第3話:化学溶液の美学
「エド君……見て。私をキャラじゃなくて、一人の人間として見てよ……」
ミホが咽び泣く。その声は掠れ、絶望の極致に達して今にも壊れそうだった。
僕は黙って座ったまま、プラスチックのストローで残った氷を啜った。隣ではルシアが、期待に満ちた瞳を輝かせて観察している。彼女の言った通りだ。ミホの革バッグからは、黄色い床用洗剤のボトルの先が覗いていた。
「ハッピーエンドの物語で、一番吐き気がする部分を知ってるかい?」
僕は囁くような、だが鋭い声で切り出した。
「異世界作家なら君に回復薬を飲ませて、全ての傷を消してやるだろう。でも、ミホさん……この現実世界では、化学薬品は君の喉を焼き潰すだけだ。助けを求めて叫ぶことすらできなくなるまでね」
ルシアがクスクスと、ナイフを研ぐような音で笑った。
「さあ、ミホ。この章を退屈なまま終わらせないで。エドが舞台を用意してくれたんだから」
壊れた人形のような、唐突でぎこちない動きで、ミホはそのボトルをひったくった。蓋が開き、鼻を突くアンモニア臭が僕の嗅覚を襲う。他の客たちも異変に気づき始めたが、彼らはただ呆然と立ち尽くし、スマホを構えた。――悲劇に飢えた、コンテンツの奴隷どもだ。
ゴクッ。ゴクッ。ゴクッ。
ミホは貪るようにそれを飲み干した。
一秒。二秒。
先ほどまで蒼白だった彼女の顔が、どす黒い紫色に変色していく。彼女は自分の首を掻きむしり、黒いネイルが皮膚を抉って血が滲む。口からは白い泡の混じった透明な液体が溢れ出し、木製のテーブルに滴り落ちて家具の表面を焼き、――彼女の人間としての尊厳を焼き尽くした。
彼女は椅子から崩れ落ち、汚れたカフェの床で痙攣した。喉の奥から漏れる、窒息しそうな呻き声。それは僕がこれまでに聴いた中で、最も純粋な音楽だった。
「美しいと思わない?」ルシアが耳元で囁く。「君の小説の退屈な描写より、ずっと素敵よ、エド」
僕はスマホを取り出した。指先が人間業とは思えない速度で画面の上を踊る。助けもしない。救急車も呼ばない。ただ、打ち込む。
『洗浄液は這い回る炎のように広がり、彼女の声帯を焼け爛れた肉の塊へと変えていく。彼女は許しを乞いたかったが、今の彼女の世界にあるのは熱痛と、遠ざかっていくピンクの帽子の残像だけだった……』
「エド……さま……た……すけ……」
血の滲んだミホの手が、僕の靴に縋り付こうとする。
僕は足を少し引いた。「ごめんね、ミホさん。脇役には死に際のアドリブなんて許されないんだ。それが基本ルールだから」
突然、カフェのドアベルが鳴った。パニックと悲鳴が渦巻く中、一人の小柄な少女がそこに立っていた。新宿にはあまりに不釣り合いな、理路整然としたセーラー服。スクールバッグには不気味で可愛い(クリーピーキュートな)キーホルダーが揺れている。
彼女は死にゆくミホの体を無表情で見つめ、それから僕とルシアに視線を向けた。
「長野は、とても退屈でした」
少女の声は澄んでいたが、ひどく冷たかった。
「なろうに投稿されたばかりの下書きを読んで来ました。私の名前は琴葉朱莉、16歳です。エド先輩。あなたのピンクのジャケットに汚れがつかないよう、この『ゴミ』をもっと効率的に片付ける方法を、私は知っています」
僕はピンクの帽子の下でニヤリと笑った。隣のルシアも興味を惹かれたようだ。僕の「キャラクター」コレクションに、さらに壊れた一人が加わった。




