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プロローグ

――ごめんなさい。あなたのその  が……



 チャイムが鳴って授業の終わりを告げる。教壇に立っている教師に生徒が群がっていく。質問をしている生徒や取りとめもない日常会話を投げかけている生徒もいる。一様性がないように思える生徒たちも、実は目的は同じだったりするのだ。


「……はぁ」


 辻宮皐月つじみやさつきはその集団を冷ややかな目で見ながら小さくため息を吐いた。誰にも聞こえないような小さな吐息の音。クラスメイトの注意が教壇の集団に向いている中、このように疲れてそうな自分に気づくものはいないだろう。


「やっぱりキツイの?」


 そう思っていたのだが、皐月の親友である中野葵なかのあおいは気に留めていたようで皐月に声をかけてきた。

 その問いに胸がズキリと痛んだように感じた。疲れた体にさらに重圧がかかったような気がして、顔が自然とうなだれる。

 それでも、あまり葵に心配をかけたくない。皐月は葵と顔を見合わせて笑顔を作った。


「キツイのはキツイけど……沈んでばっかりもいられないよね。ありがとう。私は大丈夫だよ」

「そう……? それでもいいから、私はいつでも皐月の味方で助けたいって思っていることを覚えておいてね」

「……ありがとう」


 皐月が無理やり笑顔を作っていたことを、葵にはばれていたようだ。それでこその親友なのかもしれない。

 葵の優しさを皐月はうれしく思う。ちょっと頬が緩んでしまった。


 それがばれるのは少しばかり恥ずかしい気分になるので、隠すように乱暴に椅子から立ち上がる。

 それによって立った音は普段の生活で起こるのは少し大きく、教室に響くことになった。それにより皐月は教室の注目を集めることとなり、隣にいる葵も一歩ほど足を上げてのけぞっていた。


「………っ!!」


 予想外のことに皐月はあたふたと顔を動かした。恥ずかしさで赤面するのを感じる。いたたまれなさで、ここから逃げ出したい。さらし者のような状態は勘弁したいので、机の横のフックに掛けてあった鞄を手に取り、鞄を肩に掛けて教室から一刻も早く出ようとする。


 しかし、その過程の途中で、教壇の集団の中心にいる教師と目が合ってしまった。

 実際に視線が交差している時間は、瞬き数回にも満たなかっただろう。それでも、皐月には永遠にも感じられて。教師の困ったような表情が脳裏に張り付く。


「皐月!」


 どうしようもなく様々な感情が湧き出してきて、その感情があふれ出てしまわないように、皐月は教室から飛び出した。

 後ろから聞こえてくる親友の声に答えられずに申し訳ないと思いながらも、すぐにあの場からできるだけ遠ざかりたかった。


 廊下にちらほらといる生徒から感じる不快な視線を感じながら廊下を駆ける。勢い余ってある男子生徒に腕が当たってしまう。軽く謝って階段を下っていく。こんなに階段を早く下りようとしたのは皐月が小学生の時が最後だろう。時間もそこまで経たずに一回にたどり着く。


 さすがに疲れた。皐月は立ち止まることにして息を整える。急にした運動だったものだから、落ち着くまで時間がかかりそうだ。

 後ろの階段からは慌ただしい音は聞こえてこず、二人の女子生徒が談笑しているだけだった。

 急に駆け出した皐月を不審に思ったとしても、その理由を問いただすために追いかけてくるものはいないようだ。


 胸に手を当てると、心臓がバクバクと動いているのを感じられる。それは走ったためのものだろうか、それとも……。


 いや、考えるのはよそう。

 六時間目が終わっても、学校が終わったというわけではない。掃除をしてからホームルームが待っているのだが、このような状態で教室に戻り掃除をするのはこの行動の意味もなくなってしまい馬鹿らしい。

 クラスメイトには悪いが今日は帰らせてもらおう。そう思って足を踏み出した時だった。


「あら、辻宮さん」


 声を掛けられて反射的に逃げ出そうとしてしまう足をなんとか抑える。まだ落ち着かない気持ちを紛らわせるために大きく息を吐いてから声の主に答える。


「ご、ごきげんよう、斉藤先生」

「口調がおかしくなってるわよ。あなたのご両親は一般のサラリーマンでしょう? あなたのお家は平均的な家庭よ」

「宝くじが当たってお金持ちになったかもしれないじゃないですか」

「その発想がすでに庶民よ。さあ、こちらにおいで」


 唐突に着いてくるように言われて驚いたが、皐月は大人しく着いて行くことにする。


 斉藤先生とは皐月がお世話になっている保健室の先生だ。斉藤先生と交流を持ち始めたのは数ヶ月前からと最近ではあるが、気が合うこともあってか随分とよくしてもらっている。


 ぼーっとしながら歩いていたせいで、立ち止まっている先生とぶつかってしまった。皐月が頭を抱えるようにすると先生は上品に笑った。


「ちゃんと前を見ないとダメよ」


 皐月の顔が思わず紅くなる。先生にたしなめられると子ども扱いされている気がして、なんだかとても恥ずかしいのだ。

 先生よりも年上のお姉さん、というような感覚。

 だからこそ皐月と仲良くなれて、たくさんの相談事に乗ってもらったのかもしれない。


 先生が立ち止まっていたのは保健室の前だった。

 スライド式のドアを開けて、靴を脱ぎ、中に入る。

 それに皐月も続く。先生はすでに定位置である椅子に腰掛けていた。皐月も無造作に置いてあるパイプ椅子からひとつを選んで座った。


 先生は何も言わずに皐月をじっと見ていた。

 皐月は何かを言おうとしたが、喉に何かが詰まっているような感じがして声が出ない。

 先生が発言しないので、皐月にとって少々居心地が悪かった。

 保健室につれられたということは何か話があるからではないのだろうか。なぜ何も言ってくれないのだろう。


 やがて、先生が口を開いた。


「つらかったのでしょう?」


 皐月は唇をぎゅっと噛む。その言葉はナイフのように皐月の体に深く沈んでいった。


「初めてだったのよね。初めてがあの人だったことは、とても難儀だったと思う」


 先ほど葵にも言われたことだ。きつい、つらい。当たり前のことだけど、心はそう簡単に沈められることではない。

 皐月が口を固く結んでいるのを確認しながら先生は言葉をつなげる。


「色々な壁があったんだもの。それは決して超えることもできないし、ぶち破ることもできない鉄壁」


そうだった。あの人と私には障害がありすぎた。その中でも一番大きなものが社会的な立場。


「それでもあなたは行動に移した。実らないことも知っていたのにね」


 なにもしないで後悔するよりは、行動してから後悔したほうがいい。そう思って皐月は動いた。そんなことをしてはダメだと頭の中で警鐘がなっていたのにはかかわらずだ。それほどの強い感情が心を支配していたのだろう。


「誰かには呆れられるかもしれない。誰かには軽蔑されるかもしれない。それでも私はあなたを勇気のある人だと称えたい」


 皐月ははっとしたように先生の顔を見る。

 先生はやはり優しげな目をしていた。そこには皐月に対する悪感情はなく、それこそよい行いをした子供を褒めるような暖かい気持ち。


 もうこれ以上は言うことはないというふうに先生は立ち上がって皐月の隣にやってくる。皐月は先生を見上げようとしたが、それを阻止するように先生は皐月に合わせてしゃがんだ。そして皐月の頭に手を乗せる。


「泣いてないのでしょう? 感情をこらえてばかりいてはダメ。精一杯吐き出しなさい。そうしてはじめて次に進めるのだから」


 その言葉が体の心まで沁みこんで。

 うずまいていた様々な感情が涙となって現れて。

 そんな皐月をしっかりと包み込むように先生は胸の中に抱いていたのであった。


 一旦あふれ出した感情もそう長くはならずに数分で皐月は泣き止んだ。濡れた先生の服を見て申し訳なさを感じながらも、どこか晴れ晴れとしたような気持ちで体が軽く感じた。


「先生、ありがとう……」

「どういたしまして」


 皐月と先生は笑みを交し合う。

 やはり先生は頼りになる人だ。皐月の中に好感度のメーターがあったとしたら最大値どころか振り切れて壊れてしまうだろう。


 にやつきを心の中に収めていたが、皐月にちょっとした疑問が芽生えた。


「けど、そんなに分かりやすかったですか? 私が沈んでるって」

「そうねぇ……」

 先生は人差し指を唇に当てて思案顔をつくる。

「分かりやすくはなかったけどなんとなくそんな気はしたし、掃除もせずにうろついてるし。理由を挙げようと思ったらそんなところでしょうけど、さっきも言ったとおり辻宮さんの想いが実るわけないし」

「あー、ひどい。今ので傷ついたら責任とってくれるんですか?」


 そんなふうにおどけて見せたが、実際のところ皐月の胸はチクリといたんだ。それでも教室で感じたものと比べると全然たいしたことなかったし、少しは乗り切れたのかなと思う。


「いま、ちょっと寂しそうな顔になったわよ」

「別にそんなことないですっ。ていうかスルーしないでくださいよ」

「これも処世術のひとつだから、辻村さんも覚えておいて損はないわよ」

 そういいながら先生は皐月に背を向けて自分のデスクに戻っていく。そして引き出しを開けて何かを探し始めた。

「そんな処世術聞いたことないんですけど……」


 例えば自己啓発本にしたってそうだ。どうやったら意中の人とうまく話せるだろうかと本屋さんをめぐりコミュニケーションに関する本を探したことがある。

 しかし、どのような本にも相手の話をよく聞くこと、ウィットにとんだ会話をして相手の興味をつかむことなどなど。

 どこにも都合の悪い言葉を無視するとは書いていなかった。


 皐月は胡散臭い目を先生に向けるが、先生は探し物に夢中なようで、皐月の様子などまるで気にしていない。

 そこまでして一体何を探しているのだろうか。

 気になったので、体を浮かして覗き込んでみたが、引き出しの中はプリントや文房具、小物で雑多としていてなにが目的なのか分からなかった。


「なに探してるんですか?」

「ちょっと待ってね……。あれー? ここにあったはずなのにな」


 皐月の顔も見ないで返答する先生。まさに一心不乱といったところか。別にそれは今する必要がないじゃなかろうかと皐月は思ったが、口には出さず、所在なげに手をまさぐった。

 両手の指をあわせて親指同士をくるくるとぶつからないように回すとなかなかおもしろかった。親指に満足して、次は人差し指。順々に中指、薬指と進んでいく。普段意識して使っていないせいか、薬指はなかなか難易度が高い。

 そんななか、先生が明るい声を出した。


「あったわ! 一人でにやついてなんかいないで、こっちにいらっしゃい!」

「に、にやついてなんかいないです!」


 一人で笑みを漏らしているのを見られるほど恥ずかしいものはない。自分の頬に熱を感じながら、先生の下へ歩み寄る。

 その熱を隠すように皐月は手をぱたぱたと振って。


「しかし、熱いですね。暖房でも入ってるのでしょうか」

「残念ながら、暖房は効いてないけど、冷房ならはいってるわ。夏ですもの」

「………………それで何が見つかったのですか?」

「賢明な判断だと思うわ。これを見てちょうだい」


 まさか先生流の処世術であるスルーがこんなに早くに活躍するとは思っていなかった。

 それはそれでいいのだが、なんだか手玉に取られているような気がする。いいや、そこは気にしてはいけないところなのだろうと皐月は首を振ってから先生が差し出してきたものを受け取った。

 それは封筒だった。あて先は皐月が通うこの高校となっている。手に取った感触から、中に数枚の紙が入っているのがわかった。中身は手紙なのだろうか。

 皐月は封筒を開封しようとしたが、先生に手で制止させられた。


「なんですか?」

「あなた失恋したばかりよね」

「………………」


 先生は私を泣かせたいのだろうか、そんな考えが頭によぎる。

 皐月は疑惑の目を先生に向ける。


「想い人から振られて、悲しみの絶好調だったわよね」

「ひ、ひどい! そんな確認みたいに何回も聞かないでください!」


 皐月はよよよと、袖で涙をぬぐうように顔を隠す。実際に皐月の目じりにはちょっと涙が浮かんでいた。

 失恋したばかりの心にその言葉攻めを耐えるのは厳しいものがある。


「そう、それよ。それなのよ!」

「え、なにがですか」


 先生は突然立ち上がり皐月を指差した。漫画などで探偵が犯人を推理する時にするしぐさと全くといっていいほど同じだ。先生はすこし興奮しているのか目が爛々としていた。

 先生のテンションに気持ち一歩引きながら、引きつった笑みで皐月は応える。なんだかとても嫌な予感がする。


「辻村さんはさっき、盛大にわめき散らしたおかげでこの失恋を乗り越えられたかのようだけど、根本的には乗り越えられていないのよ!」

「わ、わめき散らしたって! 言い方を考えてください!!」


 先生は皐月の講義に耳を向けずに熱弁を再開する。


「辻村さんはまだ、あの無謀で愚かで身の程知らずだった恋に縛られている!」

「デリカシーぶっ飛んでった!!」

「そんな辻村さんは果たしてどうすれば明るい未来を迎えることができるのか……」


 先生はそこでいったん言葉を切った。自信に満ち溢れた顔で皐月を見つめてくる。

 しかし、おかしいなー、さっきまではすごくいい先生だと思ってたのだけどなー、そんなことを皐月の表情は語っていた。

 皐月からの目線が冷たいことに、先生は驚いたように目をぱちくりとさせるが、ここで止まる先生ではなかった。先生は次の言葉をつなげる。


「……新しい恋に走っちゃえば、いいじゃない」

「先生さよーなら」

「ああっ!」


 そそくさと立ち上がり保健室のドアに手をかけた皐月を、先生は急いで腕を掴んで引き止めた。そのままずるずると引っ張っていき、肩に手を置き、圧力を掛けて、皐月を物理的に着席させる。


「痛いです」

「でも辻村さんの心は失恋でもっと痛がっているはずよ!」

「…………っ!」

「無言で帰ろうとするのはやめてもらおうかしら……!」


なんとか立ち上がろうとする皐月と、上から押さえ込もうとしている先生。

 先生が必死に全身を皐月の頭に乗せてきたので、勝機はないなと判断して皐月はおとなしくすることにする。


「先生は正気を失っているのではなかろうか」

「そういうことは口に出すものではないのよ」


 先生は皐月から離れて姿勢を正しながら、たしなめるような口調で皐月に語る。思わず皐月はジト目を向けた。


「そ、そんなことよりも、新しい恋なのよ!」


 居心地が悪くなったのか、さつきの視線から逃げるように椅子に座りながら話を切り出した。

 それでもこの話題なのかと皐月はうんざりしたが、先生が頑なにその話を続けようとするので、真面目に取り合うことにする。


「つまり、新しい恋に夢中になることで、悲しい気持ちを忘れようということですか」

「察しがいいようね。その通りよ」

「その通りと言われても、私はそんなの嫌ですよ。そもそも、そんな簡単に恋できるわけないじゃないですか」


 ため息を吐きながら皐月は窓の外の空を見上げた。恋がそんな簡単なものなら初恋ももっと昔に終わっているはずだし、ここまで悩むこともなかっただろう。

 その発言はいささか無責任に感じられた。


「当てがなかったら私もそんなこと言わないわ。そこであれが登場するの……。ねぇ、さっき私が渡した封筒はどこにやったの?」

「むしゃくしゃしたのでぐしゃっとしてぽいしました」

皐月が指差した先に封筒はあった。床に捨てられたごみにしか見えなかった。


「結構重要なものだったのに……」


 悲しそうな声を出しながら先生は封筒を拾う。

 丁寧なしぐさで封筒を平らに広げて、封を開けて中身を取り出した。

 数枚ほどのプリントとチケットのようなものだ。それをまとめて皐月に手渡した。

 皐月は受け取ったプリントに軽く目を通してみると、何やら珍しい単語が目に入ってきた。


「仮面……舞踏会……?」


 確認するように皐月は先生に視線を向けると、先生は笑顔で、


「辻村さん。この仮面舞踏会で、彼氏をつくってきなさい!」


 と言い放った。

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