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9.神様が、そう描けとおっしゃった

確かに、自分にも描く事が好きだった時期があった。


 周りの同級生達にとっては当たり前の事を、フィモネは少し前まで思い出せずにいた。アンリの絵を見なければ、この先も忘れたままだったのかも知れない。


 その方が良かったというのが、今のフィモネの正直な思いだった。


 ……幼い頃のフィモネは父親と二人で暮らしていた。


 父親の名前はライル・ファティナ。職業はいちおう絵描きだが、絵画の注文をくれるパトロンは一人もいなかったらしく、近所の店を手伝ったり、求められれば看板の絵を描いたりして、何とか親子二人の生活を成り立たせていた。


 母親はカーラという名前だったが、フィモネが物心ついた時にはこの世にはいなかった。優しさと美しさを兼ね備え、その上に明るくて行動力のある人だったという。


 メーシェル家という名家のご令嬢で、とても絵が好きだったらしい。ただし彼女は自分で描くのではなく、見る方に強い関心を持っていた。


 どういうきっかけだったのかは分からないが、彼女はライルが描く絵をいたく気に入り、彼の制作を支えたいと申し出てくれたそうだ。そうして出会った二人は、やがて応援する者とされる者から互いに惹かれ合う関係へと変わっていったのだと、本人はどこか得意げに話していた。


「ふーん」


 そんな父親に、娘はいたって冷めた反応をよこした。


 ライルの外見はお世辞にも良いとはいえず、家事も大工仕事もフィモネに任せた方が安心できるほどの不器用者で、世間的に魅力のある父親のイメージとは程遠かった。だからフィモネは半分くらいは疑いながら話を聞いていたが、残りの半分では「本当にそうかも知れない」と思っていた。 


 理由は一つ。カーラが絵が好きだと聞いていたからだ。


 ライルは絵画の仕事には恵まれていなかったが、だからと言って制作意欲が衰える事はなかったらしい。仕事の合間やフィモネが部屋で大人しく遊んでいる間など、少しでも自由な時間があれば絵を描いていた。


 その時のとても真剣な、あるいは楽しそうな表情は、幼いフィモネにも魅力的に見えた。


 庭の餌箱に珍しい鳥が降り立つと、フィモネは描いて欲しいとライルにせがんだ。すると彼はあっという間に、ほんの一瞬見えただけの鳥を紙の中に出現させた。木炭や絵筆を持っている時の父親は特別で、まるで魔術師みたいだった。


 フィモネがそんなライルをまねるように絵を描き始めたのは、当たり前だったのかも知れない。


 初めのうちは頭に思い描いた通りに表現する事ができず、もどかしい思いを抱えていた。しかし絵を描く父親の動きを注意深く観察し、夢中で手を動かすうちに、そんな苦しさは感じなくなっていった。その代わりに、彼女の心の中は一つの思いで満たされていった。


「私、絵が好きだ」


 いつの間にか、フィモネは目に映る物を本物そっくりに写しとれるようになっていた。庭の植物や昆虫、餌箱を気まぐれに訪れてはすぐに飛び去っていく鳥の姿まで。

 

 それは普通の人であれば、何年も必死に描き続けてようやく身につく技術のはず。しかし当時のフィモネはそんな事など知らず、文字の読み書きや数字の計算を覚えるように……いや、もっと自然に画力を育んでいった。絵を見せるたびにライルが感激してくれるのも嬉しくて、もっと彼を喜ばせたいという思いも彼女の創作意欲を刺激した。


 急速に身についたのは技術だけではない。同時に絵を見る目も養われていったフィモネは、ある時ふと疑問を感じた。


「ねえ。お父さんはどうして変わった絵を描いているの?」


 ある日、その疑問をまっすぐに父親にぶつけてみた。

 

 その頃のライルは身近なところに画題を求めて、風景画や肖像画を描く事が多かった。


 しかし彼が描く絵は、誰もがほめる内容とは程遠かった。描写が極端に単純だったり、あるいは一部が妙に誇張されていたりと、不思議な印象を抱くものがほとんどだ。モデルを買って出たライルの知り合いが完成した絵を見て怒り出す場面を、フィモネも何度も目撃していた。


 ライルの作品の他にフィモネが絵画に触れる機会があったのは、同じ町にある教会だった。決して大きい建物では無かったけれど、中には教典の有名な場面や聖人の肖像を描いた絵がたくさん飾られていたり、あるいは漆喰の壁に描かれていたりして、フィモネは礼拝の度にそれらを眺めるのが楽しみだった。


 それぞれの絵のテーマやモチーフは違っていても、どれもが細やかな筆づかいで、風景や人物が劇的に表現されている。


 世の中の「美しい絵」というのはこういう絵の事なんだろうと、フィモネは何となく思っていた。実際、彼女はテンペラで描かれた聖像を前にうやうやしく礼拝をする人や、フレスコの天井画を仰いで涙を流す人を何人も目にしていた。


 ライルが「我が家の財産」と呼び、狭い家を圧迫している彼の絵画の中には、対象を忠実に描いたものもあった。むしろ表現の美しさや正確さやは、教会の絵とは比べ物にならないほど優れている。フィモネはそれを知っていたから、余計に気になったのだ。


「変わった絵か。うーん……確かに」


ライルは描きかけだった自分の絵を見ながら苦笑し、少し考えた後でニヤリと笑った。


「神様が、そう描けとおっしゃったからかな」

「神様が?」


 ああ、と言ってうなずくライルを前に、フィモネは首をかしげる。彼女の頭の中には、教典に登場する威厳や慈愛をたたえた神々が浮かんでいた。


「今、教会の絵で見た神様を思い浮かべているだろう?」

「えっ!」


 心の中を見透かされて、フィモネはどきりとした。


「あちらの神様達も、沢山の人を救ってくださる素晴らしい存在だ。だけど、神様は教典や導司様のお言葉の中にいらっしゃるとは限らない。その御姿だって、教会の絵に描かれている通りのものばかりではないんだよ」

「それって、神様はたくさんいらっしゃるって事?」

「そうとも言えるね。だけど正確に言うと……うーん……一人一人の中に、自分だけの神様がいるって事かな」


 ライルの言葉の意味はよく分からなかったけれど、大事な話をしている事は伝わってきた。だから意味が分からない事が余計に嫌で、泣きそうな顔になってしまう。


「あ、ごめん。そう言われたって困るよな……まあ、自由に描けば良いって事さ。風景も、人の顔も、神様の御姿だって」

「本当に自由に描いていいの?そんな事をしたら、おかしいって思われるんじゃないの?」


 「いいんだよ」と、ライルは力を込めて言った。


「誰からもおかしいと思われない絵は、他の誰かにも描ける絵だ。そんな絵しか描けなくなるくらいなら、絵描きなんて目指さなくても良い」


 きっぱりと言った後で、ライルはなぜか照れ臭そうにはにかんだ。


「……ってね、とある人に言われた事があるんだよ」

 

 はっきりとは言わなかったが、フィモネはそれがカーラのような気がした。


「じゃあ、お父さんはその神様の言う事を守っているんだね」

「……ああ」


 ライルはこくりとうなずいた後、天を仰ぐように顔を上げた。


 この会話をきっかけに、フィモネの絵は大きく変わっていった。


 それまでの彼女が描く絵は、あえて悪い言い方をするなら「お行儀が良い絵」だった。百人が見れば百人が「素晴らしい」「すごく上手だ」などとほめるような、だけどそれ以上の特徴は無い絵。


 そういう絵を描けば、ライルが喜んでくれるのだと思っていた。だけど「神様」の話をしてからは「楽しい」「美しい」と自分が感じるような絵を描く事を意識するようになった。


 初めのうちは今までのスタイルを恐る恐るはみ出そうとしている感じが伝わってきたが、それもすぐに無くなり、別人のように思いきった絵を描くようになった。


 あれこれと考えるよりも、自分の感覚に正直に。そうやって描くうちにフィモネはもっと絵が好きになり、少しでも時間があれば夢中で手を動かすようになった。すぐにライルだけでなく、フィモネの作品まで狭い家を圧迫するようになっていった。


 ……それくらいの頃だった。親子二人の家に、珍客が転がり込むようになったのは。


「いやあ、むさ苦しい家やなあ!ほとんど絵に占領されとるし……早う何とかせんと、そのうち娘さん愛想つかせて出ていきよるで」

 

 よみがえってきた鮮明すぎる記憶に、フィモネは思わず身震いをした。

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