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二日目・また、明日

「さあーやってまいりました! 第一回腕相撲大会! プレイヤーの紹介に参りたいと思います! 解説の狐さんお願いします!」

「はい。翔君にかわりまして、解説の狐です。選手は赤コーナーから! セバスさん! 反対側は青コーナー! 王子さん!」

「君たちって僕たちの理解の及ばない域に達してるよね」


 呆れたような王子の声は皐月の青いには届かなかった。

 ここは会場の中央から離れた閑散としている場所。

 ロマンチックに浸ろうとしているのか男女二人きりでいるものが多い中、皐月たち一行はテーブルを囲んでなにかをしていた。

 少ないながらも周りからの冷たい視線を感じられるが、必要以上に周りを気にしすぎていても何も起こせはしない。


「ここはプレイヤーの意気込みでも聞いてみたいところですね!」

「確かにそうですね。では私から聞いてみますね! 赤コーナーのセバスさん! 

今はどんなお気持ちですか?」


 葵がマイクを突き出すように手に拳を作って、それをセバスの口元に寄せている。

 それでもセバスが何も言おうとしないので、葵はずいずいと体を寄せていく。

 何事にも勢いが大事なのだ。


「さあ! さあさあ!」

「なにがなんだかついていけない」

「これまで練習してきた成果を出したいとのことでした!」

「言ってない」


 セバスが何かを呟くが、乗りに乗っている皐月と葵の耳には届かない。

わいわいとはしゃぎながら、腕相撲大会と銘打ったイベントが進んでいく。


「さあ、それでは腕相撲の準備に入っていただきたいと思います!」

「あっ、僕へのインタビューはないんだね……」

「されたかったの? ごめん! では王子さんへのインタビューをしたいと思います!」

「ごめん、いらない」

「そっかぁ」


 次は葵に変わって自分がインタビュアーだと意気込んでいた皐月はがくりと肩を落とす。

 けれども気を取り直してもとの軌道を修正することにする。


「じゃあいよいよ始まります! よーいどん!」

「えっ!? いきなりすぎない!?」

「準備が準備になってないよ!?」


 皐月の号令にとりみだすセバスと王子。

 あまりにも急すぎたため、心の準備も出来ておらず、こんな結果になってしまう。なんだか気をそがれる気分だ。

 それにこの号令は何かが違うだろう。

 セバスと王子は皐月に任せておくといいことにはならないと思いお互いに目配せをする。


「自分たちで合図を決めようか」

「そうしようではないか」


 絶対にそのほうがいいだろう。

 後ろのほうで皐月が文句を言っているが、文句を言われて当然のことだと思うので聞き流すことにする。

 葵は静かにしているのだから、皐月にもそれを見習って欲しい。


「私もよーいどんしたかったなぁ……」


 そうでもなかったようだ。

 不満を胸のうちに秘めていただけで、皐月とさほど違いはなかったみたいだ。


「しかし、腕相撲なんて久しぶりだな」

「セバスとは始めてだと思うぞ」

「好き好んですることじゃないからそうだろうよ」


 セバスと王子は学校で同じクラスの友人であるが、腕相撲などしたことがない。機会がなかったからだ。そもそも機会が訪れることなんてそうそうないだろう。


「俺は王子よりも力あると思う。……棄権してもいいんだぜ」

「そんなものはやってみないとわからないだろう?」


 王子は不敵に笑う。

 セバスもそれにつられて笑ってしまった。

 なんだかとても面白い予感がする。

 セバスと王子はお互いの手を強く握り締め合い腕相撲の用意をする。力が入れやすいようにひじの位置を微調整してお互いの顔に向きあう。


「合図は俺からでいいか?」

「任せよう」


 どちらが合図をかけるかを確認してから、ゲームの開始だ。


「3、2、1——行くぞ!」


 セバスがそういうのと同時に二人は力を精一杯入れた。

 お互いの力が拮抗しあって小刻みに震える。しかし、その状態は長くは続かなかった。

 徐々にセバスが王子を押し始めて王子の体勢が崩れていく。

 そして決着がついた。

 テーブルについている手は王子のものだった。


「俺の勝ちだ……!」

「……僕の負けか」


 うれしそうな声を漏らすセバスと対照的に王子は悔しそうだった。

 本気の戦いだったということだろう。


「二人とも格好よかったよ!」

「真剣な顔がぐっときた!」


 皐月と葵も素直な賞賛を送った。

 たとえ腕相撲とはいえど何かに真剣に取り組んでいる人の顔というものには魅力があるものだ。

 そこには勝利は関係なく、勝ったセバスも負けてしまった王子も二人とも輝いていた。

 特にセバスの勇姿を見ることが出来た葵は興奮が冷めやらない。


「僕もいい線までいけると思ったのだがなあ」

「王子は華奢なほうだからね」


 ため息を吐きながら感情を露にしている王子の腕を掴む。予想だにしていなかったのか王子はがたんと椅子から立ち上がって驚きの表情で皐月を見る。

 その反応に皐月も驚いてしまった。そこまで慌てなくてもいいだろうに。


「ふぅ。折られるかと思ったよ」

「今すぐ折ってやろうか」


 ただどれだけの筋肉があるのだろうかと見ただけでは分からないので、興味本位で触ってみた結果がこれだった。

 皐月はなぜその発想が出てくるのか自分に対する印象が間違っているとしか思えず不満である。


——でも、確かに細かったなあ


 皐月の想像していた以上に、細かったような感じがした。

 さすがに女性よりはしっかりとした腕だったが、同年代の男性と比べるとどうしても見劣りはするのではなかろうか。


「ところで、翔君と狐さんは腕相撲しないの?」


 セバスと王子の試合の余韻に浸っていたところで、そんなことをセバスが言ってきた。


「けど、私たちじゃセバスや王子には敵わないからなあ」


 困ったように葵がセバスに答えるが、葵の言うとおりだ。

 これには性別の差がでかく、仮に行ったとしても接待になるに違いない。

 そんなことをしても興ざめなだけであろう。


「いやいや。俺たちとじゃなくて、二人でだよ」

「二人で? ということは私と翔君でっていうこと?」

「そうだよ。やってみたらけっこう面白かったよ」


 そう言ってセバスは爽やかな笑みを浮かべた。

 セバスがあまりにも楽しそうに言うので断ることもできずに皐月と葵は顔を見合わせてしまう。

 お互いの顔はどうしようかと疑問視を浮かべていた。


 皐月と葵が腕相撲をしたところで何も利点がないように思えるのだが、セバスはそうは思っていないらしい。やったものとやらざるものの差なのだろうか。仮面の下の目はきっときらきらしていることだろう。

 そして、意外にも王子もそれに賛同してくる。


「僕は負けてしまったが、なかなかよかったよ」


 そこまで言われるのなら、やらないわけにもいかないだろう。

 皐月は葵と示し合わせてテーブルの横に座る。正直な話、心が踊ってわくわくとしていた。

 きっとこの気持ちは葵も同じに違いない。

 本気の力で誰かと競い合うのは気持ち言いに違いない。


——いや、待てよ


 そこで、皐月は一旦思考をリセットする。

 例えば皐月が葵と腕相撲をして勝ったとする。理想とする反応は翔君すごいねー、である。


 しかし、あまりにも皐月が頑張り、力が強すぎて葵に圧勝してしまったとする。そうなると、予想される反応は、シ、ショウクンってスゴイネ……だと思われる。 

さらに、女子なのにこれって、ゴリラみてぇだな! と言われでもしたら相手の仮面を裂く自信がある。


 しかし、そもそも皐月は葵の手伝いでセバスを葵に好印象を抱かせないといけない。皐月が手を抜くことで対照的に葵の力を際だててしまい、葵に力持ちの称号を手に入れられてしまうと、皐月としてもまずいことになる。

 腕相撲で負けて、きゃー負けちゃったーとでも言えば女子力が高いだろう。

 本来ならば、葵がそういうのがベストなのだろうが……。

 皐月は目の前でひじをついて皐月を待っている親友を視界に入れて、起こりうる可能性を天秤にかける。


 よし、負けることにしよう。

 葵には悪いが、乙女として皐月も譲れない部分があるのだ。ごめんなさいと先に心の中で謝っておいて葵の手を握った。


「準備はできたみたいだな。合図は俺がかけようか?」

「じゃあ、よろしくお願い」


 自ら申し出てきてくれたセバスに頼み、皐月はひじの位置を調節する。一応、力が入りやすいようにするのだ。


「それでは、3、2、1——はじめ!」


 皐月はぐっと腕に力を入れる。

 葵が攻めてきても、すぐにやられないような工作のためだ。周りにも頑張っているように見せられるし、徐々に押されていくことができる。完璧な作戦だ。


 しかし、皐月はすぐに違和感を感じることとなる。

 葵が押してこないのだ。皐月の目から見ても、葵の腕には力が篭っており、そんなはずはないはずなのに。


 そこで皐月は気づいた。

 葵も皐月と同じ考えであるのではないかと。

 それならば、早く負けなければ!


「……ふんぬぅ!」

「……ちぃ!」


 瞬間、皐月と葵の戦いが始まった。

 皐月と葵は同時にお互いの考えを見抜いていた。そして、同時に力を活用し始めたのだ。自分が負ける方向に腕を動かす!


 しかし、腕はどちらにも動かない。皐月と葵はどうやら同じくらいの実力のようである。本来と逆の方向に力を入れており、慣れていないということもあってか膠着状態だ。

 皐月がちらりと葵を見ると、葵もまた皐月を見ていた。


「まさか同じ考えだったとはね……!」

「そうだね。まさかだったよ」


 相手の裏をかこうとしたもの同士、共有の感情が生まれている。いわば、一種の 同族意識だ。そして、この場において間違いなく同族だ。

 それならば、負けるわけにはいかない。

 相手も同じ立場に立って勝負していると分かってしまうと、絶対に負けたくないと心に火がつき競争心が芽生えた。なるほど、セバスや王子が言っていたのはこれのことだったのか。


「うらあああ!」

「ッ!!」


 皐月が声を張り上げたことにより、葵の気が一瞬そがれる。

 その一瞬が命取りになり均衡が崩れ、腕が傾いていく。葵も負けじと力を入れるが、崩れてしまった力関係の前に元の状態に戻すことさえも難しくなっていた。

 少しずつ少しずつ皐月の手の甲がテーブルに近づいていく。


——ここで決める!


「これで……終わりだぁあああ!」


 ばんっ! と大きな音を立ててテーブルに手が叩きつけられる。

 皐月は額に流れてきた汗を手でぬぐいながら宣言する。


「狐さん、私の勝ちだね!」

「………………」


 葵は何も言葉を発しない。

 悔しさが渦巻いているのだろうか。悲しみにくれているのだろうか。

 しかし、勝負は無常なのだ。皐月が葵に言葉をかけることはない。

 これでか弱い乙女の称号は我が物になるのだ。

 皐月は心の中で不敵に笑う。


 ふと、セバスや王子からの視線を感じてそちらを向いた。

 なぜなのだろうか。とても生暖かい目で見られていた。

 皐月が首をかしげるのを見て、王子が一言言ってみせる。


「……翔君は力が強いんだね」

「し、しまった!」


 あれほど叫んでいれば当然負けるように頑張っていたのはばれていただろう。


「ふっ……計画通り」


 テーブルに伏した葵が小さくそう言うので、


「絶対違うだろ!!」


 皐月は思わず叫んでしまった。




 皐月と葵の間でひと悶着が起こりそうだったが、王子が機転を利かせてなのか天然なのかはわからないが踊ることを提案した。

 王様ゲームや腕相撲などを興じていたが、ここは仮面舞踏会なので踊らなければ始まらないだろうとのことだった。

 皐月は王子のその言葉にすっかりと忘却の彼方にあった仮面舞踏会の文字を思い出す。

 葵やセバスも王子の言うことがもっともだと賛同して二人で踊りに出かけたのだ。

 そして皐月は王子と二人でいるのだが。


「……翔君。我々は踊らないのか?」

「しーっ! 気づかれちゃうじゃない」


 王子が不満を持った声で皐月に問う。

 皐月と王子の周りにいる人は皆、手を取り合って楽しそうに踊っている。しかし、皐月と王子は手を繋いでいるのはいいものも、いっこうに踊る気配がなかった。

 踊りたいために提案をした王子が不平を感じるのは至極当然といえる。

 しかし、皐月はある方向を見ることに一生懸命になっており、王子の言葉に耳を傾けようとはしなかった。

 その方向には中が良さ気に踊っているセバスと葵の姿がある。


「いい調子っぽいね?」

「同意を求められても困るのだが」


 王子としては皐月が何を考えているのがさっぱりなのでそう返すしかなかった。

たまに邪魔にならないようにすこし歩いてはいるのだが、踊っているとは到底言いがたい。

 何しろ皐月が踊りに関心を持っていない状態なのだ。


「むむむ……。何を話しているのかあまり聞こえないなあ。王子、もうちょっと近づいてみよう」

「なんでパパラッチの真似事をしないといけないんだ……」


 王子はそう苦言を漏らすも、ぐいぐいと引っ張ってくる皐月の意思に反しようはせずに、引かれるがままに移動していった。




「今日はごめんね」

「どうしたの?」


 葵はセバスに心から謝った。

 そんな葵にセバスは疑問を感じて、口に出していた。


「いっぱい時間を貰っちゃったし、私と翔君ってこんな感じだからさ……」

「ああ、そのことか」


 そんなこと、と言われて葵の胸がずきっと痛んだ。

 昨日セバスから話しかけてもらって、気にかけてもらって、段々と心惹かれていった。セバスは葵にとってそんな相手だ。

だから、例え真実だろうとしても、迷惑だと思われていたのだと分かってしまうと、どうしようもなく悲しい。


「確かに、君たちってテンションが高くってちょっとおかしいよね」

「うん……」


 皐月と葵の悪い癖だ。

 自分たちが楽しければ、周りの迷惑を省みずどこまでも突き進んでいってしまう。その中で、相手についてくることを強いてしまう場合がある。

 今回はその例に漏れないだろう。

 葵が気づいていただけでも一歩下がられていたことが数回はあった。


「でもさ、新鮮で楽しかったよ」

「……え?」

「いや、俺が知ってる女の人ってけっこう大人しくて、自分っていうものをそんな風に外へだしていく人っていなかったんだ。だからかな、すごくいいなって思えた」

「……えっと、あれでも?」

「あれはちょっとキツイかも」


 葵がそう言って小さく指差したのは左方で人ごみにまぎれながらこちらの様子を伺っている皐月の姿だ。

一緒に王子もいるが、無理やり連れてこられているのだろうか、隠れようともしないで堂々としていた。

 真剣な目でこちらを見ていた皐月は葵とセバスの視線が自らのいる方に向いているのに気づき、慌てながら王子の手を取りと多くに言ってしまった。


「ふふふっ」


 皐月は葵がセバスとの仲を取り持ってくれと頼んでいたために近くまで来てくれたのだろう。なんていい親友なのかと思うが、そこまで心配されるほど情けなく映っていたのだろうかと考えると笑ってしまった。

 そんな葵を見てセバスが優しげな声色で言う。


「君たちは本当に仲がいいんだね」

「恥ずかしながら、私もそう思ったところ」

「それに、友達のことを心配してくれるなんて素敵だと思うよ、羨ましい限りだ」


 セバスが皐月のことをよく思っていることに葵は自分のようにうれしくなる。

 しかし、セバスの次の言葉に驚くこととなった。


「翔君は俺のことを警戒していたみたいだから。特に狐さんに近づく時は見えないはずの眼光を感じてたよ」

「えっ!?」


 皐月がセバスを警戒していたとはどういうことだろうか。しかも、セバスが葵に近づいた時に皐月は特別に気を張っていたと言われて葵は混乱する。

 皐月は自分を応援してくれていたのではないのだろうか。


「そんな驚くことじゃないって。大切な友達に変な男が近づいていかないように見張っていたんだと思う」

「そうなのかな……。全くそこまで心配してなくてもいいのに」


 葵は苦笑いを浮かべる。

 口ではそんなことを言いながら、皐月の行動や態度を責められないのだ。

 きっと自分が皐月の立場だったら同じことをするだろう。

 そんな葵を見てセバスが口を開く。


「本当は仮面舞踏会なんて来たくなかったんだよ」

「そうだったんだ」

「それでも今は良かったと思える。……いい人たちに出会えたからさ」


 その瞬間、葵の世界は時を止める。

 周囲のがやがや声も耳に入らなくなっていた。踊っているせいもあって葵とセバスの距離はとても近かった。心臓の鼓動がとても身近なものに感じられた。


 緊張のせいか、うまく口を動かせない。

 セバスのその言葉には深い意味は篭っていないのだろう。

 だから、今すぎ言わないといけない。

 セバスが次の言葉を言う前に

 やっとのことで葵は口を動かした。


「私も、最初は付添いでここにやってきて、私にとっては特別なことなんてないんだろうなって思ってた」


 でも、それでも。

 仮面舞踏会に来て、皐月にやる気を出させるために自分と張り合わせて、軽い気持ちで臨んだ罰をくらったのかうまくいかなくて、座り込んで沈んでいた自分の前に現れたあなたと会えたから。

 昨日の晩は枕に顔をうずめてもだえていた。頭の中が騒がしくてなかなか寝付くことが出来なかった。

 それほどまでにのめりこめる、あなたに会えたから。


「私も来てよかったと思う。」


 そして、叶うのならば、その先まで——。

 皐月が先生から聞いていたように、葵もまた仮面舞踏会の不文律について教わっていた。

 必要なのは踏み出す勇気だけ。

 ぎゅっと口を結んで、力をためて、葵は口を開いた。


「あなたたちと出会えて私はよかった。あなたと出会えてよかった。……そして、もっと仲良くなりたいと思うのは、傲慢かな」

「……っ!」


 セバスが虚を突かれたように言葉を失っていた。

 予想外のことだったのだろう。

 葵はそのまま言葉を繋げる。


「もしよければ——」

「待って」


 葵が決死のことで紡ごうとしたその言葉をセバスが制した。

 葵は目頭が熱くなり泣きそうになってしまうのを頑張ってこらえようとする。

 途中で言葉を遮られてしまうということはそういうことなのだろう。

 あふれそうになる感情が行き場を失っていた。

 それでも、葵の肩は小刻みに揺れ始めていた。

 それを見たセバスは葵を優しく抱きしめた。


「泣かないで。最後まで俺の言うことを聞いて欲しい」


 葵はセバスの胸の中で震えるだけで言葉を発しない。


「最初はまたかと思った」


 仮面舞踏会は始まったばかりだろ言うのに、自分が思ったとおりに上手くいかなかったのだろうかうずくまっている人はセバスが見ても少なくはなかった。

 この人もその一人なのだろうと思っていた。


「それでも、なぜか話しかけてしまったんだ」


 できるだけ優しい声で不快感を与えないように心がけた結果返ってきた言葉が『ナンパならよそでやってよ』だった。

 心配したのにその言い草はなんだ! とも思えなかった。

 ただ、おかしかった。

 自分だってその類のことをして失敗したから座り込んでいたのだろうに、そのことは棚に上げておいて非難をしてくるのだ。

 この人は面白い人なのかもしれないと思うのと、踊りに誘っていたのは同時のことだった。あれには自分でも驚いた。


「なんだかんだあって一緒に時間をすごしていたけど、その中で段々と惹かれていく自分に気づいたんだ」


 いざ踊るとなると足を踏んづけられた。次の日に再会したかと思うと、友達と一緒で前日とは段違いの明るさだった。

 友達の子もちょっと変だったが、葵もそれに引けをとっていなかったと思う。

 でも、そこから目を離すことはできなかった。

 意識をそらすことは出来なかった。


「でもとても明るかったから、きっと俺なんかじゃ相手にならないんだろうなって思ってた。明日からは別の人と楽しくやるのだろうなって思ってた」


 でも、彼女は今泣いているのだ。

 泣かせたのは——。


「引け目を感じてても、この心を打ち明けるべきだった。ごめん……」


 そこで始めてセバスの胸の中で静かにしていた葵は顔を上げた。

 愛おしそうに両手をセバスの頬に添える。

 ゆっくりと互いの距離を近づけて、こつんと仮面と仮面が接するまでセバスの頭をもってきた。


「ううん、ありがとう。……今、とても幸せな気持ちでいっぱい」


 嘘偽りのない心境をセバスに伝える。

 うれしかった。セバスがこんなにも悩んでいたなんて知る由もなかったが、それを葵に打ち明けてくれて本当にうれしかった。

 葵は名残惜しそうにセバスの頬から手をどけて、セバスから少し距離をとった。

 そしてセバスの真正面に姿勢をぴんと正してたたずむ。

 セバスの言葉を待っているよ、とそういわれた気がしてセバスは息を呑む。

 緊張して喉がからからだ。

 でも、これは、勘違いではないのだろうから。

 ちょっとだけの勇気を手に入れたのだ。

 それでも、


「明日、二人でどこかに遊びに行きませんか?」

「へたれかっ!」


 緊張してしまって思っていることとは別なことを口に出してしまった。

 大事なことを伝えるのは、また明日。

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