藤夜叉姫
遠い昔の話でございます。
深い山に、大きな藤の木がありました。大きく美しい見事な花を、来る年ごとに咲かせるこの藤の木の精は、若い女の姿をしておりました。長い黒髪に、長くしなやかな手足を伸ばし、花と同じ薄紫の目をした女の姿です。
皆より藤姫と呼ばれる、この藤の木の精は、諱を「揺華」と申しました。もっとも、諱など、人に気安く呼ばせるものではありませんので、彼女を「揺華」と呼ぶ者は、彼女の昔馴染みでもあった、恋人ぐらいなものでありました。
諱を「流碧」というこの青年は、やはり人ではなく化生の者で、藤姫の住まう山を水源とする、川の精であります。流碧は、水の精としては、その満ち溢れる豊かな水の故に、演水、あるいは敬称を付けまして、演水君という名を持っておりました。
藤姫と演水君とは、同じ山に生まれ育った者同士であり、木と水という、養い養われる関係を持つ者同士であります。自らを生かす水の精である演水君に、藤姫が恋心を抱いたのは、さして不自然なことでもありませんでした。藤姫の想いを、演水君は一度は受け入れ、二人は恋人同士となったのです。
今、一度は受け入れ、と申しました。
そうです。二人は一度は確かに、想いを通じ合わせる仲でありました。けれども、二人の関係はやがて終わりを迎え、そうして一つの悲劇を生み出すことになるのです。そしてこれこそが、今私が語っております『藤夜叉姫』というお話となるのです。
藤姫は演水君を強く愛しました。それはもう、非常に深く、彼がいなければ夜も昼もない、とばかりに、激しく想いました。一つ所に根を張り、何処までも深く根を伸ばし、大地の力と水とをその身に取り込んで花を咲かせる木の精としては、それは特別におかしなことではありません。藤姫の愛し方は、共に大地に根を張る木の精にならば、何の抵抗もなく受け入れられたことでしょう。
しかし、演水君は木の精ではなく、水の精です。それも、湖沼のような動かぬ水ではなく、絶えず湧き溢れ流れてゆく、川の精です。その演水君にとっては、藤姫の愛は、愛と呼ぶよりはむしろ束縛と呼ぶべき者に感じられたのです。致し方ないことかもしれません。川は流れるから川であるのです。動くことを良しとしない、一つ所にとどまることを求めるような藤姫の心を受け入れてしまえば、演水君はもはや、川の精という自らの有り様を否定することになるのですから。
二人は次第にすれ違いました。ずっと傍にいて欲しいという藤姫の心を、最初こそは演水君も宥めておりましたが、自由に流れてゆくことを好む川の精にとっては、そのうちにそれも面倒に感じられるようになり、やがて演水君は、藤姫に対して、ことさらに辛く、冷たく当たるようになりました。それでも、藤姫は彼を愛し続けました。それは最早、演水君にとっては、重荷、束縛以外の何ものにも感じられませんでした。
ついに演水君は、藤姫の生きる糧である水脈をすら、彼女の根の届く範囲から引き離してしまいました。水を奪うことによって、藤姫を殺してしまおうと考えたのです。演水君の目論見通り、水を奪われた藤姫は急激に衰えました。演水君は、弱り切った藤姫を見て、嘲笑いました。そうして、水の流れのままに、山を離れていってしまいました。
深い山の奥には、水を失って枯れ衰えていく、一本の藤の木が残りました。悲嘆にくれながら、死へと向かっていく、藤の精が残されました。
藤姫への水を断ち、気ままに流れにまかせて旅だった演水君は、幾本もの川が流れ込む湖へとたどり着きました。この湖は、一帯の水の精を束ねる、長の住処でもありました。湖の精である長の諱は「治深」といいますが、周囲には「城主」と呼ばれておりました。彼の住処が、湖の中の島に築かれた城であったからです。
この城主には一人娘がありまして、諱を「永泉」と申しますが、彼女も専ら「姫」や、あるいは一字を取って「泉姫」と呼ばれておりました。湖の底に湧き出でる、湧水の精であります。清らかで愛らしい乙女である泉姫に、演水君は心惹かれました。そして泉姫の方も、豊かに満ち溢れる水の精である凛々しい青年に、心動かされました。
演水君は泉姫に、「流碧」と呼ばれることを許しました。おそらく、もう彼の頭の中には、水を断たれて死にかけている藤姫のことなど、これっぽちも残っていなかったのでしょう。あるいは、もう死んだものだと思っていたのかもしれません。
確かに、藤姫はもうほとんど死ぬ寸前にありました。微かな息が残るのみでした。
死にかけていた藤姫の所へ、訪ねてくる者がありました。真っ黒な長い髪をして、墨色と灰銀色の着物をまとった、女の妖でした。その顔色は恐ろしいほどに白く、また、痩せた手足を見れば、その内を通る骨や筋の有様が、はっきりと分かるというほどでした。この女妖怪は絡新婦といい、蜘蛛を統べる者です。土の気に属しますが、土の精と呼べる者には入りません。そう呼ばれるには、あまりに邪悪であるからです。
死に瀕していた藤姫を見つけ出して、絡新婦は声を掛けました。
「藤姫様であられますか」
ぞっとするほど冷たいのに、どこか甘やかすような、絡みつくような声でした。
もはや声を出すことも難しいほどでしたので、藤姫は僅かに頷いて答えました。
「ああ……水を断たれてしまったというのは、本当だったのですね」
絡新婦はまた、殊更に優しげな声でそう言いました。心の底から、姫の今の境遇を憐れみ、悲しんでいるかのような声でした。そうして、絡新婦は持参した竹筒を取り出して、その中の液体を口に含みました。動くこともままならない藤姫に、その液体を口移しに飲ませてやったのです。
瞬間、藤姫はかっと目を見開いて、激しくもがき苦しみました。清らかな山の水に育てられた藤の精にとっては、絡新婦の飲ませたものは、ほとんど毒に等しかったからです。
絡新婦が口移しに与えたものは、人の血でした。
邪悪な妖である絡新婦にとっては、これこそが水のようなものです。実際、若い男の生き血を吸う絡新婦の伝説というものもあります。ただ、藤姫にとっては、断たれて久しい水分であるといっても、到底受け入れられるようなものではありませんでした。
苦しみもがく藤姫に、けれども絡新婦は、相変わらずの親切そうな顔を欠片も崩さず、ねっとり絡みつくような声で語りかけました。
「藤姫様。藤姫様の水を断った演水君が、今、どこで何をしているか、御存知ですか」
知らない、知れるはずもない、という思いを込めて、藤姫は絡新婦を睨みました。
絡新婦は、やはり何一つ動じるような様子もなく、優しげな声で続けました。
「西方の湖の、水の精の長の城で、城主の娘と睦まじくしておいでのようですよ」
そう伝えられた瞬間の藤姫の顔ときたら。恨みも憎しみも、悲しみも苦しみも、恋しさも愛しさも、すべてが一つにされたような、あまりにも切ない表情でありました。
絡新婦は優しげに微笑んで、一つ、頷いて見せました。
「泉姫と仰るのですがね、演水君とはお互いに憎からず思い合っているようでして、城主殿もあるいは、演水君と一人娘とを結ばせることも考えておいでのようです」
藤姫の表情が、苦しみと怒りとに歪みました。致し方のないことでありましょう。自分が愛した男が、自分を捨てた上に死なせかけておいて、水の精の長の娘と通じているなど、藤姫にとっては耐え難い話であったに違いありません。
「藤姫様。しかしですね、演水君と泉姫の婚儀がなされては、私は大変困るのですよ。演水君は、水を満ち溢れさせる力をお持ちの方です。そして泉姫は、滾々(こんこん)と湧き上がる水の精です。両者が結びついてしまいますと、湖の力は一気に拡大してしまい、我ら一族の住処をも、侵されてしまう恐れがあるのです。私どもは土の眷属ですから、水には弱い方ではございません。しかし、過ぎたる水は土を削ります」
どうですか、と、絡新婦はまた、絡みつくような声音で言いました。
「藤姫様、演水君が憎くはありませんか。貴女様が演水君を深く深く想っておいでだったこと、私も私の眷属もようく存じ上げております。けれどもその想いに対して、あの方が何を下さいましたか。一度は受け入れておきながら、手のひらを返し、冷たくあしらい、辛く当たり、挙げ句の果てには、貴女様が生きていくのに欠かせぬと知っていながら、貴女様の根が張るべき水脈を、全て、全て断ってしまった。貴女様を殺して、湖の主の元に身を寄せ、その娘と通じて、次の水の精の長の座すら手にせんとしているのです」
絡新婦の言葉は、まるで藤姫の心の傷を、的確に一つ一つえぐり出していくかのようでした。一つ一つ、心の傷を抉られてゆくたびに、藤姫の心の中に、悲しみよりも鮮やかに、恨みと憎しみの炎が灯ってゆきました。絡新婦は、さらに言いました。
「藤姫様。演水君は貴女様を、欲望のために殺そうとしたのです。貴女様が演水君を怨んでも、それは当然のこと。貴女様が演水君を殺そうとしても、それもまた当然のこと。殺そうとした相手を殺すことは、何一つ不自然ではありません」
そうではありませんか、と、絡新婦は問いかけました。そして、こう尋ねました。
「藤姫様。演水君が憎くはありませんか。貴女様を捨て殺しにしようとしたあの男は、他の女の元へ走っておいて、それでいながら、やがては権力をも手中にするのですよ。演水君にとって、藤姫様は権力を得るための踏み台にすら思われていない……これが、愛して、愛し続けて、愛し抜いた者への仕打ちでしょうか」
藤姫の脳裏を、仲睦まじかった頃の二人の思い出が駆け抜けました。そして、すれ違い始めてからの思い出が。やがて、水を断たれた後の嘲り嗤いが、藤姫の脳裏に響きました。
ほろり、と、藤姫の双眼から、雫が溢れ落ちました。それは透き通る涙ではありませんでした。藤姫の目から流れ落ちたのは、濁って赤黒い、血の涙でした。
あ、あ、と、嗄れた声が藤姫の喉から漏れました。やがてそれは、身を裂くように悲痛な叫び声となりました。双眼から溢れ出す血涙が、大地を赤く染めました。
恋しさが、苦しさが、悲しみが、憎しみが、全て入り交じり、恨みの一念のもとに結晶となってゆきました。
こうして、藤姫は夜叉となりました。妖魔へと堕ちたのです。
断たれた水を、絡新婦はすべて血で補わせました。藤姫の中に清らかな部分を一片たりとも残すわけにはいかなかったからです。人の血を吸って、姫の花は赤く染まりました。藤色だったその両眼は、今や哀しい血の色でした。
次に絡新婦は、姫に刃の扱いを教えました。土生金(金より土を生ず)と申しまして、土の眷属である絡新婦は、金属を扱う術に長けております。しかし、金克木(金は木に克つ)と申しまして、本来ならば木の精が刃物を手にすることはありません。持てば自らを蝕むことになるからです。しかし、今や夜叉と化した藤姫には、自らを蝕む痛みも何も、気になるものではありませんでした。恋しさと愛しさと、口惜しさと、それに倍する憎しみが、姫の感覚を狂わせていました。
冬が来て、雪が積もる頃には、姫の体はむしろ、清浄な水の方を「耐えるべきもの」とするようになっていました。絡新婦は糸を張り巡らせて藤の木を覆い、清らかな山の雪を姫から遠ざけてやりました。そして春が来る頃、すなわち姫の属する木気の季節が訪れる頃、絡新婦は藤夜叉姫に戦いの装いをさせ、山を離れさせました。
向かうのは東の深山、日も差さない暗い山の中、絡新婦の棲む処です。
木は生えた所で一生を過ごします。その移動を強いたわけですので、絡新婦は殊更に優しげな声音で姫を労り、邪悪に穢れた大地に、しばし根を張らせました。幾人もの血を吸った、恐ろしい土にすら、すでに姫は平気で根付けるようになっておりました。
根を張り直し、姫が休んでいる間に、絡新婦は旧知の火の精を呼びました。
諱を「燎炎」と申します、その火の精は、流血と叫喚とを求めて、戦場の業火の中を渡り歩いておりました。金色に輝く炎のような長い髪を持つ、女の火の精です。非常に美しい見た目をしておりますが、心根はきわめて残忍でありました。
この燎炎には、常に連れ歩いている仲間と申しますか、部下が、二人おりました。一人は幾分かは燎炎よりも年嵩に見える外見をした、「熾炎」という諱の火の精です。熾炎は主の燎炎とは違い、いかにも優しげな顔をしております。けれども、彼女の心根が優しいかと申しますと、そういうわけではありません。もう一人の「煉炎」ともなりますと、こちらはもう、主の燎炎に勝るとも劣らぬ好戦的な性格であります。
この、戦乱を好む、きわめて物騒な火の精たちを、絡新婦は呼び寄せました。湖の城を攻めるのに、協力を求めたのです。木の精である藤姫には、火の精というものは本来快い存在ではありませんが、今の藤夜叉姫には、そのような判断は最早出来ませんでした。
水克火(水は火に克つ)と申しまして、火の精たちは水の城を攻めることを多少は躊躇いたしましたが、絡新婦は言葉巧みに、彼女らを企みに引き入れてしまいました。長である燎炎は、絡新婦とは旧知の仲でありますので、ある程度は、元からの信用があったのかもしれません。何せ、流血を好むという点においては、燎炎たちも絡新婦も、全くの同類なのですから。
「湖の城が落ちれば、戦火の拡大は間違いない」
そう絡新婦が言ったならば、燎炎にとっては、それは信じる価値のある言葉であったのでしょう。そもそも、絡新婦は邪悪な妖たちの中でも、一等に頭の切れる者です。彼女がそう言うからには、明確な勝算と、さらなる戦乱のための布石とが、全て考え尽くされているはずなのです。
藤姫を名目上の大将に担ぎ上げて、城攻めの戦が始まりました。
火の精の軍は、確かにひどく戦慣れしており、勇猛果敢なことこの上ありませんでしたが、如何せん相手が水の精では、多少どころでなく不利でありました。しかも、岸から最も近い東面を守る、青潭と申します将軍は、水だけではなく、水の中に棲む生き物たちや、水辺に生える植物すらも操る力を持っておりました。植物を操るという能力は、藤夜叉姫も持つものではありますが、清浄な気の強い湖では、どうしても姫の方が分が悪くなります。攻めあぐねる内に、卯月も半ばとなりました。火の精に焦りが見え始めます。
燎炎は、絡新婦を尋ねて問いました。
「絡新婦、貴女の提案であったから、我らは城攻めに協力したのだ。勝算のない戦はしないと、貴女を信用しているからだ。今、戦を始めて約半月が経つ。東面の青潭は言わずもがな、西面の白洌、南面の朱汽、北面の玄溟。敵将はすべてひとかどの者で、はっきり言って、我ら火の衆は攻めあぐねている。絡新婦、貴女には当然、策がおありだろう。あるのならば、そろそろ聞かせてはくれまいか」
絡新婦は、うっすらと嗤いました。
「燎炎殿、敵は手強いと仰るか」
何を当たり前のことを、と、燎炎は柳眉をひそめました。
「水の精は皆、水を操り戦うが、さらに青潭は水辺の動植物を操り、白洌は雨を操り、玄溟は氷を操る。特に南面の朱汽は、水を蒸発させても、蒸発させたその気を操って、なお攻撃が出来るのだからな。我ら火の精には難敵だ。それに、当然気づいておいでだろうが、まもなく皐月に入る。梅雨となれば、我らの力はますます殺がれよう」
「ならば、休戦といたそう」
絡新婦がにべもなく言い放った言葉に、燎炎の金色の髪が火のように揺れました。
「休戦などと、正気で仰せか」
「至って正気」
「左様なこと誰でなくともできよう。策はないと仰るか」
「城攻めからは手を引こう」
「絡新婦」
強い調子で、怒りもあらわな声で、燎炎は絡新婦を呼ばわりました。絡新婦は、相も変わらぬ涼しげな顔で、相も変わらぬ冷たい絡みつくような声で、嗤いました。
絡新婦の双眸に、冷酷な光が揺れるのを、燎炎は確かに見ました。悪辣な企みをする時の、彼女のいつもの顔です。絡新婦がこの顔で嗤う時、必ず夥しい血が流れるのです。燎炎はそれを知っていましたし、だからこそこの戦に加わったのです。
「しかし、貴女は手を引く、と」
「燎炎殿、私は、城攻めからは、と申し上げたのだ」
冷たくせせら笑う声に、燎炎も、この腸の腐った昔なじみが、単なる攻撃中止を考えているわけではない、ということを、はっきりと理解しました。
「ならば、何をするつもりか」
燎炎の問いに、紡いだ糸で地図を織り出しながら、絡新婦は話し始めました。
「今は卯月、時は春から夏へと向かう最中、山々には木々が若芽を伸ばし、日々生い茂ってゆく。湖の四方、全ての山々、これは皆同じこと。木々は大地に根を張り、水を吸い上げて生い茂る……その根に、山なす土塊どもを、たんまりと抱え込んでな」
さて、と、新しい判じ物でも解かせるような口調で、絡新婦は燎炎に問いました。
「城の水の精どもは、何故にその力を発揮出来るかは、お分かりだろう」
「水場の力だ。城は周囲を湖に取り囲まれている。しかも、四方から川が流れ込む上に、湖の中自体から水が湧き出すせいで、奴らの力の源は常に涸れることがない」
忌々しげに唇を噛みながら、燎炎は答えました。
絡新婦は、たいそう満足そうに笑いました。
「春先からの攻撃に対抗するために、この近隣の川の精どもは、多くが城に集まっている……今、城の周囲の山々に火を掛けたならば、それを止められる者はない。焼き尽くし、燃やし尽くし、山々の木々を灰燼に帰さしめれば、山の土を支えるものはない……皐月に至るまでに、それを終わらせれば、梅雨は恵みの雨となる」
燎炎は、ようやく、絡新婦がこの時期に戦端を開いたことを理解しました。
まず、湖の城に大がかりな攻撃を仕掛けることで、周囲の水の精たちの目を城に集中させます。その隙に山々の木々を焼き尽くして土壌を露出させます。そして、梅雨の力を借りて、土砂を一気に湖に流し込ませ、城の周囲の水を埋めてしまおうというのです。
燎炎は笑いました。高い声を上げて笑いました。こんな破壊的な作戦を、絡新婦は本気で実行するつもりであるのです。しかし、やるからにはやり遂げるに違いないのです。
「やはり貴女は、私の知る限りで、最も奸智に長けた妖だ」
絡新婦はうっすらと笑って、燎炎に問いました。
「では、この一帯の山林を、全て焼き尽くしていただきたいのだが、お願い出来るか」
糸で描いた地図を示しながら、絡新婦は言いました。燎炎は笑って頷きました。
「火克木。お安いご用だ」
「山焼きは、燎炎殿と熾炎殿のお二人にお願いしたい。煉炎殿には陽動を兼ねて、引き続き城攻めのふりだけは続けてもらいたいのだ」
「あれは『淬』が出来るからな」
三人の火の精の中で、煉炎だけが持つ能力です。刃物の焼き入れの要領で、水の攻撃を敢えて正面から受け止め、それによって自らの力を増幅させます。この能力の故に、煉炎の兵だけは、水場の戦闘でもそれなりの戦果を上げていました。この、現状では最も有力な軍団を退かせてしまうことは、敵に策の存在を感づかせるようなものです。
「左様。しからば、明日より攻め手の主力を煉炎殿にお任せし、燎炎殿と熾炎殿のお二方には、上流から火を掛けていただきたい。貴女の能力なら、三日もあれば、手の施しようもないほどの大火と出来るはず」
その絡新婦の言葉を、燎炎は笑って否定しました。
「三日などと。二日目には、消しやる気力も焼き尽くしてやるわ」
そうして、火の精の一部が、城攻めの手勢から姿を消しました。しかし、最も戦果の目立つ煉炎が残ったために、水の精たちはその異常に、なかなか気が付きませんでした。
彼らが異常に気づいた時には、すでに赤々と燃えさかる火柱が、湖の周囲の山々に幾本も立ち、橙色の炎が木々を舐め尽くしておりました。火は見事なまでに山々の木々を焼き尽くして、後には焦土に灰が残るばかりでした。
そうして、梅雨が訪れました。
連日の豪雨は、守るものもなく剥き出しになった土壌を根こそぎに押し流し、荒れ狂う濁流となった川は、流れ込む先の湖に、膨大な量の土砂を流し込みました。さらに、念の入ったことに、絡新婦は自らの手勢に命じて、山の一部に崩れやすくなるよう、細工をして回っていたのです。土砂崩れはさらに湖を埋め立ててゆきました。
それでも、湖にはまだ水源があります。泉姫の湧き水です。しかし絡新婦は、当然のようにそこにも手を伸ばしておりました。泉姫の護衛の忍びは「細波」と呼ばれる者で、水を伝わる波を読んで、遠くのことまで知る力を持ちます。しかし梅雨の間は、激しい雨音に遮られるため、細波の能力は落ちます。激しく雨の降る闇夜に、絡新婦は三人衆と呼ばれる手の者を、城に差し向けました。
三人衆は、それぞれ諱を「徹闇」「潜闇」「響闇」と申します。実戦に長けた徹闇に、知力に長けた潜闇。そして、相手の心に直接攻撃を仕掛ける能力を持つ、響闇。この三人は絡新婦の糸によって繋がれ、口を開かずとも意志の疎通が出来ます。それだけではなく、一人が他の二人を、糸を通じて操ることによって、身体能力なども分け合えます。日の光さえ当たらなければ、絡新婦の手勢の中では最も強い者たちであります。
三人衆は、細波の守りを破って、泉姫を攫うことに成功します。哀れな姫の末路など、言わずとも皆様、お察しでしょう。寄せ手の大将に担がれている藤姫は、この泉姫と演水君との仲に激しく嫉妬していたのでありますから。
無惨な最期を遂げた姫に、城主は激しく悲憤慷慨し、城の兵たちもまた、戦いの心をいっそう強くいたしました。泉姫の死によって、湖の水脈たる湧き水は力を失い、城はその守りの要である水場をことごとく潰されました。城に拠っていても、確かに先はないと思われましたが、冷酷で残忍な絡新婦や火の精たちへの怒りが、せめて一矢なりとも報いて死にたい、という思いを強めておりました。
梅雨が明ければ夏が参ります。火の季節の到来です。水の精たちには厳しい季節となりましたが、彼らはよく戦いました。特に、蒸気を操る朱汽は、火の精たちに何度も大きな被害を与えました。
けれども少しずつ、城方の被害は拡大し、やがて城門が破られる日がやってきました。
火の精たちの一方的な殺戮が繰り広げられる中、藤夜叉姫は一人、城の中を、演水君の姿を探して歩き回りました。恋した男の諱を呼ばわりながら。
「流碧様……流碧様……何処においでですか……揺華が参りましたのに」
両手に持つ、絡新婦から与えられた小太刀一振りずつは、歩き回る間にも、藤夜叉姫の体を蝕み続けております。それでも、最早正気を完全に無くした姫には、蝕まれる痛みは感じられないようでした。その血の色に染まった双眼は虚ろで、もはや探している者以外には、何も目に入らないようでした。
やがて、藤夜叉姫の視界に、怒りに凍った目をした演水君が現れました。
「流碧様」
姫は微笑みかけました。血染めの藤の花が揺れました。立ち上る瘴気に、演水君は思わず、袖で口元を抑えました。自分が殺そうとした女が、どういう経緯で魔の者になったのかなど、考えずとも明らかでした。藤姫が夜叉へと変わったのが自分のせいであるのならば、自分に想いを寄せた泉姫が、あのように無惨な死を迎えることになったのも、間接的には自分のせいであるのだと、演水君は理解しました。
「揺華」
それでも、自分は彼女と共に生きることは出来ぬ性分なのだとも、演水君は理解していました。共に生きるには、自分と彼女とはあまりに違いすぎるのだと。たとえどんなに愛されようと、それは自分にはやはり、重荷にしかならないのだと。
「流碧様」
ぎらぎらと、二本の小太刀が光ります。演水君も、自らの武器を構えました。
「来い、揺華」
あるいは、演水君は、藤夜叉姫を殺して自分も死のうと考えていたのかもしれません。それはもちろん、藤姫に対する愛情の故ではなく、自らが間接的に死なせてしまった泉姫への、償いのつもりであったのでしょう。
決着した瞬間、地に膝をついていたのは、演水君の方でした。藤夜叉姫の小太刀が一本、演水君の胸を貫いておりました。
流碧様、と諱を呼びながら、藤夜叉姫は残る小太刀を振りかざし、演水君の首を切り落としました。
「ああ、重い……重い……」
切り落とした首を持ち上げて、藤夜叉姫は口づけました。そうして、しっかと首級を抱きしめました。もう二度と戻ることの出来ない、甘い過去の思い出を、せめて逃さずに憶え続けておきたいという、哀しい願いの故でした。
あれほど焦がれた復讐を遂げた今、藤姫の胸中には、もう何も残っていませんでした。ぽっかりと暗い虚ろが、胸に口を開けるばかりでした。抱きしめた首が冷えていくのを感じながら、姫は涙をこぼしました。夜叉となった日の血涙を。そうして、まだ清らかな藤の精であった時のような、透き通った涙を。
その頃、この戦をけしかけた張本人である絡新婦は、盟友である燎炎と共に、城主の前におりました。
すでに城主は亡骸でありました。もちろん、残虐な性分の二人のことでありますから、殺す前の城主との間に、何か聞くに堪えないやり取りがあったことは、想像に難くありません。怒りと悲しみと憎しみに満ちた城主の死に顔が、それを物語っておりました。
冷たく嗤う燎炎の隣で、絡新婦は城主の胸に刃を突き刺し、その血を一滴残らず吸い取りました。そうして、城の奥へと歩き始めました。
城の奥に、一つの隠し扉がありました。絡新婦の頼みを受けて、燎炎はそれを力任せに破壊しました。そのまま、二人は扉の向こうへと進み、さらに現れた階段を、地下へ地下へと向けて下ってゆきました。
行き止まりにあった扉に注連縄が貼られているのを、燎炎は嫌悪感もあらわに睨みつけました。戦火を好む邪悪な火の精にとって、注連縄は気持ちの良いものではないからです。それは、やはり争乱を好む絡新婦にとっても同様のはずです。
絡新婦は注連縄の前に立つと、先ほど城主の体から搾り取ってきた血で、その注連縄に穢れをつけました。妙に濃くなった瘴気に、燎炎が首を巡らせますと、いつの間にかこの地下まで、無数の絡新婦の糸が張り巡らされているのでした。そうして、その伸ばされた一本一本の糸、全てから、虐殺された水の精たちの、怨嗟に満ちた声が、血と共に滴り落ちているのでした。
絡新婦は、このおぞましい戦禍で、城主が築き上げ守ってきたらしい、清浄な結界を、徹底的に破壊するつもりであるようでした。
求められるまま、燎炎は注連縄を焼き払いました。そうして、二人は扉を開けて、さらに奥へと進みました。そこには幾本もの杭が打ち込まれた、巨大な何かの塊のようなものが、やはり太い注連縄で縛られておりました。
絡新婦は、糸を通じて滴り落ちてきた血で、浄められた空間を徹底的に穢しました。そうして、今度は自ら手を伸ばして注連縄をはぎとり、打ち込まれた杭の一つ一つを、丁寧に丁寧に抜き取っていきました。さながら、取り憑かれたような顔でありました。
がさり、と、その巨大な塊が動きました。絡新婦の動きが、さらに勢いづきました。がさり、がさりと、縛られていたモノの動きが大きくなります。やがて、絡新婦は、最後の一本となった、最も巨大な杭を、その痩せた体の何処にそんな力があるのだろうと思われるほどに、渾身の力を込めて、抜き取りました。
大地が割れるような声が響きました。その声はびりびりと、空気と大地を震わせました。
「ああ……」
絡新婦は、未だかつて燎炎が聞いたこともないほど、陶然とした声を洩らしました。
「ああ、お会いしとうございました」
いつも凍りついたように冷たい双眼に、狂気をまとったほどの熱を帯びさせて、動き始めた何者かを見つめています。やがて燎炎は、その何者かが、極めて巨大な蜘蛛であることに気が付きました。それはやがて、人に近い形へと変じてゆきます。
ようやく燎炎は、この古馴染みの本当の企みを知りました。
湖の城の地下に封印されていたのは、古の大妖怪、土蜘蛛でありました。
絡新婦は、封印された主君を解放するために、城を落とすためのあらゆる策を練ったのです。木の精である藤姫を魔道に堕として、土の眷属への木の精たちの攻撃を弱めさせ、さらに水を吸わせて、主力となる火の精の力が殺がれることを防ぎます。天候と地形をも味方につけた計略のことは、言うまでもありません。
あの作戦を破壊的だと考えた自分は、まだまだ甘かったと、燎炎は思いました。
土蜘蛛が復活したならば、あの程度の破壊は、おそらく日常茶飯事になるはずです。
阿鼻叫喚を求めて戦場を渡り歩き、山々を灰燼に帰さしめた燎炎でさえ、この絡新婦の主君に比べれば、足下にも及ばない小さな妖魔に過ぎないのです。
人の姿へと変じた土蜘蛛の元に、絡新婦は恭しく頭を垂れました。
「土蜘蛛様、お久しゅうございます」
「繰撓か」
「はい」
「そなたが封を解いたのか」
「私だけではございませぬが、私も確かに加わってはおります」
張り巡らせた糸から滴り落ちる血を、土蜘蛛は満足そうに眺めました。
「この聖域を、ようもここまで穢したものよ」
「お気に召されましたか」
古馴染みが最上級の敬語を使ったことに、燎炎は驚きました。それだけ、絡新婦はこの主君を畏怖し、敬愛しているということなのでしょう。
土蜘蛛は背筋の凍るように冷たい笑みを見せ、一つ、頷いて返しました。
「気に入った」
「恐悦至極に存じます」
その瞬間の絡新婦の顔を、燎炎は、まるでほめられた子どものようだと思いました。
「それにしても、ようもこの城に戦禍など持ち込めたものよな」
土蜘蛛の言葉に、絡新婦は畏まった様子で答えました。
「火種を探すのには、たいそう苦労いたしました」
「ふん。それで、その火種とやらはどこにおる? よもや後ろにおる、あれなる戦火の精とは申すまい」
視線を向けられて、燎炎は、背筋に氷を差し込まれたように感じました。絡新婦は首を左右に振って、主君の言葉を否定しました。
「あれは私の盟友で、この城攻めに協力してくれた者でございます。火種はおそらく、城のどこだかで、恋しい男を手に掛けておりましょう」
指先から伸ばした糸を手繰り、ああ、と絡新婦は一つ頷きました。
「すでに事切れておりますか」
糸で感知した場所へと、絡新婦は主君と盟友を案内しました。そこには、首を打たれた演水君の亡骸と、その首を抱きしめたまま息絶えた、藤姫の姿とがありました。
「湖の水源の一つである山の奥に生える、藤の精でございます。恋仲であったこの川の精に水を断たれて、殺されかけておりましたので、復讐をもちかけた次第にございます」
ほう、と、土蜘蛛は面白そうに目を細めました。
「清らかな花であったのだろうに」
「血染めの藤はお嫌いでございますか」
「いいや。戦禍と争乱、流血は、我の生きる世に欠かせぬものよ」
演水君の死体から、藤夜叉姫の小太刀を引き抜き、血に塗れた刀身をしげしげと見つめながら、土蜘蛛はそう答えました。
「まとめて葬り、塚なりと拵えてやるがよい。そうして、そなたの企みのおぞましきを、後の世々へと語らせしめよ。我らが騒擾の世の幕開けを告げた悲劇としてな」
微塵も悲しみなど感じていない、嘲弄するような声で、土蜘蛛は絡新婦に命じました。絡新婦はまた恭しく頭を垂れて、主君の命に従いました。
今、ここにある塚は、その時に絡新婦の手の者によって立てられたもの、と伝えられております。
その後、何百年にも及ぶ戦乱の世が続いたことは、皆様もちろん御存知のことでありましょう。その幕開けとなった事件は、もちろん人の世の歴史にも記されてございますが、人ならぬ者が伝える物語にも、さて、一片の真実が含まれていることはあるやもしれません。もちろん、お信じになるかお疑いになるかは、この話をお聞きになった皆様次第。
さて、私の話はこれにてお終い。
その後、戦乱の世が終わりを告げた時、この土蜘蛛一党がどのような道を歩んだのかは、また別の話でございます。
……おや、私の素性などお尋ねになって、なんとなさいます。
この世には、知らぬが仏という言葉もございましょうに。
ああ、ああ、嫌なものです。火傷で済めば儲けもの、過ぎれば命を失いますのに。
ええ、私は妖、諱を「 」と申します、絡新婦でございます。
ああ何と不味い血か。それに、たったこれっぽっちでは、我が主の腹も膨れませぬなぁ。
―了―
「土蜘蛛」の語は、『日本書紀』および『古事記』に登場します。語源は「土ごもり」で、そもそもは鉱山などを擁する反ヤマトの勢力を指し、無論蜘蛛とは無関係だったのですが、時間の経過とともに語呂の感覚からか、蜘蛛の大妖怪として扱われるようになりました。(鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』など)
無論、このお話では「恐ろしい大妖怪」という設定であります。絡新婦を越える蜘蛛の大妖怪といったら、コレしか出てこんかったんです。
ところで、藤夜叉姫の観点から書いた詩(歌詞)があります。
よくもまぁこんだけ詰め込んだなというぐらい、本歌取りやら掛詞やらの技巧を凝らしたものなので、また詩集でも作ったら上げて見ようかと思います。
言葉遊びは専ら詩でやりますが、この小説の方にもいくらか入ってます。
ところで、この城攻めにはモチーフがあるんですが、分かった方はおいででしょうか? おいでだったら……ガタガタガタ……。