7.こんなの、絵じゃない
「あっ」
エントランスに出てきた同級生達に気が付くと、アンリはホッとしたように微笑んだ。
「おはようございます。皆さん」
扉が開き、まぶしい朝の光と一緒にアンリの全身が明らかになる。
明度が微妙に違う灰白色のシャツとスカートの組み合わせに、薄い水色の上着を羽織っている。
昨日よりもアンリが儚げに見えたのは、淡い色合いと飾り気のない服装のせいだとフィモネは思う。しかし、すぐに違うと気が付いた。元から白かった肌が、さらに色味を失っている。よく見ると、銀色に輝く髪も軽く乱れていた。
さらに、アンリは背中からはみ出すほど大きな荷物を背負っている。布に包まれた荷物は薄い長方形。芸術科の学生なら、それだけで荷物が何なのかは簡単に想像できた。
「学校じゃなくて寮に来るなんて、何かあったの?」
「まっすぐ学校に行くつもりだったんですけれど、お姉ちゃんが『寮によったら良い事があるよ』って言われて、気になって寄ってみたんです」
不思議そうに尋ねるマルタンに、アンリは苦笑いを浮かべて答えた。
「そうなんだ。お姉さんって、魔術科のミティルさんだよね?」
「はい」
アンリの姉であるミティル・デューディーは、学年が三つ上の魔術科の学生だ。
魔術科での成績は入学時からいつも一位、それどころか魔術についての研究では王家直属の魔術機関からも評価される論文を次々と発表するなど、早くも学生とは思えないほどの成果を残している。異例すぎるアンリの逸話の陰に隠れてしまっているが、ミティルも数十年に一度の逸材と言われるほど将来を期待されており、魔術科ではない新入生にも名前が知れ渡っている。
「お姉ちゃんは近ごろ星図占いに興味を持っていて、勝手に占ってくるんですよ」
アンリが唇をとがらせながら答える。今まで見せた事のない表情だ。
「あ、知ってる!星の並びで運命を占うってやつだよね。でも、占いって魔術なんだっけ?」
「リュオンの魔術協会の定義には当てはまらないみたいです。でもお姉ちゃんは、昔は存在していた未来予知が変化して、魔術師じゃない人達に広まったのが星図占いなんじゃないかって考えて研究しているみたいで……あっ、ごめんなさい。よく分からないですよね」
全員の表情が強ばっているのに気が付いて、アンリはあわてて謝った。
「ううん、こっちこそごめんね。何せ私達、芸術科だし」
「いえ、お姉ちゃんの話は魔術科の人でも難しいと思います。占いだって、本当に当たっているのかどうかも分からないし。だけど寮はそんなに遠回りじゃないから、寄らせてもらおうって思ったんです」
「そうだったのね。でも、アンリさんにとって良い事なんてあったかな?」
マルタンが困っていると、横で聞いていたコレットが声を出す。
「ひょっとして、フィモネさんの絵の事じゃないの?」
「え、フィモネさんの絵ですか?」
「そうか!今ね、ロビーでフィモネさんが描いた絵を見ていたの。すごく上手でみんな驚いていたんだけど、確かに学校じゃ見られないし、良い事かも知れないわ」
「はいっ、それは見せてほしいです!すごく!」
色が抜けていたアンリの頬に赤みがさして、一番後ろにいたフィモネに視点をさだめる。
顔色の悪さとは反対に、彼女の瞳だけはいつにも増して輝いているようだった。フィモネは妙な迫力を感じて、思わず身をすくめる。
「良かったねアンリちゃん。フィモネちゃんも構わないでしょう?」
「う、うん……」
「よしっ、」
すぐに後ろを向いて歩きだしたコレットを先頭に、アンリを加えた一〇人はロビーに戻った。
「ふぉわーっ!」
水彩画を一目見たとたんにアンリは珍しい声をあげ、円卓に突進する。
「すごいですっ!神秘的で、細やかで、奥行きがあって……ど、どうしよう、言葉が見つかりません!こんな見事な絵、たった一晩で描いたんですか?」
「正しくは夕食前らしいよ。ね、フィモネさん」
「は、はい」
「ふぉええーっ!?」
アンリはさらに大きな声をあげると、離れた場所で恐縮しているフィモネに近づく。
襲いかかってきそうな勢いに思わず後ずさるフィモネだったが、アンリは逃がすまいと足を速め、ぐっと顔を寄せてきた。
「ふーっ。さすがですっ……いやっ、そんな言い方は失礼ですよね!あのっ、えっと、ごめんなさい、ちょっと混乱していて……どうしてこんな絵が描けるのか、すっごく不思議で……ふーっ」
鼻息がかかりそうなほど近い距離で、意味があるのかどうかも分からない言葉を早口でまくしたてるアンリは、今までとは別人のようだった。
「や、やめて下さい!私の方こそ、アンリ様にそんな事を言っていただけるなんて……えっと、その、恐れ多いというか……」
ずっとアンリを尊敬していたフィモネにとって、今の状況は事故にあったにも等しい衝撃だった。頭がまっ白になって、どう対応すれば良いのかも分からない。
「あ、あのさ……とりあえず、その背中の荷物を置いたら?」
「そうだよ。重たいでしょ」
アンリを、というよりもフィモネを心配したマルタンとコレットが口をはさむ。アンリは冷静になり、あわててフィモネから距離をとる。
「そ、そうですね!すいません、取り乱しました」
顔を赤くして、いそいそと肩から斜めにかけた布の端をほどく。そして、背負っていた荷物を近くの壁に立てかけた。
「その荷物って、もしかしてカンヴァスじゃない?」
「はい。私も大釜の絵を描いたので、見てもらおうと思って」
アンリが笑顔でこたえると、静かなどよめきが起こる。
フィモネも、その言葉を聞いて思わず息をのんだ。
目の前にあるのはアンリの絵。国の未来に影響するほどの期待を捨ててまで、芸術の道を選んだ人の絵だ。ここまで人が描いた絵が気になったのは、フィモネにとっては初めてだった。
周りの同級生や上級生も同じらしく、布で覆われたカンヴァスに目が釘付けになっている。
「ねえ。その絵、良かったら見せてくれない?」
マルタンがおそるおそる声をかける。アンリは一瞬きょとんとした後、恥ずかしそうに下を向いた。
「そうですね。フィモネさんの絵を見せてもらった後では、余計に恥ずかしいですけど……でも、お願いします」
フィモネは自分の胸の鼓動が早くなり、全身にじわりと汗がにじむのを感じた。
アンリが布の上に手をかけ、ひらりと振り下ろす。
薄い布がゆっくりと舞いながら床に落ちる。その姿を目の当たりにした時、フィモネの胸の奥で激しい波が立った。
木の枠と薄い板に紙をはったカンヴァスに描かれているのは、フィモネと同じ大釜の中の風景……のように見える。
しかし、その描写はフィモネとは正反対と言ってもいい。
景色を彩る多様な草花や鬱蒼とした木々の形は、単純という言葉でも足りないほどあっさりと描かれている。もしも誰かが「太い筆をカンヴァスに叩きつけただけ」などと言っても、乱暴な表現だとは思われなかったかも知れない。
さらに不思議なのは、使われている色だ。様々な植物で覆われた緑地帯にも関わらず、アンリの絵には緑と呼べる色が一色も使われていない。
草原は彩度の異なる黄色を中心に、わずかに濃い青色がアクセントのように使われている。散りばめられた小さな桃色や紫色の斑点は、花を表わしているらしい。
森の木々を彩るのは藍色や群青。わずかに除く空は、なぜかうっすらと赤く塗られている。「大釜を描いた」と言われていたとはいえ、一目で何が描かれているのか分かったのが不思議なくらいだった。
アンリ以外の全員が、言葉もなく立ち尽くしている。どう言い表せば良いのか、誰もが迷っているようだった。
想像を超える絵である事は間違いない。
しかし、それは……。
「完成するまで、どれくらい時間がかかったの?」
不自然な間を埋めようと思ったのか、マルタンが尋ねた。
「家に帰ってすぐに描き始めたんですけど、皆さんに見せるって思ったら心配で……明け方までかかっちゃいました」
「明け方?それっておそむぅっ?」
マルタンが素早く手を伸ばして、コレットの口をふさぐ。マルタンは取り繕うような笑顔をアンリに向けたが、言葉が出てこない。
ロビーに気まずい沈黙が漂い始めた、その時だった。
「こんなの、絵じゃない」
震える声が響き、ロビーに立ち込めていた空気が凍りつく。
一〇人以上の学生達の反応は様々だった。恐怖で思わず表情を歪める者。逆にどんな顔をしたら良いのか分からず、おろおろと周りを見回す者。信じられないとでも言いたげに、声を発した人を見る者……。
彼女達の視線の先にいるのはフィモネだった。もちろん、それは彼女が今の声を発した張本人だったからだ。
フィモネはそんな事も知らないかのように、じっとアンリを見つめている。




