第2話 異世界へ
目が覚めたとき、最初に感じたのは石畳の冷たさだった。
俺は薄暗い路地裏に倒れていた。頭上には見知らぬ空。積み上げられた石造りの壁が左右に迫り、腐った木樽の臭いが鼻をついた。
「……どこだ、ここは」
ゆっくりと立ち上がりながら、状況を整理しようとする。転生。異世界。女神パイシア。白い光。
そこまでは覚えている。
よし。まずは初期装備の確認だ。こういうときは焦らず、情報を集めるのが基本だろう。
持ち物――なし。服は……ボロボロの羽織りに、粗末な布で作られた下半身の衣類。スカートのような形状だが、縫い目が粗く、素材も粗末だ。
まあいい。身一つで異世界に来たんだから、それくらいは想定内だ。
だがそこで、一つの不安がよぎった。
パイシアの最後の言葉が頭に蘇る。「この胸の真の素晴らしさを存分に思い知るがよい」。あれはどういう意味だったのか。
嫌な予感がして、俺は恐る恐る股間に手を当てた。
あるべきものが、なかった。
「……は?」
頭が理解を拒んだ。もう一度触った。やはりない。全力で否定しようとしたが、手のひらが正直に事実を伝えてくる。
近くの水たまりに近づき、水面を覗き込む。
映っていたのは、見知らぬ少女の顔だった。黒い短髪。丸い瞳。肌は青白く、唇は乾いている。骨ばった顎のラインが、憔悴した印象を与えていた。
俺の顔ではなかった。
しかし間違いなく俺だった。
「おい待て待て待て。ちょっと落ち着け、俺。なんで性別まで変わってんだ。パイシア、出てこい。今すぐ出てこい!」
宙に向かって叫んだが、返事はなかった。路地裏に俺の声がむなしく反響するだけだ。
「絶対わざとだろ。俺がおっぱい小さいって言ったから嫌がらせしてるだろ! あの貧乳女神……!」
怒鳴り散らしたところで何も変わらない、と頭の冷静な部分が告げていた。
深呼吸する。
いい。とりあえず考えよう。ここが異世界なら、魔法も未知の技術もあるはずだ。性別を戻す方法だって、きっと存在する。まずはこの世界の情報を集めることが先決だ。
俺は明かりの見える方向へ歩き出した。
◆ ◆ ◆
路地を抜けると、にわかに喧騒が耳に飛び込んできた。
大通りだった。
石畳の道の中央を、馬に似た動物が引く馬車がゆっくりと往来し、その両側の歩道を大勢の人々が行き交っている。石造りの建物が立ち並び、木製の看板が風に揺れていた。文明レベルは中世ヨーロッパ風といったところか。いかにも異世界らしい、絵に描いたような街並みだ。
俺はまず、街の全体像を把握しようと視線を巡らせた。
そこで、気づいた。
通りを歩く女性たちの胸が、軒並み凄いことになっていた。
服の上からでも、その豊かな膨らみは誰の目にも明らかだった。大きい。みんな大きい。通りを横断する女性をざっと数えただけで、平均カップ数が軽くFを超えているのではないかという確信が生まれてきた。
「きた……」
思わず声が漏れた。これがパイシアの言っていた世界か。女神への怒りが、一瞬だけ薄れる。
しかしその感動も束の間、俺はすぐに自分の現状に引き戻された。
俺は今、女だ。そして胸がない。
周囲の視線が、じわりと俺に集まってくるのを感じた。好奇ではない。嫌悪だ。あるいは憐れみか。どちらにしても、俺を対等の人間として見ている者は一人もいなかった。
嫌な予感を押し込めながら歩いていると、横合いから来た誰かと衝突して、転んだ。
「イタッ」
「おっと、すまない。大丈夫か?」
低く落ち着いた声で、相手が手を差し伸べてきた。
見上げると、長身の女騎士が立っていた。精悍な顔立ちに赤みがかった褐色の髪、背には大剣。そして胸は――思わず目が止まる。鎧の胸当ての隙間から、深い谷間が覗いていた。Iカップかそれ以上、確実にそれ以上だ。
俺は差し伸べられた手を取り、立ち上がった。
「すみません。ありがとうございます」
「私の不注意だった。怪我はないか」
女騎士は礼儀正しく言った。しかし次の瞬間、その視線が俺の胸元に落ちた。
表情が、変わった。
「おい。歳はいくつだ」
「……十八歳ですが」
「十八でその胸か」
女騎士の声に、確かな蔑みが混じった。
「貧乳街の人間か?」
「貧乳街……?」
聞き返す間もなかった。女騎士は懐から小瓶を取り出すと、先ほど俺の手に触れた自分の手のひらに、無言で水を注いで洗い流した。
俺が触れた手を、洗った。
「さっさと貧乳街に帰れ。汚らわしい」
それだけ言い捨てて、女騎士は人混みに消えていった。
俺は石畳の上に立ち尽くしていた。
さっきまで礼儀正しかった人間が、胸を一目見ただけで態度を百八十度変えた。汚らわしい、と言った。手を洗った。
◆ ◆ ◆
どこへ行けばいいか分からず、ひとまず人の少ない方へ移動しようとしたとき、前方から数人の男が近づいてきた。
三人。チャラチャラした格好で、いかにもな面構えのならず者たちだ。
「おいおい姉ちゃん、いま十八歳って聞いたぞ」
先頭の男が、ねっとりとした笑みを浮かべた。
「それが何だ」
「この世界じゃあ乳のデカい女が絶対だ。だがな、俺たちゃ乳の小さい女も嫌いじゃないんだよ。むしろ……好みだ」
「は? おい、近づくな。大声で叫ぶぞ」
「ひひひ、叫んだって誰も助けにくるかよ。貧乳に人権なんかねぇんだからな!」
腹に強烈な蹴りが入った。
内臓が口から飛び出しそうな衝撃で、俺は路地裏に弾き飛ばされた。石畳に背中を打ち、肺から空気が一気に抜ける。
「ひひひ、大人しくしてたら可愛がってやるよ」
暗い路地裏で、俺は複数の男に取り囲まれた。反撃しようとしたが、髪を鷲掴みにされ、顔面を殴られ、腹を踏まれた。抵抗しようとしても、この体に戦い方は入っていない。力も、速さも、技術も、何もない。
なんで。
胸が小さいだけで、どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。
そんな理不尽な怒りも、殴られ続けるうちに少しずつ薄れていった。体が言うことを聞かなくなり、抵抗する気力すら消えていく。
男の一人が俺の羽織りの前を掴んだ。
終わった、と俺は思った。
諦めかけた、そのとき。
路地の奥で、何かが動いた気がした。
「お前ら、何をしている」
静かな声が届いた。女の声だった。低く、感情を削ぎ落としたような声。
俺は霞む視界でその方向を見た。
クリーム色の長い髪をした女が、ゆっくりと歩いてくる。長身で、引き締まった体。腰には短剣。ボロボロの羽織りをまとっているが、その目だけが鋭く、路地の暗さの中でも光って見えた。
そして胸は――俺とたいして変わらなかった。
「ひひひ、その身なり、お前も貧乳街の奴か。仲間を助けに来たのか?」
「ついてるぜ。二人まとめて頂いちまおう」
「……クズどもが」
女はぼそりとそう吐き捨てた。
次の瞬間、彼女は動いた。
目で追えなかった。腰の短剣の柄が男の顎を打ち、肘が鳩尾に入り、足払いが脚を刈った。三人が路地に倒れるまで、おそらく二秒もかかっていない。
女は乱れた髪を払い、俺を見下ろした。
「君、大丈夫か。名前は」
俺は乱れた服を直しながら、膝に手をついて呼吸を整えた。
「助けていただき……ありがとうございます。名前は……えっと」
そこで詰まった。元の名前は柏木凛太郎。どう考えても男名だ。今の体で名乗るのは無理がある。
「……自分の名前も分からないのか。殴られて記憶が飛んでいるのか」
「すみません。ここがどこかも、分からなくて」
女はしばらく俺を見つめてから、小さく息をついた。
「ふぅ……そうか。一つだけ言っておく」
彼女は手を差し伸べなかった。ただまっすぐに俺を見て、言った。
「私はお前に手を貸さない。どんなにつらくても、この世界では自分の力で立つしかないんだ」
一拍おいて、続ける。
「だがもしお前が自分の力で立って、自分の足で私の後についてこられるなら……そのときは、手当てしてやる」
それだけ言うと、彼女は踵を返し、路地の奥へと歩いていった。
俺は痛む腹を押さえながら、自分の手を見た。震えている。膝も笑っている。頬は腫れ、口の中に鉄の味がした。
それでも。
俺は歯を食いしばって立ち上がった。
行くあてはない。この世界のことも分からない。名前すら失った。だが立ち止まれば、さっきの男たちがまた来るかもしれない。それ以上に――あの女の背中から、目が離せなかった。
俺はよろめきながら、その後を追った。
暗い路地に、二人分の足音が続いた。
俺にはまだ、何もない。名前も、力も、この世界での居場所も。
あるのはただ、前を歩くあの女の背中だけだった。




