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時計の針が逆回る村 〜過去と未来の間で見つけた本当の私〜

作者: 星空モチ

都会の喧騒が杏の脳裏に刻まれていた記憶は、今や遠い過去のものとなっていた。


東京での最後の日、彼女は窓の外を見つめ、高層ビルの谷間に沈んでいく夕日を眺めていた。そこには彼女の影だけがあった。


「もう、限界かもしれない」


杏は28歳。IT企業でのウェブデザイナーとしての仕事は、彼女の創造性を少しずつ奪っていった。


毎日同じルーティン。画面を見つめる目は疲れ、心は空っぽになっていく。


SNSには笑顔の自撮りを投稿し続けていたけれど、その裏では涙を流す日々。


杏の心は、誰にも見せない場所で静かに崩れていたんだ。


そんなある日、彼女は偶然ネットで見つけた古民家の広告に目を奪われた。


「緑豊かな山間の村で第二の人生を」


背景に広がる山々の緑、朽ちかけた木造の家屋、そして何より静けさを感じさせるその写真は、彼女の魂に直接語りかけてきたようだった。


「ここなら、きっと…」


翌週には早速、杏は荷物をまとめ、電車に乗った。


窓の外を流れる風景は、高層ビルから街並みへ、街並みから田園風景へ、そして最後は深い緑の森へと変わっていった。


「こんなに近くに、別世界があったなんて」


杏の唯一の友人とも言える愛猫のミルクは、キャリーケースの中で眠りについていた。


10歳になるそのシャム猫は、杏の孤独な都会生活の唯一の慰めだった。


彼女は猫の頭をそっと撫でながら、新しい生活への期待と不安を胸に秘めていた。


終点の駅で降り、バスに乗り換え、さらに山道を歩くこと30分。


迷いながらも、地図アプリを頼りにようやく辿り着いた先には、写真で見た以上に味わい深い古民家が佇んでいた。


板の一部が朽ちかけ、屋根の苔も目立つが、それが逆に杏の心を和ませた。


「私の新しい家…」


重い木の扉を開けると、埃の舞う空間が広がっていた。


古い畳の香り、木の梁のぬくもり、そして静寂。


杏は深呼吸をすると、胸の奥に溜まっていた重圧が少しずつ解けていくのを感じた。


「ミルク、ここが私たちの新しい家よ」


キャリーから出されたミルクは、警戒しながらも好奇心いっぱいに家の中を探検し始めた。


古びた柱時計が、かすかに時を刻んでいた。


その音は、都会では決して聞くことのなかった、優しいリズム。


「時間が、ゆっくり流れていく…」


その日から、杏の新生活が始まった。


埃を払い、家具を配置し、庭の雑草を取り除き、少しずつ家に命を吹き込んでいく。


村の人々は驚くほど親切で、野菜や保存食を持ってきてくれる人、家の修繕を手伝ってくれる人、杏を村の集まりに誘ってくれる人…。


「都会では考えられないわ」と杏は頬を緩めた。


夜、灯油ランプの柔らかな明かりの中、杏は日記を書いていた。


「今日で移住して2週間。昨日よりも今日、今日よりも明日が楽しみになる。この村には不思議な魔法がかかっているのかもしれない。時間が逆に流れているみたい…今朝、確かに咲いていた庭のバラが、夕方には蕾に戻っていた気がする。気のせいかな?でも、そんな不思議も含めて、ここでの暮らしが愛おしい。」


杏にはまだ気づいていなかったが、この村では本当に時間が逆行していたのだ。そして、それが彼女の人生を根底から変えていくことになる——。


挿絵(By みてみん)


翌朝、杏は不思議な違和感とともに目を覚ました。鏡に映る顔が、昨日より若く見える気がする。


「疲れが取れたからかしら?」と首を傾げながらも、彼女は朝の光に照らされた庭に出た。


「あれ?」


昨日植えたばかりのトマトの苗が、土の中に戻っていた。掘り返してみると、そこには種が。


困惑する杏の横を、ミルクが駆け抜けた。その姿は明らかに若々しく、体も小さくなっていた。


「ミルク…?」


頭を抱える杏の前に、突然、隣家の老婆が現れた。


「来たね、時間の子」と老婆は微笑んだ。


「時間の…子?」


「この村には古くから伝わる言い伝えがあるのさ。心に傷を抱えた者が来ると、時間が逆行し始める。あんたの傷を癒すためにね」


杏の瞳に、昔の記憶が蘇る。大学時代の挫折、初恋の失敗、それを埋めるように没頭した仕事。そして次第に失われていった自分らしさ。


「でも、どこまで戻るの?」と杏は恐る恐る尋ねた。


「それはあんた次第さ。過去に戻ることで見つけたいものがある。それが見つかれば、時は正常に戻る」


老婆はそう言うと、静かに立ち去った。


その日から、杏は村での日々をより意識的に過ごすようになった。


日記には毎日の変化を記録し、自分の体の若返りや村の様子を細かく観察した。


28歳だった彼女の体は日に日に若返り、今や25歳ほどの姿に。肌のハリは戻り、忘れていた感覚が蘇っていく。


ある夕暮れ、杏は古い納屋で一枚の写真を見つけた。


それは彼女がかつて夢見ていた絵本作家としての自分。大学時代に描いたイラストと共に写っていた笑顔が、まぶしかった。


「私、いつからこんなに笑わなくなったんだろう」


明け方、杏は決意した。


「私の求めているのは、失った時間じゃない。失った自分自身なんだ」


彼女は日の出とともに、庭に一本の木を植えた。


「これが私の新しい時間の始まり」


杏には分からなかったが、その瞬間、村の時計の針が、ほんの少しだけ、正しい方向に動き始めていた——。


挿絵(By みてみん)


日が経つにつれ、杏の体は20代前半の姿へと戻っていった。肌はみずみずしく、髪は艶やかに。記憶は不思議と現在のままだが、感情は若々しさを取り戻していた。


ミルクも今や生後半年ほどの子猫となり、かつての落ち着きはどこへやら、家中を駆け回るようになっていた。


「この村に来る前の自分には、もう二度と戻りたくない」


杏は古い納屋を作業場に改造し、かつての夢だった絵本制作を再開していた。


筆を持つ手は少し震えていたが、色を重ねるごとに自信を取り戻していく。まるで時間と一緒に、忘れていた才能も逆流してきているかのように。


村の風景も少しずつ変わっていた。新しく建てられていた家々が消え、古い建物が甦り、森はより深く豊かになっていく。


「この村、いったいどこまで過去に戻るのかしら」


ある日、杏が村の小道を歩いていると、見知らぬ少年と出会った。


「あなたも『時間の子』?」と杏が尋ねると、少年は微笑んだ。


「僕はトキオ。50年前に来たんだ」


驚く杏にトキオは続けた。


「この村には時間を逆行させる力がある。でも、それには代償がある」


トキオの話によれば、時間が逆行するのは、自分自身と向き合い、過去の傷を癒すチャンスを与えるため。だが、その過程で大切なことに気づかなければ、時は永遠に逆行を続け、やがて存在そのものが消えてしまうという。


「僕はずっと過去に囚われていた。だから50年も戻り続けている」


その夜、杏は激しい動悸で目を覚ました。枕元のカレンダーは既に10年前の日付を指している。


窓から見える村の風景は、さらに原始的になっていた。電線は消え、道路はより細く、森はより広がっていた。


「このままでは、私も…消えてしまう?」


杏のスマートフォンの電源を入れると、驚くべきことに過去の自分からのメッセージが届いていた。


「杏、これを読んでいるのは過去の私自身のはず。急いで。時間が残り少ないわ」


メッセージは続いていた。村の奥にある古い神社の扉を開け、そこで自分自身と向き合うようにと。


「すべての答えと、選択肢がそこにある」


杏は決心した。翌朝、神社へ向かうことを。でも彼女はまだ気づいていなかった——自分の体が、今や10代の少女のものになっていることに。


そして彼女の前に広がる道は、想像以上に険しいものになるだろうということを——。


挿絵(By みてみん)


朝霧の中、幼い少女となった杏は村外れの古い神社へと足を運んだ。ミルクは今や生まれたばかりの子猫のようで、小さな鳴き声を上げながら彼女の後を追った。


神社の朱塗りの鳥居をくぐると、不思議な静けさが辺りを包んだ。時が止まったかのように、風も鳥の声も消えていた。


「ここが…答えのある場所」


杏が本殿に近づくと、そこには大きな古時計が置かれていた。針は逆回りに動き、周囲には様々な年齢の「自分自身」が立っていた。


幼い杏、10代の杏、20代の杏、そして都会で疲れ果てていた28歳の杏まで。


「私たちは皆、あなた自身」最年長の杏が語りかけた。


「この時計は村の魂。心に深い傷を抱えた人が来ると、時間を逆行させて癒しの機会を与える」


「でも、なぜ私が?」


「あなたは自分自身を見失っていた。夢を諦め、創造性を忘れ、孤独の中で生きていた」


杏は思い出した。絵本作家になる夢、それを「現実的ではない」と諦めた日のこと。ITデザイナーとしての成功の裏で、少しずつ失われていった本来の自分。


老婆の言葉が蘇る。「過去に戻ることで見つけたいものがある。それが見つかれば、時は正常に戻る」


「私が見つけるべきものは…」


杏は庭に植えた木のことを思い出した。あれは単なる木ではなく、彼女の新しい始まりの象徴だった。


「失われた時間じゃない。失われた自分自身」


その瞬間、古時計の針が激しく震え、逆回転から一瞬止まり、そして正しい方向へとゆっくり動き始めた。


杏の体から光が放たれ、様々な年齢の自分たちが一つになっていく。


光が収まると、そこには再び28歳の杏の姿があった。しかし、その瞳は以前とは違い、希望と創造性に満ちていた。


「私は…全ての自分自身を受け入れた」


杏が古民家に戻ると、そこには不思議な変化が。納屋のアトリエには彼女の描いた絵本の原画が飾られ、出版社からの手紙が置かれていた。


「あなたの作品に感銘を受けました。ぜひ出版させてください」


そして、ミルクは再び10歳の年老いた猫の姿に戻っていたが、その動きは若々しく、目は輝いていた。


「私たちみんな、過去と現在、両方の良さを持っているのね」


村の時間は正常に戻り、花は咲いては散り、木々は成長し、人々は老いていった。しかし、その流れは以前ほど速くはなく、杏が感じるほどゆっくりとしていた。


それから数年後、杏の絵本「逆行時間の村にて」は多くの人々に読まれるようになった。都会で忙しく生きる人々に、時間の大切さと自分自身と向き合うことの意味を伝える物語として。


村にはときどき、「時間の子」と呼ばれる新しい人々が訪れた。その度に杏は、トキオのように彼らを導く役目を担った。


「この村は魔法の村じゃない。あなたの心が作り出した、自分と向き合うための場所なのよ」


最後のページをめくると、杏の日記の一節があった。


「時間は戻らない。でも私たちは、どんな瞬間でも新しい始まりを選ぶことができる。過去も未来も大切だけど、一番大切なのは、今この瞬間を自分らしく生きること。それが本当のスローライフなのかもしれない」


夕暮れ時、杏は庭に植えた木の下で微笑んだ。その木は今や大きく育ち、強い枝を伸ばしていた。ちょうど、彼女自身のように——。


時計の針は、正しい方向に、しかしゆっくりと、幸せな時を刻み続けていた。

~ あとがき ~


こんにちは、皆さん! 『時計の針が逆回る村』を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。この物語は、忙しい日常に追われる現代人の心に少しでも安らぎを届けたいという思いから生まれました。


実は、杏のキャラクターは私自身の経験からインスピレーションを受けています。都会での慌ただしい生活に疲れ果て、「本当に大切なものって何だろう?」と考えていた時期がありました。スマホを手放して田舎町に移住…とまではいきませんでしたが、週末だけ自然の中で過ごす小さな習慣が、私の心を救ってくれたんです。


執筆中、最も苦労したのは「時間逆行」という非現実的な設定と「スローライフ」というリアルなテーマをどう融合させるか。当初は、村の時間が単に遅く流れるという設定でしたが、「それじゃあ面白くない!」と思い切って逆行させることにしました。冒険でしたが、この決断で物語の深みが増したと思います。


愛猫家の方にはミルクの存在に共感していただけたでしょうか? 実は我が家のめいちゃん(15歳!)を参考にしています。彼女が若返ったらどんな姿だろう?という妄想から生まれたキャラクターです。老猫の知恵と子猫の好奇心、両方持ち合わせた不思議な存在を描くのは楽しかったです。


トキオというキャラクターは、執筆途中で突然現れました。最初の構想にはなかったのですが、「杏を導く存在が必要だ」と思った瞬間、彼の姿が頭に浮かんだのです。創作って不思議ですね!


この物語を通して伝えたかったのは、「今を生きる大切さ」。過去に戻れたとしても、大切なのは今この瞬間をどう生きるか。SNSやニュースに振り回され、未来の不安や過去の後悔に囚われがちな私たち。でも、本当の「スローライフ」とは時計の針の速さではなく、心の持ち方なのかもしれません。


どこかに、時間が逆行する村があったら素敵ですね。でも、実は私たちの心の中にも、そんな村を作ることができるのかもしれません。


皆さんの日常に、ほんの少しでも彩りや癒しを加えられたなら嬉しいです。次回作では「星空の見える灯台町」という舞台で、また新しい物語をお届けする予定です。それまで、どうぞお元気で!またお会いしましょう!


スローに、でも確かに前へ進む毎日を。

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