第3話 AAAAカップの俺と乳カースト制度
その女について歩くこと数十分、辿り着いたのは街のはずれにある廃墟地区だった。
かつては何かに使われていたのだろう石造りの建物が、崩れかけたまま密集している。その一角に、トタンと木材をかき集めて建てたような小屋があった。窓は布で塞がれ、扉は蝶番が一つ外れかかっている。
その女は扉を開け、俺を中に招き入れた。
中は狭かった。木箱を二つ並べたテーブルと、同じく木箱を流用した椅子。毛布を巻いた藁束が寝床で、壁際に水の入った甕と、乾燥させた食料が少し。それだけだった。余計なものが何一つない空間は、質素というよりも、ここで暮らす人間が持つことを最初から諦めているように見えた。
その女は無言で棚から布と薬草を取り出すと、俺の傷の手当てを始めた。
「よし、これで問題ないだろう。大丈夫、ここまで自力で歩いてこられたなら、お前は強い」
「歩けないほどの怪我ではないですけど」
「精神的な話だ」
その女は手を拭きながら言った。
「まあ、つまらん家だが、そこら辺に掛けてくれ。話をしよう」
俺は木箱の上に腰を下ろし、向かいに座るその女と向き合った。
改めて見ると、この女は不思議な雰囲気を持っていた。切れ長の目は鋭く、油断なく俺を観察している。しかし、その奥底には何か別のもの――怒りとも悲しみとも取れる、くすぶり続ける火のようなものが宿っているような気がした。
「君はどうやら記憶をなくしているらしいが、今は落ち着いているか?」
「……はい、おかげさまで」
さて、どこまで話すべきか。
異世界から来た、というのは言わないほうがいいだろう。実は男だ、というのも今は保留だ。記憶喪失という設定で話を進めるのが無難だろう。
「何も思い出せません。ここがどこかも、自分が誰かも」
「そうか……。打ちどころが悪ければ記憶が飛んでいても不思議はない。記憶を取り戻す魔法というのは存在するが、高位の精神魔法になる。並の魔法使いには扱えない」
「あの、この世界には魔法があるんですか?」
俺は素直に聞いた。記憶喪失の人間が知らないことを聞くのは自然だ。
「ある。ただし魔法を使えるのは女だけだ」
「なぜ女だけなんですか?」
「魔力は基本的に女の胸に宿るからだ。この世界では、胸の豊かさがそのまま魔力の大きさに比例する」
女は静かに、しかし淀みなく語り始めた。
「初級魔法を使えるのはCカップ以上。中級魔法はEカップ以上。上級魔法となるとGカップ以上の魔力が必要だ。そして最高位に位置する空間魔法や時間魔法、精神魔法の深部に至っては、Lカップ以上でなければ発動すら難しい。当然、男には胸がないから魔法は一切使えない」
「じゃあ、胸が大きい人ほど強くて偉い、という世界なんですか、ここは」
「偉いというより、それがすべての基準だ。胸の豊かな者は魔力を持ち、国を守り、人々を導く。それがここ、バストリア王国の秩序だ」
女は一呼吸置いて、続けた。
「王国憲法には乳カースト制度が明記されている。胸のサイズによって身分が決まり、職業、居住区、結婚相手、生活様式まですべてが規定されている。胸の豊かな者は社会の上位に置かれ、貧しい者は……君が今日体験した通りだ」
「乳カースト制度……」
言葉が出なかった。
今日、街を歩いた数十分の間に見たもの、感じたもの、受けたものの意味が、ようやく一本の線でつながった気がした。女騎士の軽蔑。手を洗う動作。ならず者の笑い声。「貧乳に人権はない」という言葉。
あれは暴力ではなく、この国では法の範囲内で起こりうる、日常なのだ。
「……胸にスライムを詰めるとか、豊胸で見かけだけ大きくするとかはダメなんですか?」
「乳偽装罪は極刑だ」
「極刑……」
「それほど重い罪だということだ。魔力のない胸を魔力ある胸に見せることは、この国の秩序を根底から否定する行為に等しい」
「分かりました。絶対やりません」
俺は素直に引いた。命には代えられない。
「そういえば……改めて、ありがとうございました。今日、助けてもらわなければどうなっていたか」
俺は頭を下げた。
「気にするな」
女はそっぽを向いて短く言った。照れているのか、単に興味がないのか、判断がつかない女だ。
「あなたの名前を、まだ聞いていませんでした」
俺が言うと、女は少し間を置いた。
ほんの一瞬だったが、確かに躊躇があった。何かを測るように視線が宙に漂い、それから静かに俺へと戻ってくる。
「……ミルカだ。ミルカ=フレイ」
名前だけ言って、それ以上は何も続けなかった。
俺は特に深く聞かなかった。この女が多くを語らない人間だということは、少し話せば分かる。
「ミルカさん、よろしくお願いします」
「さんはいらない。ミルカでいい」
ミルカは立ち上がり、棚に水を取りに行った。その背中を眺めながら、俺はぼんやりと自分の名前のことを考えた。柏木凛太郎。今の体でその名前を名乗るのは、やはり無理がある。
水の入ったお椀を持ってミルカが戻ってくる。俺の前に置いて、向かいに座りながら、ふと口を開いた。
「そういえば、君の名前は」
「……それが、分からなくて」
「そうだったな」
ミルカはしばらく俺を見ていた。俺の顔を、それから胸元を、また顔を。何かを考えているようだった。
「ミリ、と呼んでいいか」
「ミリ?」
「君に似合いそうだと思っただけだ。嫌なら別の名にするが」
特に感情のない声で言った。ただ、その目が一瞬だけ、どこか遠いところを見たような気がした。
「……いえ。ミリ、で構いません。ありがとうございます」
「そうか」
ミルカはそれだけ言って、視線を椀に落とした。
ミリ。悪くない。今の俺にはちょうどいい名前のような気がした。
◆
しばらく沈黙が続いた後、ミルカが静かに口を開いた。
「これからどうするつもりだ」
俺は椀を両手で包みながら、少し考えた。
どうする、か。
記憶をなくした、という設定は維持したままでいい。しかし本音を言えば、やるべきことははっきりしている。この体を元に戻すこと。男に戻ること。そのためには、この世界の高位魔法に関する情報が必要だ。
「……自分が何者だったのか、取り戻したいんです。記憶だけじゃなくて、もっと根本的なところから」
「根本的なところ、とは」
「うまく言えないんですけど……今の自分が、本来の自分じゃない気がして。性別まで含めて、全部ひっくり返ったような感覚があるんです」
ミルカは黙って聞いていた。否定も肯定もしない。
「そういう……自分の根っこに関わる魔法って、存在するんですか? 記憶を取り戻すとか、性別を変えるとか」
「記憶の復元は高位の精神魔法だと言った。性別変換については……私には分からない。そういった研究が進んでいるとすれば、一つだけ心当たりがある」
「どこですか」
「王都だ。王都グラン・バストリアには国立の魔法大学がある。高位魔法の研究機関としては王国最大で、研究者も多い。もし答えがあるとすれば、そこだろう」
「王都……」
俺は反芻した。
「ここからどのくらいかかるんですか」
「徒歩なら二週間以上だ。ここはバストリア王国、南東部の地方都市オパルム。王都グラン・バストリアはここからだと北西にある」
二週間以上。しかも今日だけで痛感した。この胸でこの世界を歩くことがどれだけ危険か。
それでも、選択肢はなかった。ここに留まっていても何も変わらない。元の自分に戻る手がかりが王都にしかないなら、王都に行くしかない。
「……俺、王都に行きます」
「一人では死ぬぞ」
ミルカは静かに言った。脅しでも煽りでもなく、純粋な事実として。
「貧乳街の外は今日以上に危険だ。オパルムの中でさえあの有様だった。都市間の街道はもっと荒れている」
「分かってます。それでも行きます」
ミルカは黙って俺を見た。反論しなかった。
沈黙が続いた後、彼女は小さく息をついた。
「……私も、行こう」
「え?」
「ミリ一人で王都に辿り着くのは難しいだろう。それと……私もいつか王都に行かなければならないと、思っていた」
彼女の声に、何か重いものが混じっていた。俺には今、その理由を聞く権利がない気がして、黙って次の言葉を待った。
「踏ん切りがつかないでいたが……良い機会だ」
「本当に、いいんですか?」
「私がそう決めた。それだけだ」
ミルカはそっけなく言い、立ち上がった。
「王都まで行くなら、まず身分証が必要だ。この国では身分証がないと関所を通れない」
「身分証って、どこで作るんですか」
「冒険者ギルドで冒険者登録すれば、身分証代わりのバッジが発行される。出発前に寄ろう。登録には名前、年齢、それとバストサイズが必要だ」
「バストサイズが身分証に……」
「この国では、それが最も重要な個人情報だ。記載は義務になっている」
なるほど。さすがバストリア王国。
「じゃあ、今の俺のサイズも把握しておかないといけないですね」
「うん。一応、測っておこうか」
ミルカはどこからかメジャーのような道具を取り出した。
「脱いでくれ」
「……はい」
俺は羽織りを脱いだ。男として生きてきた俺には、上半身を人に見せることへの抵抗はそれほどなかった。それよりも、測定結果のほうが怖かった。
ミルカはメジャーを手際よく当て、数字を読み上げた。
「アンダーバスト66センチ、トップバスト68センチ。差は……2センチだな」
「2センチって、何カップになるんですか?」
「カップ数というのはアンダーとトップの差で決まる。2センチというのは……AAAAカップだ」
「AAAAカップ?」
「Aの下にAA、その下にAAA、さらにその下がAAAAだ。この国における最低カテゴリーに当たる。貧乳というより……無乳に近い」
「無乳……」
じわじわとダメージが来た。
2センチ。これはほぼ乳首の突起ぶんの長さではないか。つまり俺の胸は、乳首が存在している事実を数値化しただけにすぎない。乳首以外に何もない。おっぱいが存在していない。
「……ミルカは何カップなんですか」
俺はやけくそ気味に聞いた。
「アンダー74、トップ84。差は10センチでAカップだ」
「俺の5倍もあるじゃないですか!!」
「……すまない」
「謝らなくていいですよ……」
俺は羽織りを着直しながら、頭を整理した。
AAAA、か。
パイシアのやつ、やってくれたな。「この胸の真の素晴らしさを思い知るがよい」という言葉の意味が、ようやく完全に理解できた。俺はこの世界の底辺から、すべてを体で学ばされるのだ。
クソ貧乳女神め。
俺はその背中を見ながら、胸の中に何か小さな温かいものが灯るのを感じた。
ここに来てまだ一時間も経っていない。でもこの世界の最底辺に叩き落とされた。胸は世界最低カテゴリーのAAAAカップ。魔力はおそらくほぼゼロ。頼れるものは何もない。
それでも、隣に立ってくれる人間が一人いる。
「……ありがとう、ミルカ。これからよろしく」
「ああ。お互いにな」
この世界ではメートル法が使われています。カップ数はアンダーバストとトップバストの差で算出し、A、B、C……と大きくなっていく表記を採用しています(海外のDDD表記ではなく日本式)。またAAAAカップはバストリア王国固有のカテゴリーです。現実世界には存在しません。




