の妖怪大戦争・妖魔討伐ランカー上位に食い込む“風由”の頭領に真っ向から挑んではいけない。
この己が目前に座る男は、ぬらりひょんや牛鬼、狒々といった大妖怪と互角に渡り合い、名だたる妖怪や神々を降し、現在の明正時代を創ったバケモノたちのうちの一人である。
焦るな、焦るな。このヒトに敵うのは仕事に対する態度と口の達者さくらいなのだから。
咲魔は軽く息を吐いて、気を静める。
紫楽は本が沢山積まれたカウンターの一角に肘をついて、満ち足りた笑顔を浮かべる。
「ふふふ、咲魔は弄ると面白いね」
「………ほんと、殺してやりたい……です」
ぼそっと咲魔の口から本音が漏れた。それでも紫楽は穏やかに笑っている。
「フフフ、殺せるモンなら殺してみてよ。僕に“終わり”を頂戴? 死人に死に場所を。罪人に処刑を。民を虐げる権力者に報復を。約四〇〇年前に輪廻の中で交わした、愛する人の遺言にあたる任務で報告を遂げたい。仕事がすべて完結しなければ、死ぬに死にきれない」
万年筆をおいて、口元に微笑みを湛えたまま、静かに一束の原稿を纏める。
「魂の限界はとっくに来てるのに、僕はまだ、“理を曲げて”ここに居る。次で最期なんだよ。次の生で、僕は先ず、間違いなく消えてしまう。“件”と我が“猫”、そして神々と冥府の官吏が予言した。次で、最後」
分厚い辞書ほどの厚さになった原稿用紙の束。釘で穴を開けて、糸を通したそれを、紫楽は咲魔に差し出す。
「俺を殺したいならその前に、旦那様の、“五代目風魔小太郎”の生まれ変わりを連れてこい。そしたら、任務報告して、消えてやる。あの人に会えればもう……頑張らなくて済む」
渡された小説の題名は『月の兎』。
咲魔が散々、せっついていた児童文学小説だ。
内容は、月には兎が居るという誰でも知ってる逸話から、大陸(清)の仙界の神話“桃仙娘々”と“西王母の桃仙”、“天帝”を用いた逸話を経て、ある医者夫婦の苦労譚に至る。
民話の教訓話を含んだ児童向け小説だ。一度、幕末の維新以前に出版されようとして、ご破算になった幻の話題作である。
「小太郎の生まれ変わりは今、この世にいない。それも“猫たち”の〈ねこねこネットワーク〉によって識っている。だから、あの人の〈命令〉も〈願い〉も〈遺言〉もずっと継続しなければ……。兄貴の〈命令〉も〈願い〉も、その中で聞いて、死ぬまでの〈暇潰し〉に世界をひっかき回す。ウカノの〈願い〉も聞いて、子供たちの〈願い〉も聞いて、仲間の〈願い〉も聞いて、君たち『天狗』や『妖怪』の〈願い〉もたまに聞いて………」
紫楽は疲れ切った様子で、椅子に力なく腰掛ける。
目を伏せ、足元から、何冊分もの未完の小説を取り出して、机の上に積み上げた。
その殆どが各地の伝承を基にした児童向けの短編小説。
「《子供を護れ》、《子供たちを頼む》、《生きろ。己以外に殺されて死ぬことは許さん。自殺も許さん》、《姿かたちが変わっても、心がそのままおまえならずっと己が愛してやる》と云った小太郎」
『風来遊人帳』と書かれた題名を白い繊手で愛しげになぞる紫楽。咲魔は直しが終わったらしいその小説を鞄に詰め込む。
「《生まれた時からオマエは俺様のモンだ。勝手に俺様より先に死んだら殺す》《生きる理由がないなら、俺様のために働いていけ。そんで生きろ。俺様の生活をもっと楽にして睡眠時間増やせ》と云った銀兄貴」
表題『高嶺の花と曼珠沙華 ~幕末期譚~』という長編小説を指で撫で、含み笑い。咲魔は無視して、次の小説を催促する。
「《おまえが何者になっても、おれ達の絆は永遠だ。もっと頼れ。おまえがツライならおれ達が一緒にその咎を背負ってやる。だから泣いても良い。笑ってもいいんだぞ?》って救いをくれた宇賀野命様と空猫」
『神魔の宴。遊鬼童子の舞い遊び』などという古びた書物を見やり、咲魔にその改訂版の原稿用紙、短編をひとつ渡す。
「こんな僕でも、愛してくれた皆々様の言葉、僕という、俺という、私という、人格とすべての記憶が完全に消えてなくなるまで、忘れません」
『愛猫日誌』という短編集になるであろう小説群を、ドサッと咲魔の手の上に積み上げて、紫楽は目を閉じ、椅子にもたれかかった。
咲魔は受け取った小説、完成しているであろう未出版の小説を全て纏めて鞄の中に突っ込んだ。
「俺は、周りの人に恵まれている」
「やっと気づいたんですかバカ猫愛書家」
「幸せなんだろう……と思う。咲魔にも心配させてるみたいだし」
「ばっ、心配なんかしてないっ………です。阿保猫紫楽、心配するくらいなら、首吊った方がマシ………です。ま、まあ、次回作の催促は、少しだけ先延ばししてやってもいい……のです」
「………ありがとう。こんな幸せの実感も持てない俺に心を砕いてくれるなんて、ほんと、咲魔って弄りやす――」
「死ね。……です」
錫杖を雷付きで突きつける。ビリビリと黄色い閃光が走った。
紫楽はおったまげながら、紙一重で、錫杖の先にゴム手袋を投げ入れる。
「おわっとぉ!? あっぶねぇ。今、死ぬとこだったじゃねぇか」
「テメェなんか、死んでしまえばいいのです。このバカ猫紫白先生!」
錫杖が本気で突き出されにかかっている。
紫楽は苦笑して、咲魔の錫杖を掴み、女の様に細い腕の優男とは思えない怪力で、咲魔からそれを取り上げる。
ち、と天狗少女は舌打ちした。
「なあ、ひとつ聞いていいか?」
壁に立てかけられた錫杖を取りに行きつつ、咲魔は紫楽に目を向ける。
「僕は死んでいるの? それとも生きているの? これは夢……? それとも現実? 君はなにをもって、自分を自分と規定する……?」
あほらしくて付き合ってられるか。
天狗少女は出口に向かい、古書道の扉を閉めた。
冬の帝都・東京の空に天狗少女は飛び上がって去ってった。
◇◆◇
天井付近まで、びっしり積み上がった本の山。
今にも崩れそうなそれは、絶妙な均衡の上に成り立っている。
「ふふふ、また嫌われちゃった哉?」
紫楽は、古書堂のカウンターでひとり、ごちる。
そこへ、二階から一人の子供がいくつかの手紙を持って、降りてきた。
「おさー。お仕事、終わりましたか?」
「まだだよ? 桜花クン。今ね? 咲魔に嫌われなおしたとこ」
「あ~……はい、理解しました。小説の入稿が終わったならば、今度は“風由”の仕事と“古書堂”の仕事に専念してください」
「え、イヤ。だって、外、寒いし……僕、こたつでさっきの咲魔みたいにミノムシなるわ」
「し・ご・と! ちゃんとやってくださいね?」
ずるずるとカウンターの下から出した、布団を引きずって、こたつの方へ這っていく紫楽。桜花は可愛らしい七歳児の子供の顔に、冷徹なにっこり笑顔を浮かべて、紫楽の着物の帯をひっつかむ。そのまま、意外な怪力で、カウンター前まで押し戻した。ぷぅっとふくれっ面をして、凍えるそぶりを見せる和風猫美人男。
「寒い、やだ。凍えて、死ぬ」
「そんなこと言わずに。あ、兄君の銀様から、お手紙が届いてますよ」
「う~……兄貴の言うことには逆らえない。四十九院家当主様のお言葉、頂戴したいから桜花、手紙プリーズ」
どうぞと手紙を指し出す。
紫楽は、手紙を読み始めると一転して、真面目な顔つき。ただ、頭から被っている綿入りの真っ白い毛布さえなければ締まるのに、と思わなくもないではない。
「銀様のお手紙は、なんでしたか?」
「《至急、帰宅サレタシ。スグ戻レ。俺、限界》」
「………電報、ですか? それは」
「かもな。とりあえず桜花、本家行くぞ」
「分家の方々も揃っていたりしますかね?」
「さァな。八鬼衆の方は知らんよ。並外れた力を持つ人外と契約した隠叉の当主らと、一堂に会するのは遠慮したいね。そういうのは、銀兄貴の役目だもの」
「風由は裏方専門ですからねぇ。玩具会社と紫楽様のご趣味を除いて」
「ほっとけよ」
養い子に綿入れのコートを着せ、自分も家紋入りの羽織の上からぬくぬくコートを羽織ると、紫楽は桜花の手を引いて、甘田町あたりにある豪邸。業界の大物政治家、四十九院伯爵の実家めがけて、馬車を用意させるのでした。
窓の外に深々と雪が降り積もっている。
大通りを馬車は、ぱから、ぱからと軽やかに走りゆく。
桜花は窓の外を見て目を輝かせ、紫楽は雪の白さに思いを遠き昔の日に飛ばした。
「ふふふ、俺の子供のころから考えたら、今って大層な差だな」
「紫楽様の子供のころ? 興味あります。ぜひ、聞かせてください」
「よしよし、そんなに俺のことが気になるか?」
「はい。このど腐れ超人の、金持ちバカの、苦なく成功をつかみ取ったような裏世界のドン(笑)が、どんな貧乏苦労人生を送っていたのか、非常に興味があります」
「おい、こら、桜花てめぇ……」
「あ、大丈夫です。つまらなかったら指さして、腹抱えて、わざとらしく笑って差し上げますから」
「よ~し、わかった。おまえ、ほんと良い性格してるよな。耳の穴をかっぽじってよーく聞け。俺の(今生の)最初の記憶はな? 播磨地方のある地下牢から始まるんだよ」
「………はい?」
桜花はきょとんとした顔をして、養い親の挑戦的な表情を見上げた。
2014年、11月4日。割り込み投稿。
耐え切れず、書いてしまった。『藍猫古書堂』とこの『高嶺の花 曼珠沙華』は一応、別個の話です。
宜しくお願い致します。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。